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第四幕 解明
33 犯人がもう一人
しおりを挟む「犯人が、もう一人……とは、どういうことですか?」
新伍の発した言葉の意味が分からず、桜子は問い返す。
「まだ僕は、事件の全てを解明していません。」
「あの……それは、どういう……?」
「桜子さんへの手紙の件が残っています。」
「手紙? 手紙はトワさんが書いたと、さっき……」
途端、ガタッと大きな音。
父の重三郎が、椅子から立ち上がろとしていた。
「ご……五島くん…!?」
慌てるように新伍を呼ぶ父。
「桜子と湖城の名が傷つかぬよう、良きに解決してくれ、と頼んだじゃないか……」
「湖城さんにとっての『良きに解決』と、僕の考える『良き解決』は違います。僕は、このことは、きちんと明らかにするべきだと思います。桜子さんのためにも。」
「私のため?」
二人のやり取りの意味が、桜子には分からなかった。
「あの……ちゃんと、教えてください。私に関するものなのですから。」
父は沈黙した。それを、了承の意と受け取ったのだろう。新伍が再び話し始めた。
「桜子さん。僕が何故、手紙を書いたのがトワさんだと気づいたのか、分かりますか。」
問うてから、桜子の回答を待たず、
「答えは簡単。僕が、トワさんの書いた字を見たからです。」
「トワさんの字?」
「ハンカチです。」
「あっ……あの、住所ですか?」
確かに、ハンカチには、小筆のようなもので、住所が書いてあった。
「で……でも、あの字は、お世辞にも上手とは……」
正直、子どもの手習い程度。いっそ、時津と変わらないくらいだ。手紙の洗練された筆跡とは全く違う。
「僕が洞窟で尋ねたとき、桜子さんは、あの字に見覚えがないといいましたね?」
「えぇ、ないわ。」
首を横にふると、今度は、「なるほど。では、」と、トワに視線を向けた。
「トワさん、あなたは、桜子さんあての手紙を、何通出しましたか?」
「えっ……? 何通?」
突然の質問に、驚きながらも、
「1通だけ……ですけれど。」
「1通? そんなはずは……」
桜子が驚けば、イツも、
「そうですよっ! 1通だけのはずありません。少なくとも、3通は出しているはずです!!」
「いっ……いえ、そのように申されましても、確かに私が差し上げたのは、1通で……」
トワが、必死で否定する。と、そのとき、新伍が
「おや。驚いていませんね、時津さん?」
今度は、皆が一斉に時津を見る。時津は、いつも通りの顔で、
「いえ、驚いていますよ。」
「そうですか?」
探るような新伍の視線。
「あの……五島さん、時津はいつも、あんな顔です。それに、時津を疑っているのだとしたら、無理がありますよ。」
「なぜですか?」
「何度も言いますが、時津は、ともかく字が下手で、あの美しい手紙の文字とは……」
新伍は、「なるほど。」と遮ると、
「ところで桜子さんは、手紙を何通読みましたか?」
新伍は、顎の下に手を当て、ゆっくりと歩く。
「僕はずっと、あなたとイツさんが『手紙の文字が綺麗だ』と、やたらと繰り返すのが気になっていました。」
桜子とイツを交互に見て、驚きの言葉を吐いた。
「だって、僕が湖城さんに渡された手紙の字は、全く綺麗じゃありませんでしたから。」
「そッ……そんなはずは……?!」
桜子は困惑した。
「だって、あのとき、五島さんも確かに、綺麗な字だ、と……」
「いえ、言ってません。見本を見ながら一生懸命書いた子どもの手習いような字に、特徴的ですね、と言っただけです。普通の大人が書く字じゃありませんでしたから。」
「そう…だったかしら……?」
「もう一度聞きますよ。桜子さんは、何通目の手紙を読んだんですか?」
新伍に促され、桜子はよく考えてみる。1通目と2通目は、確かに読んだ。3通目は、父と朝食をとっているときに時津が持ってきて、読まずに捨てようとしたら、父が取り上げ……
「……1通目と2通目は読みましたが、3通目は読んでいません。」
「そうですよね。そして、僕は、おそらく3通目しか読んでいない。が、僕と桜子さんたちには明らかな認識の齟齬がある。これの意味するところは、一つ。」
新伍が人差し指をピンと立てた。
「1通目、2通目と3通目は書いた人が違う、ということです。」
「あぁ、だから五島さんは、犯人がもう一人いる……と? いえ……でも、あの手紙は、前の2通目と全く同じ桜色の封筒に入っていて、同じ差出人としか……」
新伍がくるりと振り向いて、
「トワさん、貴女は手紙を封筒にいれましたか?」
「い……いえ、そのような高価なものは、お恥ずかしながら……」
上等な紙までは用意できたが、封筒を揃えるまでの余裕はなかった、と恥じ入るように顔を伏せた。
「書いたものを4つに折りたたんで、子どもに託して…門前にいた、そこの家令さんに渡してもらいました。」
再び顔を上げたトワの、視線の先にはーーー
「時津……?」
「おかしいですね。時津さんに渡されたときには、封筒に入っていなかったはずの手紙が、桜子さんの目の前に差し出されたときには、前の2通と同じ封筒に入っている。これは、どういうことでしょう?」
確かに三通目の手紙も、桜色の封筒に入っていた。誰かが封筒に入れたとして、その人は同じ封筒を持っていたーーー?
「いえ……でも、まさか!?」
「信じられませんか?」
「だって、今のお話だと、結局、1通目と2通を時津が書いたということになるのでしょう? それだと、やはり、筆跡が違うという話になりませんか?」
手紙の字は美しく、時津の字は汚い。この事実は揺るがないのだ。
「そこです。」
新伍は顎の下に手を当て、軽く俯いた。
「そもそも、時津さんの字は本当に汚いのでしょうか……?」
「えっ?! どういう意味ですか?」
時津のことなら、桜子が最もよく知っている。字だって何度も見たことがあるのだ。今更何を否定しようというのか。
しかし、新伍は「いいでしょう。」と、顔を上げ、
「それなら、実際に試してもらいましょう。」
と、書生服の着物の懐に手を入れた。中から取り出したのは、蓋のついたインク瓶。
新伍が唐突に、その瓶を、
「書いてください、時津さん。」
と、放り投げた。
桜子は、こちらに向かって飛んでくるインク瓶に、思わず目をつぶって肩を竦めた。パシッという音が、目の前で響く。
恐る恐る目を開けると、時津が桜子の目の前でインク瓶を掴んでいた。
「何をするんですか、五島さん?」
時津の切れ長の目が、新伍を冷たく睨む。
「お嬢さまに当たります。」
背筋がゾクリとなるほどに、凄みのある声音だった。
しかし新伍は、全く怯む様子なく、「ふぅん?」と、意味ありげに頷いた。
「やっぱり時津さん、イザと言うときには左手が先に出るんですね?」
「えっ?……左手?」
確かに、時津はインク瓶を左手で掴んでいた。
「なんのことです? たまたま、私の左側に飛んできたのを取っただけですが……」
冷静に、そう言い返す時津を無視して、新伍は「僕は一時期、貧民窟に暮らしていたんですけどね、」と話し始めた。
「貧民窟の子どもたちというのは、よく、くず拾いをして小銭を稼ぐんです。」
「は……はぁ?」
ポカンとしたのは桜子だけではない。一体何の話が始まったのだろうかと、皆が困惑していた。しかし、新伍はお構いなしに、
「それで、くず拾いというと、普通、こう……左に屑籠をもって、右手で拾うじゃないですか。」
身をかがめて、くずを拾う仕草をして見せる。
「ところが、じっと観察していると、何人かに一人、右手に籠を持って左手でくずを拾う子がいる。それじゃあやりにくいだろうと、僕が手を逆にするように教えてやると、そういう子たちは皆、口を揃えて『これでいい、これがやりやすいんだ』って言うわけです。」
身体を起こして、顎の下に手を当てる。いつもの思案するときの仕草をして、
「それで、僕は幼心に、なるほど、この世には右手より左手のほうが使い勝手がいい人間が一定数いるんだな、と知ったわけです。」
新伍は、昔話を語っていたかと思うと、ふいに、時津を見て、
「時津さん。あなたも、そういう人間ですよね?」
「………さぁ? 五島さんが何を言いたいのか、私にはよく分からないのですが……」
「僕が最初に気になったのは、勝川警部補がこちらに来たときです。」
勝川警部補が家に来たというと、園枝有朋氏に関する聴取のときだろう。あのとき桜子は、下世話な質問をされて、嫌な気分になった。
「桜子さんがカップを取り落としそうになったとき、時津さんが咄嗟に左手を添えたので、『おや?』と思いました。」
「よく覚えていませんが……それも、たまたまでしょう。」
時津の回答に動揺の色はない。いつも通りの冷静な家令。
「次に気になったのは、時津さんの部屋に行ったときです。貴方は、僕が来る直前まで、煙管を吸っていましたよね?」
「えっ? 時津が煙管を吸うのですか?」
桜子は全く知らなかった。てっきり、湖城の使用人たちは、皆、喫煙はしないと思っていたのだ。
「時津さんは、煙管を私室でしか吸わないそうです。だから、直す必要がなかった。」
「直すって、何をですか……?」
桜子の疑問に対する、新伍の答えは至極簡潔だった。
「持ち手、ですよ。」
時津は黙っている。桜子に背を向けているので、表情は分からない。
「僕が時津さんの部屋に入ったとき、吸い終えた煙管の灰が灰吹の右奥に落ちていた。僕から見た右奥は、時津さんから見たら、左手前。灰吹の左手前に灰が溢れるのは左手に煙管を持って落としたから、ですよね?」
「あの……五島さんのおっしゃりたいことも分からなくもないのですが、それも偶然……ということは?」
「随分と偶然が重なりますね。」
桜子の言葉に、新伍は肩を竦めた。
「でも、まぁ、文字を書いてもらえば、すぐに分かりますよ。おそらく時津さんは、字を書くのも箸を持つのも、左のほうが得意なはずだから。」
新伍は時津に向かって、手のひらを差し出して、
「さぁ、書いてください。左手で。」
新伍が当たり前のように時津に求めるので、桜子は驚いて止めた。
「ちょっ…ちょっと待ってください。ひ……左で文字を書くのですか? そんなこと、可能なんですか?」
左手のほうが使い勝手がいい人間がいる、というところまでは分かった。でも、例えそうだとしても、字は右手だろう。
左で文字を書く人間がいるだなんて、信じられない。
「そんな人、見たことありませんけど……?」
「見たことないのは、学校で右手で書くように教えられるからですよ。同時に、家庭でも、おかしなことだ、みっともないと矯正される。だから、幼い頃からきちんと教育を受けた人間は、本来の使いやすさがどうであれ、皆、字も箸も右手を使う。」
「そうなんですか?」
周りを見回すと、藤高少尉が、「確かに左手のほうが器用に使える人間は、いますね。」と、同調した。
「左手で握ったほうが、明らかに剣さばきが上手い人間はいる。ただ、皆、その事実を恥じて、右手で扱う訓練をする。」
樹もまた、
「確かに、当家の職人でも、地方から奉公に来たような子は、稀に裁ちばさみを使うのがとんでもなく下手な子がいます。そういう子は得てして、左手の動きが妙に器用なことはありますが……とはいえ、みんな使っているうちに上達します。」
新伍が二人の意見に頷いた。
「一般的に、剣もハサミも、道具は右手で扱うようにできている。それなりの教育を受ければ、皆、右を使うように矯正されます。」
新伍は、ゆっくりと時津の前まで歩きながら、
「時津さんは長じてから湖城に来ましたよね? その前は貧民窟。おそらく長い間、主として左手を使っていたのでは? そこから湖城家の使用人として恥ずかしくないよう、右手を使うためには相当な訓練を積んだのではないですか?」
もし初めに独学で文字を学び始めたのなら、左手でペンを持っていた可能性が高い。一度、左手で書くことに慣れてから右手に持ち替えて訓練するのは、かなり骨が折れるはずだ、というのが新伍の考えだ。
「僕が見たのは、貴方が右手で書いた文字だけです。そして、おそらく左で書いた文字は、右手のものと全く違い、貴方の性格通りの几帳面な美しい字ではないか……と思うのですが?」
時津は、握ったインク瓶をじっと睨んでいた。
皆が沈黙している。やがて、その沈黙を破るように、時津が言った。
「………右手を使う訓練をしたのは、当たり前です。」
重三郎と桜子を順に見て、フッと笑った。
「旦那さまと桜子さんに、恥をかかせるわけには、いきませんから。」
それは新伍の推理の正しさを認めたも同然だった。
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