桜子さんと書生探偵

里見りんか

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第四幕 解明

34 家令、時津

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 インク瓶を片手に、自嘲気味に笑う時津。

 何故こんなことを……という気持ちと同時に、桜子は、妙にしっくりしていた。新伍の言った、時津が左手で書く文字は、性格通りの几帳面で美しい字なのではないか、という指摘に。

 だが、それにしても、やっぱり理由が分からない。

「時津。どうして、貴方があんな脅迫状まがいの恋文を…?」
「私が書いたのは、恋文ではありません。」

 時津は、切れ長の目を桜子に向けて、きっぱりと首を振った。

「恋文じゃない? でも……」
「私は、お嬢さまが結婚されることには反対しておりません。現に、お相手に樹さまをお勧めしたでしょう?」

 確かに時津は、婚約者選びに悩む桜子が相談したとに、ハッキリと「樹がいい」と言い切った。そこに、嘘はなさそうだった。

 すると、新伍が、

「そのとおり。時津さんは3人の候補者の中で、樹さんとなら結婚してもいいと思っていた。その理由は、なぜでしょう?」

 新伍が、樹と藤高貢を見比べてから、時津に視線を移す。

「樹さんが桜子さんの幼馴染だから、ということが理由ではありませんよね?」

 園枝有朋そのえ ありとも藤高貢ふじたか みつぐ東堂樹とうどう いつき

 確かに3人の中で、樹のことだけは、時津も昔からよく知っている。しかし、人柄をよく知っているから……というのが理由でないなら、何が理由なのだろう?

「この中で、樹さんにだけ、他の二人とはがあります。」

 すると左側から、イツがハッと息を呑む音がした。

「まさ……か……」

 イツが震えた声で尋ねる。

「3人の中で…樹さんだけ、長男ではないから……ですか?」
「おそらく。」

 新伍が、ご明答とばかりに、両眉をキュッとあげた。

「そんな……私と同じだわ……」

 イツが呟く。

「えッ? 長男? イツと同じ?………どういうこと?」

 桜子にはサッパリ分からないことが、イツには理解出来ているらしい。

「湖城家には、跡取り息子がいませんよね。」

 イツの代わりに説明を始めたのは、新伍だった。

「しかし代わりに、皆が口を揃えて『優秀だ』という、従兄妹の牧栄進まき えいしんさんがいる。と、なると、桜子さんは婿取りをする必要はないわけで……」

 時津を見て、

「桜子さんに縁談が持ち上がったときに、時津さんは、真っ先に恐れたはずですよね。桜子さんが、この家から出ていく未来を。」

 だから、縁談に反対する手紙を出した。この家から桜子が出ていくのは……自分の側から離れるのは許さないと。

「ところが、蓋を開けてみたら、候補者の中に一人だけ、時津さんにとって都合がいい人間がいた。それが、樹さんだ。」
「じゃあ、もしかして樹兄さんならいい、というのは……」

「そうです。樹さんだけが婿養子となるから、です。」

 樹が婿に入るなら、桜子が出ていく必要はない。

「時津さんは、ずっと桜子さんの側にいられるわけです。」
「まさか?! そんなことのために、時津がわざわざ手紙を?」

 いくらなんでもバカバカしいわと、一笑に付そうとした桜子。それを遮るように、

「結婚しようがしまいが、関係ありません。お嬢さまが、で居続けて下されば、それでいいのですから。」

 時津は、目をつぶり深呼吸を一つすると、

「……初めてお嬢さまにあった日のことは、今も忘れません。」

 と、静かに話し始めた。遠くを見るように、目を細める。

「私は………俺はあの日、本当は死ぬはずだった。何日もまともに食っていない、腹からは血が出ている。意識は飛びそうで……もう死ぬんだ、と自覚していた。」

 大して惜しいとも思わなかった。チンケな人生だと冷めた目で、たった数年を振りえっていた。

「そこに、お嬢さまが現れて、俺を連れて行った。人力車に寝かされた俺の手を、お嬢さまはずっと『大丈夫だから』と言って、握り続けた。擦り続けた。俺はどうせ死ぬだろうけど……最期に、この小さな温もりだけは覚えておきたいと思った。」

 時津は、自分の手の平をじっと見つめた。まるで、その手の先に、あの日の桜子の小さな手の平があるかのように。
 時津がギュッと拳を握る。

「湖城家で介抱され、一命を取り留めたとき、俺は一度死んだと思った。思ったからこそ、生きる理由が欲しかった。」

 それを、貴女に見出したんです、と桜子の目を真っ直ぐに見て行った。

「お嬢さまの……桜子のためなら、命を捨てるのも惜しくはない。人を殺すことも躊躇わないだろう。俺は……桜子のために生きると決めた。」

 時津が、ぐっと唇を噛みしめる。

「だから、桜子が俺から離れてしまったら、俺の人生に意味がなくなってしまうんだ。」

「一通目で、結婚自体を止めようとしたのは、相手が誰か分からなかったからですか?」

 新伍が尋ねる。

「そして、候補者に東堂樹さんが入っていると知って、樹さんと結婚すれば良いと思った。その後、園枝さんを指名して反対したのは、家に来た園枝さんが、思いの外、桜子さんとの婚姻に前向きだったから?」

「まぁ、そうですね。」

「僕が初めて、この屋敷に来たときに、桜子さんが湖城さんの書斎で聞いたという不審な音も貴方ですか?」

「えっ?! あの音が、時津……?」

 驚く桜子。しかし新伍は理路整然と問い詰める。

「湖城さんが僕を呼んで、どんな話をするのか気になりましたか? 桜子さんが扉に近づく気配がして、離れましたよね? あのとき僕は、逃げるなら窓か階段だと言った。でも貴方なら、階段にも窓にも逃げる必要はない。すべての部屋の鍵を持っているでしょうから、隣の部屋にでも入って鍵をかければいい。」

 時津は黙っている。だが、反論しないということは、正解なのだろう。

「園枝さんが亡くなったとき、都合が良いと思いましたか?」

 時津は沈黙。

「桜子さんは、藤高少尉のことを怖がっていましたから、これで婚約は樹さんに傾くと思った?」

 また沈黙。

「まさか、最悪、藤高少尉を自身の手でなんとかしようなんて、考えてはいませんよね……?」
「ちょッ……ちょっと待ってください!!」

 耐えきれなくなった桜子が割って入った。

「時津は、そんなことしませんッ!! 確かにちょっと無愛想そうなところはありますが、人を殺したりはしません。」

「いえ。私は、お嬢さまの身に何かあれば、人を殺しますよ?」

 平然と言い放つ時津。

「時津ッ!」

 桜子が卒倒しんばかりに、悲鳴をあげたからか、

「安心してください。さすがに私も、何の非もない藤高少尉に直接、手を出したりはしません。万が一、捕まったら、お嬢さまの側にいられなくなりますから。」

 それから、新伍にも、

「藤高少尉をなんとかしようとは思いませんが、なんとかして婚姻そのものを阻止したと思います。」

「本当に、そこまで私のことを……?」

 時津はため息をついた。

「桜子さまは、全然分かっていませんよね? 私が貴女を想う、その気持ちを。あまりにも分かっていないから、わざわざ貴女に手紙を書いたんです。」

 私が側で貴女を想い続けていることに少しは気づいて知ってほしかった、と切れ長の瞳を切なそうに細めた。

「ひょっとしたら、私が書いたと気付くかもしれないと期待したのですが………」
「時津……」

 信じられない。時津の気持ちがわからない。時津が自分のことを好きーーー? でも、そのくせ、樹となら結婚していいと、アッサリ言う。
 桜子はわけが分からなくて、酷く混乱していた。

「ただ……」

 時津が、言葉を継いだ。

「五島さんは分かっていると思いますが、私は別にお嬢さまと結婚したいわけではありません。」
「えぇ。勿論、分かっています。」

 新伍が、しかと頷いた。

「あなたの抱いている愛情は、その手の恋慕とは違うものでしょう? あえて言うなら……忠義、とでも言うのが近いでしょうか。」

「……忠義?」

 首を傾げる桜子に、新伍が言う。

「つまり、時津さんにとっては、桜子さんに仕え、守ることが使命であり人生そのもの、ということです。」

「そのとおりです。」

 時津が真っ直ぐに桜子を見据えて言う。

「私にとっては、お嬢さまの結婚相手が誰かなんて、些末なことです。心底、どうでもいい。お嬢さまが私の手の中で守られてさえいてくれれば、それでいいのです。」

 揺らぐことのない瞳。見慣れているはずの時津なのに、どうしてか、桜子は少し恐ろしく感じた。

「目が据わっていますよ、時津さん。」

 新伍が、さり気なく桜子と時津の間に身体を滑らす。

「それに、貴方の想いに気づいているのは、僕だけじゃありません。」

 テーブルの方を振り向いて、

「湖城さんも、存じていましたよね?」

 新伍の視線の先には、厄介事に悩まされているように頭を抱える父、湖城重三郎。

「知っていたから、僕にこの事実を暴かせたくなかったのでしょう?」
「えっ? お父様は……時津が手紙をかいたと知っていた、ということ?」

「湖城さんは、時津さんの利き手のことを知っていたのでしょう。おそらく、筆跡も。知っていたから、最初の2通のときには僕を呼ばず、3通目が来て、初めて呼んだ。2通目までは桜子さんに危険が及ぶことはありませんからね。」

 確かに時津が結婚に反対していたとしても、桜子に危害が及ぶことはないだろう。

「しかも、この機に乗じて、前の2通のことも有耶無耶にしたかった。だから、僕にあえて濁して伝えましたね? 僕が調べていくうちに、桜子さんやイツさんの証言との食い違いに気づくことは、分かっていたでしょう。ですが湖城さんは、僕がその意図も含めて理解するだろうと考えた。」

 そうですよね、と尋ねる新伍に、父は

「……そのとおりだ。」

 渋々認めた。

「字と文面で、時津が桜子の結婚を……結婚して、この家なら出ていくことを阻止したいのだ、と分かった。」

 とはいえ、桜子とて年頃になれば、結婚しないわけにはいかない。親としては、時津ではなく、桜子のことにとって一番良い縁談を用意したい。

「だが、あんな手紙を書いて寄越すとは……」

 時津が父の前まで来て、トンとインク瓶を机に置いた。

「ここで働くと決めたとき、旦那さまは私に約束しましたよね? ずっと桜子さまの側にいていい、と。」

 父は、黙って俯いた。

「なのに、旦那さまは、私からお嬢さまを取り上げようとなさる。」

 時津の声は、静かな憤怒に満ちていた。

「旦那さまは、約束を破りました。だから……あの手紙を見れば、私の怒りが伝わるだろう、と考えたのです。」

「手紙を書いたのは……」

 新伍が口を挟む。

「時津さんの気持ちを桜子さんに伝えるだけが目的ではない。むしろ本当の目的は、それほど自分が桜子さんに心酔していることを、湖城さんに思い出させるため、ですか?」

 たとえ桜子が取り合わなくても、時津と同じくらい、桜子の身を案じているイツが、あの手紙を父に見せるだろうからと、新伍が指摘した。

「つまり、あの手紙は、桜子さんへの忠義の誓いであるとともに、湖城さんへの脅迫状、ですよね?」

ーーー私は、たとえ、どんな手を使っても、阻んでみせましょう。
 使、必ずそうしてご覧にいれますよ。

 それは、桜子ではなく、重三郎への脅迫。

「お前のことは、頼りにしていた。私の秘書としても、湖城の家のことも、期待以上にこなしてくれた。」

 だからこそ、頭の痛い問題でもあったと、父が苦々しく言った。

「桜子がいなくなることで、辞めたいと言ってくるかもしれない。そうなっても、仕方がないと思っていた。嫁ぎ先について行かせろと言うかもしれない、とも。もしそうなったら、婚家に頼んでやる心積もりもあった。」

「………は?」

「家令は無理でも、お前は仕事の内容そのものに拘りはあるまい? 桜子に仕えることさえ、出来ればいい。」

 確かに、時津は器用だから、庭師でも何でも出来そうだ。

「だが……」

 父は、苦々しく溜まった息を吐き出した。

「やり過ぎだ。バカモノ………」

 本人に脅迫まがいの文を出し、その後ろにいる父に、桜子を自分から引き離すことは許さないと脅した。

「最初に五島くんにハッキリと説明しなかったのは、やはり私自身に迷いがあったから、なんだろうな………」

 父は自らの行いを顧みるように呟くと、

「時津が手紙の差出人であることは、大事にしたくはなかった。桜子には知られぬよう穏便に済ませるつもりだった。表向きは。……だが、不問にするつもりはなかった。」

「まッ……待ってください! 私は桜子さまの嫁ぎ先についていっていいんですよね?」

「認められるわけ、なかろうがッ!!」

 応接室に低く響き渡る声。

「お前の桜子への執着は、理解していたつもりだったし頼もしくも思っていた。だが……行き過ぎだ。」

 キリキリと身体のうちから絞り出すように、

「いざとなったら人さえ殺しかねない、その狂気じみた執着には、正直、危うさを感じる。とても他家には出せない。」

「そ……そんなッ! それでは………」

「仮に桜子が藤高家に嫁ぐことになっても、時津、お前を藤高家にやることはない。たとえ当家を辞めても、貢くんとて、雇うことはないだろう。」

「いッ……嫌です!! 私は………」

 時津が告げようとした言葉は、桜子によって遮られていた。

「お……お嬢さま……?」

 桜子が、時津の背中に後ろから抱きついたから、驚いた時津が話すのを止めたのだ。

「時津、ごめんなさい!!」
「な……なぜ、お嬢さまが謝って……」
「いつも、あなたを頼りにしていたわ。いつも貴方が守ってくれることが、想ってくれることが、当たり前みたいに思っていたわ。」
「それでいいんですっ!」

 お嬢さまが謝ることなんて何一つないと、時津は言う。

「いいえッ! いいえ、違うわ。」

 桜子は、懸命にそれを否定した。

 時津が桜子を大切にしてくれることが、時津の視野を狭め、桜子に縛り付けているだなんて、桜子は思ってもみなかった。
 そんなつもりで、時津を連れてきたわけでも、大事にしてきたわけでもないのに。

「時津……私は貴方に、もっと自分自身のことも大切にしてほしいの……。自由に自分の望むことをして……そうやって生きてほしいの。」

 高い時津の背中を、ギュッと抱きしめる。大きな背は震えている。

 父が諭すように言った。

「時津。お前は、貧民窟を出て、広い世界を見たと言っていたが、そんなことはない。お前の世界は、広がったのではなく、ただ桜子に移っただけだ。」

 時津が、ガクンと膝を床についた。

「一度、桜子から距離を置いて、自分を見つめ直せ。桜子以外のものを見て、視野を広げろ。自分の望むこと、できることを考え、それでも桜子を支えたいと思ったら、桜子の側に仕える道もまた、見えてくるだろう。」

 父の言葉。応接室に響く、沈痛に呻く声。

 重く沈んだ空気は、しかし、わずかに弛緩し始めている。


 事件は終わったのだ。
    
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