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第一幕 事件
6 婚約者、東堂 樹
しおりを挟む桜子が女学校から出ると、門の前で新伍が待っていた。
今日も書生服に身を包んだ新伍は、見世物みたいに、通り過ぎる女生徒たちの、華やかで浮ついた視線を集めていた。
「あんなところで待つのは、やめてください。」
本当は新伍に見つからないように、さっさと通り過ぎるつもりだったのに……。
目ざとく見つかり、追いついてきたものだから、怒った桜子は、思わず新伍のほうを、くるりと振り返って言ったのだった。
「皆に見られて……恥ずかしいったら、ありゃしません。」
新伍は肩をすくめて、
「一応、桜子さんの護衛も依頼のうちですから。」
そういえば、あのとき、父は、確かに、そんなことも言っていた。
けれど、だからといって、こんなふうにベッタリついてくることになるなんて。
「まさか! これからずっと、朝も帰りも、こんなふうに、五島さんが付きそうんですかっ?!」
「そのつもりですけど?」
目眩がしそうだ。
これから毎日、皆に見られるという辱めを受けるうえに、自由に寄り道もできやしないなんて。
あのときは、一瞬、頼りになると思ったけど、いざ付きまとわれるとなると、勘弁してほしい。
「……帝国大学の学生さんって、随分とヒマなのですね。」
「比較的自由が効くのは確かですね。」
嫌味のつもりで行ったのだけれど、サラリと流された。
「あんなところで毎日待っていて、まわりの方に、あ……逢引でもしていると思われたら、どうするんですか?」
「自意識過剰でしょう。書生がお嬢さまのお迎えにあがったとしか思いませんよ。」
新伍に言われ、
「そ……それも、そうね。」
何を戸惑っているんだろうと、少し恥ずかしくなった。
「もう。せめて、車があれば、良かったのに!」
そうすれば、新伍の付添は必要ないのにと、ブツブツと呟いた言葉に、新伍が耳ざとく反応した。
「そういえば、桜子さんは人力車は使わないのですね。湖城財閥ともなれば、送り迎えがついていても不思議ではないのに。」
「先月、突然、車夫が辞めてしまったのよ。」
「辞めた?」
湖城家お抱えの車夫、大二は、長く勤めていて、桜子が小さい頃からよく知っていた。ちょっとした寄り道をお願いすれば、「時津さんに、叱られますよ。」と、苦笑いして、でも、何だかんだと桜子のお願いを聞いてくれる。
「大二がいれば、貴方の護衛は要らなかったのよ。」
「ははぁ。それで、行き帰りもお供するように、と言われたのですね。」
「言われた? 誰に?」
「時津さんです。執事の。それと、そうそう。今日から、しばらく、湖城さんのお宅でお世話になりますから。」
「えっ!? だって、貴方は三善中将のーーー」
瞬間、ドンッと何かにぶつかられた。
よろけて転ぶ寸前、腕を掴まれる。新伍だ。
「大丈夫ですか?」
新伍のおかげで、転ばすに済んだ。新伍が反対の手も添え、桜子を支えた。
「え……えぇ。大丈夫です。」
「人にぶつかられたようです。」
「す……すみませんッ!」
新伍に抱きかかえられるように受け止められている。身体の中が、ドキンと疼くような気がした。
(こんな人の往来の多いところで立ち止まって、しかも男性に寄りかかっているなんて……恥ずかしいわ。)
慌てて離れようとすると、
「何か盗られているものは、ありませんか?」
「えっ?」
「一応、貴女は誰かに狙われている身だ。ぶつかり方に、不自然さはありませんでしたが、念の為。」
「えぇっと……わざとかもしれない、ということですか?」
「可能性を否定できない、ということです。」
言ってから、すぐ、
「警戒は、し過ぎるくらいで、ちょうど良い。あくまで、念の為。なので不安になりすぎないでくださいね。」
新伍の飄々とした言い方は、深刻さを感じさせないもので、むしろ妙な安心感すらあった。
「分かりました。」
言われた通りに……と言っても、学用品を入れた風呂敷包みくらいしか荷物はない。あとは懐に入れた、がま口。どちらも無事だ。
「………大丈夫なようです。」
「良かった。」
それじゃあ行きましょうか、と新伍が踵を返して歩きだそうとした瞬間。
「桜子ちゃん?」
背後から、聞き覚えのある、柔らかい声。
「樹兄さんっ!!」
振り向きざま、その、ひょろりと背の高い、見慣れた姿を確認する。
東堂 樹。
東堂商会の次男で、歳の離れた幼馴染。
そして、桜子の婚約者候補の一人。
「今から帰るところかい? そちらの書生さんは……?」
「はじめまして、五島新伍です。三善中将のところでお世話になっています。」
「三善中将? あぁ、湖城社長と仲の良い。」
「はい。縁あって、今は、湖城さんのとこで、ご厄介になっています。」
「湖城財閥のお手伝いをしているのですか?」
「いえ、ご商売のほうではありません。時津さんやイツさんが忙しいので、桜子さんの世話役を頼まれたのです。」
(驚いたわ。口らからデマカセをペラペラと。)
時津も、イツも、たいした面識はないはずなのに、当たり前のように会話に織り込んで、しかも全く嘘を言っているように見えない。
「そうだったんですね。」
ましてや、人の良い相手は樹兄さんだ。
相手を疑うことをしない人だから、アッサリと「それは、ご苦労さまです。」などと挨拶を交わす。
「桜子ちゃんは、とてもシッカリした良い子だから、手がかからないでしょう?」
樹は、笑うと、目尻に僅かな皺が寄る。
相手の警戒心を解く、温和な微笑み。妹を見守る、兄のような。
「それにしても、イツさんは、忙しいのか……。手土産を持って行ったら、手を煩わせてしまうかな?」
「樹兄さん、これから、うちに来るところだったんですか?」
「届け物があってね。でも皆さんお忙しいようなら、玄関で失礼しようかな。」
「全っ然!! 迷惑なんかじゃないです! 寄っていってください!!」
桜子がいつものように、樹の腕に、自らの手を絡ませた。
「行きましょう。」
「彼は?」
新伍は、書生服の両袖に腕を交差して、こちらを見ていた。
「ここから先は、樹兄さんに送ってもらうわ。それなら、いいでしょ?」
一人で帰るのが危ないとしても、樹がいるなら、十分だ。よく知っている、信頼のおける人だし、背も新伍より、ずっと高い。
新伍は思案するように、顎の下をポリポリかいた。
「いや。私も一緒に帰りましょう。」
「え……?」
「東堂さん、いいですか?」
新伍は、樹の横に並んだ。
「えぇ。勿論です。」
樹は、いつも通りの、疑心も邪心もない笑顔で頷いた。
* * *
あのとき、新伍が、桜子の手を引いたのは、咄嗟のことだった。
悪寒が走り、反射滴手を伸ばした瞬間、桜子が誰かとぶつかった。結果的に、倒れ込む桜子を支える形になった。
新伍は、素早く周囲に視線を巡らせた。
あのとき、感じたものは、間違いなく、好意なんかじゃなかった。
殺意、あるいは、それに類するもの。
少なくとも、桜子を意図を持って傷つけようとしている何か。
目の前の桜子は、幼馴染だという東堂樹に、無邪気に手を絡ませている。
「ここから先は、樹兄さんに送ってもらうわ。それなら、いいでしょ?」
横の樹は、無害そうな顔でニコニコと笑う。
背は高い。が、戦い慣れてはいない。相手次第で、簡単に組み敷かれてしまいそうだ。
「……いや、私も一緒に行きましょう。」
新伍は、歩き出した二人の後ろで、気づかれないように、もう一度、周囲に意識を巡らせた。
もう、あの不穏な気配は、微塵も感じられず、ただ、午後の賑やかな街があるだけだった。
◇ ◇ ◇
「ただいま」と、「お邪魔します」の声に応えて出てきたイツが、「あら、まぁ」と目を丸くした。
「今日は、随分、賑やかなお帰りですね。」
樹が手土産を差し出して、
「イツさん、これ。今、街で人気だそうです。」
「樹さま、いつも、ありがとうございます。早速、紅茶を入れますね。」
「時津さんに用事があるから、それを済ませたら、僕もお茶を運ぶのを手伝いましょう。」
父の書斎に向かう樹と一旦別れ、桜子と新伍は客間のテーブルについた。
「東堂さんというのは、いつも、ああいうふうなんですか?」
「ああいうふう、とは?」
「お茶を淹れるのを手伝う、ということです。」
「そう……ですね。」
「かなり珍しいなと思いまして。客人の男性が、女中の仕事を手伝うのは。」
その言い方に、なぜだかカチンときた。
「客人と言っても、樹兄さんは、私が小さい頃からこの家に出入りしていて、家族みたいなものです。」
思いの外、強い口調になった。それに気づいた新伍が、すぐに、「すみません」と謝った。
「不快にさせたのなら、謝ります。悪気はなかったのですが、つい癖で、アレコレ考えてしまって。」
と、そこへ、
「どうかしましたか?」
ポットとカップの乗った盆を携えたイツと樹が部屋に入ってきた。後ろのイツに、
「イツさん、お盆はここに置いていいですか?」
「ありがとうございます。」
自分の家のような気楽さで、部屋の隅の小さな台に盆を置くと、長身の身体を折り畳むようにして、桜子の正面に座った。
「樹兄さん、時津への御用は、終わったのですか?」
「今日は納品書をお届けしただけですから。」
「あら? 先日のぶんですか?」
「えぇ。書類に漏れがあったようでして。」
東堂商会は、樹の曽祖父が立ち上げた呉服屋だ。今は樹の父が社長だが、その次は樹の兄の幹一が継ぐだろう。
樹の立場は湖城家に出入りしている、所謂、外商ということになる。
湖城も、元を辿れば、古くから続く呉服問屋。湖城と東堂は、昔から付き合いがあった。
ただ、樹は家業の手伝いをしてきても、跡取りではない。
もし、桜子と婚約すれば、婿養子として湖城の家に入ることになるのだろう。
「樹さま、お仕事、お疲れさまです。」
イツが労いの言葉とともに、紅茶のカップと菓子を置いた。
「お嬢さま、こちらが、樹さまから頂いたケーキです。」
桜子と新伍の横にも三角形に切った洋菓子が乗った皿をおいた。
「まぁ! ケーキっ?!」
「新しくできたお店で、何でも、凄い評判のようですよ。」
「なかなか手に入らないって聞いてますけど。さすが樹兄さん!!」
「湖城さんには、お世話になっているので。」
桜子が、バタークリームの甘い香り漂うお菓子に、「美味しそう!!」と目を輝かせると、イツも頷く。
「えぇ、ホントに。こんなもの、見たことありませんね。」
「イツさんたちも、後で食べてくださいね。」
女中が、客人と相伴することはない。
だが、樹はいつも、桜子や父以外にも、時津やイツ、他の使用人にも行き渡るだけの土産を持ってくる。
呉服屋は番頭、丁稚以外にも、沢山の針子を抱えている。東堂は、自家の使用人を大事にすると聞くけど、樹をみていると頷ける。
樹は、茶菓子を飲んで半刻ほど談笑してから、帰っていった。
客間には、新伍の桜子だけとなった。
「それで? 何か、解決の糸口はみつけられましたか?」
いつまでもこんなふうに付き纏われてはかなわないなと思っていた桜子が、早速、新伍に問うと、新伍は、「いえ、今のところはなにも。」と、残念そうに首をふった。
「でも、東堂さんは、良い方ですね。誰にでも分け隔てなく接する、優しい方だ。」
「でしょう?」
桜子は、身内が褒められたような誇らしさを感じた。
「でも少しお人好しな感じがしますね。あと、周りを気にして、あまり本音を語らない性格……でしょうか?」
当たっている。
樹は、優しくて良い人だが、あまり自分の望みを口にしない。桜子が10歳も年下というせいかもしれないが、優しい空気を身に纏って、本音を隠しているのではないか、と感じるときがある。
「なぜ、そのように……?」
「あっ!すみません。僕は、もしかして、また、余分なことを言っていますか?」
「いえ。怒ってはいません。むしろ、当たっていて、驚いています。」
「それなら、よかった。東堂さんは、女中のイツさんには、いつも、あんな様子で接しているのですか?」
「イツ? えぇ。イツは小さい頃から私のお世話をしているので、樹兄さまも、よく見知っているのです。」
「そうですか。………とても良い関係ですね。」
そんなことを話している最中に、客間に父が入ってきた。
「桜子、帰っていたか。」
「お父さま、お帰りなさい。」
新伍のほうにも視線をむけて、
「五島くんも、いるなら、ちょうど良かった。ちょっと使いを頼まれてくれないか?」
「お使いですか?」
「藤高中将の家に届け物をお願いしたい。」
「藤高……中将………?」
それ以上は、言わずとも分かる。
園枝有文、藤堂樹、そして婚約者候補の最後の一人の名が、藤高 貢だったから。
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