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取り締まりを受ける側から取り締まる側へ

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 夏美は、一ノ瀬のマンションを思い出しながらたどり着く。半分同棲していたようなものだったから、忘れずにたどり着けたのだ。

 玄関チャイムを念のため押す。平日の昼間だろうから、おそらくいないはず。合いかぎは玄関扉の新聞受けの上部にいつもガムテープでくっつけてあるから、それを使って入ってもいいのだけど、それならまるで空き巣みたいになるから。今は加藤夏美の姿ではないからね。

 意外にも、玄関扉は開き、一ノ瀬が顔を出す。

 「どなたですか?」

 「あのぉ……信じてもらえないかもしれないですが夏美です。加藤夏美です。ご無沙汰しております。」

 「……、夏美だという証拠はありますか?」

 「いいえ、でも、台所収納庫の中に夏美のスマホを入れて帰りました。見た目があまりにも変だから不振に思われても仕方ありません。」

 「あの後、居場所を必死になって探したけど、見つからなくて、そのうち警察の方が見えて……、どんな形にせよ。たとえ魂としてでも戻ってきてくれて嬉しいよ。中に入って。」

 「信じてくれるの?」

 「夏美しか知らないことを言い当てたからね。」

 そう言って、スマホを夏美の前に出す。

 「実は、これを正彦さんに見てもらいたくて……。」

 「あ!その言い方、確かに……夏美っぽい。」

 スマホからSDカードを抜きだし、パソコンに仕込むと、みるみる一ノ瀬の顔色が変わっていく。

 「どこで、これを……?」

 「今から4か月か5か月ぐらい前に、ひとりで残業しているとき、偶然見つけてしまったのよ。私の前任者だった事務の女性も三枝に殺されたらしいわ。別にこれを見つけたから、殺されたわけではなく、女子社員の中で三枝が気に入った女性を自分の部下にして、それで殺しているみたいなの。」

 三枝に犯されたことをそれとなく隠しながら言う。

 「この裏帳簿が原因なら、わかるけど……、それとは別に気に入った女性を殺すだなんて、信じられないような……?で、今、君は実体があるのかい?」

 「三途の川の手前に女神様がいらして、もう一度別人のカラダに入り、人生をやり直してみないか?とおっしゃってくださったのよ。とても信じられないことに、今は北原くららという経産省の役人のカラダを借りて、正彦さんに会いに来たのよ。」

 「この裏帳簿を表ざたにして、私はもう一度、三枝と対峙してみる。どうして、正彦さんは、平日の昼間に会社へ行かず、ここにいるの?」

 「夏美がいない会社なんて、クリームを入れないコーヒーのようだ。……とは冗談だけど、CPAの勉強を本格的にしようと思って、今さら、日本の公認会計士を取っても、加藤会計事務所が雇ってくれるかどうかもわからないけどさ。」

 「お父さん……、……今頃、確定申告で忙しいだろうな。」

 「北原って、あの事務次官の北原さんのお嬢さん?ということ?」

 「そうなの、ワクチン注射でショック死されたカラダに入ったのよ。今度は、国家権力を武器に取り締まる側に回りたいと言ったら、ちょうどこのカラダが空いていてね。25歳だから、同い年のはずよ。」

 「くららさんに彼氏はいるの?」

 「たぶん、いないと思うわ。経産省一のカタブツなんだって。ふふふ。」

 「へぇ、そんな美人なのに、よくみんなほっとくな。ウチの会社なら、とっくにお持ち帰りされているだろうに。」

 「きっと、お父さんが事務次官でコワイからかもしれないわ。」

 「事件が一件落着したら、また付き合ってくれる?」

 「もちろんよ、私には正彦さんしかいないもの、だから、お手伝いさんやお母様の目を盗んでここへ来たのよ。」

 「そう言えば、今は何処に住んでいるの?」

 「世田谷区よ。今日はバーゲンへ行きたいと言って、来たの。」

 「では、これからバーゲンにでも行ってみますか?アリバイは成立させないと意味がないしね。」

 「ありがとう、とりあえず渋谷へ行ってみるわ。そういえば、新居は表参道になる予定だったけど、あのマンションどうなった?」

 「とりあえず、手付は払ったから、まだそのままにしてあるよ。ローンを払わないと買えないから、やっぱ、合格までは会社があってくれたほうが嬉しいよ。」

 夏美は以前住んでいた自分のマンションも解約されたかどうか気にはなったけど、今日は時間がない。

 バーゲンで、いろいろ買って帰宅すると、もう父が帰っていたのだ。心配そうな顔をしていたから、「ごめんなさい。」と謝る。

 そして、父の前に一ノ瀬のマンションから持ってきたSDカードを差し出す。

 「ヨーロッパにいるとき、タレコミがあったことを思い出したのよ。」

 パソコンに電源を入れ、差し込むと、父の顔色がみるみる変わっていき、

 「くらら、でかした!さすがは、俺の娘だ。転んでもタダでは起きないな。しばらくは、これは俺が預かる。」

 父から、やっと認めてもらえて、次の週の勤務日から出勤が認められたのだが、部署の場所も自分の机もわからない。

 これで籠の鳥生活も終わりになることは嬉しいが、どうも他人のカラダに入っているので不便である。

 出勤は、父の車に同乗させてもらい経産省までは行けるが、その後が問題なのである。父は、同期入省で同じ部署の木下さんという男性をつけてくれたので、助かる。

 木下さんと以前のくららは犬猿の仲で、ライバル関係にあったらしい。それでも父からの命令を拒否することは、コースから外れたいと言っていることと同然なので、渋々、面倒を見てくれる。

 「おはようございます。今日はよろしくお願いします。」

 頭を下げ、木下さんに挨拶をすると目を丸くされ、

 「北原、本当に記憶がないのか?」

 なぜか驚かれる。だって、父から説明を受けてたでしょ?私は、くららさんとは別人格なんだからね。

 くららの職場は、経済産業省貿易経済協力局貿易安全管理部貿易管理安全保障振興課という長ったらしい名前のところ、こんなの一回では覚えきれないわ。

 お部屋を案内してもらうと、机が木下さんの隣で、くららのほうが上席位置に見える。女に負けているとあって、木下さんは不機嫌そのもの。

 トイレと給湯室、自販機の在りかを聞き、課の皆さんのためにお茶を沸かす。

 そして課の皆さんが出勤してきたところを見計らい、順番に机の上にお茶を出しながら、ワクチン副反応と記憶障害で休んでいたことの詫びを入れ、今後ともよろしくお願いしますと挨拶をしていく。

 皆、一様に驚いたような顔をされるが、その笑顔は引きつりながら、必要以上の会話はない。そして、出された机の上のお茶とくららの顔を交互に見ている。

 経産省って、こんなところ?普通の会社なら病欠で復帰してきたら、みんな「おめでとう。」の言葉ぐらいあって、しかるべきものだと思うのだけど。

 前世税理士だった夏美は。帳簿書類を見ることは慣れているものの、くららの仕事はまったく理解できない。いちいち、木下さんに聞くも嫌そうなめんどくさそうな顔をされる。

 そして、木下さんはファイルを指さし、

 「これでも整理すれば、そのうち思い出すこともあるんじゃないの?」

 思い出すわけないでしょ!と言いたいところをグっと我慢して、黙々とファイリングしていく。

 しばらくすると、くららさんの大脳の中にある記憶が少しずつだがにじみ出てきたのである。

 それでなんとか午前中は乗り切る。お昼休み、持参したお弁当を広げているとまた、ギョっとした顔をされる。お手伝いさんに頼んで、お弁当を作ってもらったんだけど、お手伝いさんも「はぁ?」という顔をされたので、いつもはくららさん、何を召し上がっていたのかしら。気になる。

 お昼休み、スマホを覗くと正彦さんからメールが届いていた。相変わらず、三枝は出勤しているとあった。あいつ、何を考えているのかしら?女性を少なくとも二人殺しておきながら、悪びれた様子もなく出勤しているらしい。

 あれから、正彦さんは、警察に夏美の行方が分からなくなった日、三枝副社長から呼び出されて出向いたと告げた。警察は、当日の三枝のアリバイに不信を持ち、調べているうちに、丸の内の居酒屋で、確かに三枝と加藤夏美が二人でいるという目撃情報が寄せられる。

 遺体発見現場周辺の防犯カメラの映像に三枝らしき人物が映っている。

 警察が丸の内商社を調べているという情報が経産省に寄せられると、経産省も本格的に、丸の内商社を臨検する。警察とともに、家宅捜索をして、資料を押収していく。

 わいせつ目的の殺人事件が端を発した事件だが、それだけではおさまらなかったのだ。政治家に多額の献金をして、事件のもみ消しを図るも、コトは殺人事件であるから、検察も一歩も引かない。

 そして、いよいよDNAが一致したのだ。業界のパーティに出席した三枝のシャンパングラスから採取したDNAと夏美や他の変死体から見つかった体液のDNAが一致する。

 任意での調べに対し、三枝は、「女のほうから誘ってきたのだ。」と死人に口なしの証言をする。夏美はともかくとして、その前の変死体を司法解剖した結果、わずかな媚薬の成分が検出されたばかりか、その女性は処女で膜が損傷していたことが判明していたにもかかわらず、女から誘われたという嘘八百を並べ、反省の色はない。

 警察は強姦殺人で立件し、検察へ身柄を送致する。

 まだ起訴前なので、副社長の身分はそのまま。だが、百合子奥様はカンカンに激怒され、離婚も辞さないという構えである。

 くららが事務次官に渡した帳簿のコピーが決め手となり、丸の内商社は向こう1年間の全面輸出入禁止処分となったのだ。

 容疑は、外為法違反。外国為替及び外国貿易法の規制品目を経済産業省の許可なく、某国へ販売していた事実だけが浮き彫りになったのだ。

 たまたま、部下の女子社員をわいせつ目的で襲い、殺害してしまったからバレた程度に三枝は考えているようだけど、その前に残業していた女子社員が既に帳簿の存在を知っていて、暴露されたことが原因とは夢にも思っていない。女子社員を甘く見ているのである。

 くららは、直接対峙ができなかったことを残念に思うが、また三枝に犯されるようなことにならなくて良かったと安堵する。

 今度こそ、一ノ瀬と幸せになりたいから、丸の内商社は倒産の危機を迎え、希望退職者を募っている。営業部は事実上壊滅状態で、ほとんどの営業部員は、外為法に違反していることを知りながら、業務に就いていたことから、懲戒解雇される。
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