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第一幕 事件
7 婚約者、藤高 貢
しおりを挟む「はじめまして。藤高 貢です。」
抑揚のない口調。表情のない顔。
細く真横に伸びる瞳に、山なりの眉毛。肌は青白く、髪は短い。
藤高邸の玄関に迎えでた婚約者、藤高貢の第一印象は、『心の読めない男』だった。
何を考えているか分からないーーーというのは、時として、分かりやすい悪意よりも不気味で、不穏だ。
どのように警戒するべきなのか、分からないから。
桜子は、思わず斜め後ろに控えている五島新伍を振り返った。
桜子の不安を察したのだろう。サッと一歩前に、歩み出た新伍が、
「はじめまして、藤高少尉。五島新伍です。」
新伍の身体で、視界が半分隠れると、それだけで、桜子は何故か、安心した。
「三善中将のところで世話になっています。」
貢の小さな眼球が素早く動く。上、中、下。書生服姿の青年を細部まで、頭の中に取り込んで、吟味しているように。
「はじめまして。三善中将のお宅に書生がいる、という話は聞いたことがありますよ。帝国大学の学生さんですね。」
淡々とした口調は、友好的ではないが、敵意も感じられない。
「そうでしたか。でも、お会いするのは、初めてですよね。」
新伍が「どうぞ、よろしく」と、手を差し出したが、貢はフイッと顔をそらして、無視した。
新伍は、あまり気にしていないようで、
「今日は、桜子さんの随行で来たのですが、1つお願いがあるのです。」
懐から羊皮紙片を取り出して、貢に渡した。
「ここに、受け取りの署名をいただけますか?」
「署名?」
「えぇ。桜子さんが、お父さまからお預かりして、お持ちした書類を、藤高少尉に、確かにお渡しした、という旨を書いていただきたいのです。」
「なぜ、わざわざ、そんなものを? 貴方が、確かに渡したと伝えてくれれば良いでしょう?」
「何分、大事な書類ですし、桜子さんのお遣いでは不安だからと、湖城氏が仰っていたので。きちんと証拠としてお見せしたいのです。」
貢は、一瞬、眉をひそめたが、結局、羊皮紙片を受け取った。
「分かりました。どうぞ、中へ入って、お待ち下さい。」
二人は藤高家の立派な客間に通された。
貢は、座ると同時に、小机から持ってきた万年筆で、サラサラと羊皮紙片に何かを書付け、それを新伍に渡した。
「これで良いですか?」
新伍は、それを見て、穏やかに微笑んだ。
「確かに、頂戴しました。」
貢は軽く頷くと、桜子に視線を移す。
「すみませんね。当家は和式でして。」
「いえ、湖城の家にも和室はあります。」
湖城家は洋館だ。だが、和室でも振る舞いも覚えなくてはいけないと、父が建てるときに、あえて作った。
「それは良かった。洋式の生活習慣で育っていると、慣れるのが大変でしょうから。」
「え…?」
どういう意味の発言だろう。
思わず、視線を上げて、まじまじと顔を見たが、無表情すぎて、やっぱり何を考えているのか分からない。
「なに。別に大して身構えていただく必要はありません。うちにも使用人はおりますから、貴女は嫁入り道具と、親しい女中でも連れて来れば良い。」
細い目が値踏みするように、こちらを見る。蛇みたいだ、と思った。
「私は、今は少尉ですが、来春には士官学校へ上がることが決まっています。士官学校を卒業すれば、上級士官への道が開ける。私も、後々は父と同じ中将か、それ以上には……」
「あの、ちょっ……ちょっと待ってください!!」
眉一つ動かさぬ無表情に、感情のこもっていない、淡々とした口調。
にもかかわらず、言っていることは、まるで……まるでーーー
「藤高少尉は、桜子さんとの婚姻をお望みですか?」
言いにくい桜子に代わって、新伍が割って入ってくれたのだ、と気づいた。
「すみません。第三者の僕が、不躾に。でも、藤高少尉のご発言が、まるで桜子さんをこの家に、迎えようとしているかのように聞こえたので。」
藤高は、始めて、少しだけ目尻をピクリと動かしたーーーような、気がした。
新伍は、それに気づいただろうか?
ちらりと表情を伺ったが、新伍の様子に変化はない。桜子の見間違いだったのだろうか。
「桜子さんは、父が選んだ縁談です。相応しい相手なのでしょう。無事に整えば良い、と思います。」
桜子が、どのような人間であるかなど関係ない、とばかりの言い草に、否が応でも嫌悪感が湧いてくる。
確かに、良家の縁談は、互いの家どうしの利益と都合で成り立っている。政略結婚みたいなものなんだから、気持ちを求めるのは間違っている。
それでも、この、あまりにもあけすけな態度は、父や使用人たちの愛を受けて育ってきた桜子には、到底、受け入れられないものだった。
「桜子さんには、藤高少尉の他に婚約候補の方がいる、ということは聞いていますか?」
「聞いています。私は、二番目の候補、なのでしょう?」
あまりにも直截的な言い方に、桜子は、眉を顰めた。
だが、藤高は、自分の言葉を、何とも思っていないらしい。
長い指で、コツンコツンと机を3回打ち鳴らすと、
「何番目だろうと、別に気にしていませんよ。既成事実を積み上げ、堀を埋めれば、私の勝ちだ。」
コツンコツンとついた点の外側を囲むように、指でクルリと円を描いた。
まるで、戦利品を手に入れるための分析でもしているかのように。
「いかがですか、桜子さん? 藤高に嫁いでいらしては?」
今すぐにでも返事を寄越せと言わんばかりに睨めつける。肯定以外の返事など受け入れないと言われているように。
(もう、いやだ。)
今すぐにでも、ここを飛び出して帰りたい。
桜子は、助けを求める気持ちで、新伍のほうをみた。
新伍は、藤高の放つ冷気など、いにもかいさず、のんびりと尋ねた。
「桜子さん、婚約者の候補の方には、順番があるのですか?」
そのとき、桜子が膝の上で強く握りしめていた両手の上に、スッと包み込むように手が置かれた。少しゴツゴツした新伍の手が、「落ち着いて。」と言わんばかりに、2回、トントンと桜子の手のひらを優しく打つ。
それで初めて、桜子は自分の指先が震えていたと気づいた。
「藤高少尉は、随分とアレコレ分析しているようで、とても興味深いですね。婚約者候補の方がいるとは、聞いていたけれど、順番があるとは、初耳でした。」
父からハッキリと言われた訳では無いが、あの釣書の順番が父の考える優先順位なのだ、と桜子は思っていた。
桜子は、答える代わりに、曖昧に微笑んで答えた。
「なるほど。順番がない、ということは、私も一番になり得る、ということですね。」
理屈の上では、そうかもしれないが、桜子は、早々に藤高貢を候補から外しかけていた。
「私からも質問をしていいですか?」
そんなことは露とも知らぬ藤高が、桜子と新伍を交互に見る。
「五島さんは、なぜ、桜子さんに付き添って、この場にいるのですか? 貴方は、桜子さんとどういう関係なのでしょう?」
確かに、婚約者候補の湖城の娘が使いに来たのに、よくわからない書生の男を連れていたら、不審に思うだろう。
この質問には、以前、樹に答えている。用意された答えがある。
「うちの使用人たちが忙しいので、三善中将にお願いして、五島さんに手伝いを……」
「桜子さんに、不審な手紙が届いたのです。」
「?!」
樹に答えたのと違う。
手紙のことを正直に話してしまうなんて。ましてや、犯人が誰かもわからないのに。
しかも、桜子は、既に藤高貢に対して、全く好意的な感情を抱いていない。そんな人に、桜子が晒されている危険について話してしまうなんて。
「ご…五島さん! 樹兄さんに答えたときと……」
「無理でしょう。忙しいからといって、友人の家の書生にお嬢さまの世話を頼むなんて、そんな説明、藤高少尉に、通じません。」
使い分けているのか、という驚きと、樹に話したのは、やっぱり、少し無理がある言い訳だったんだなという、妙な納得感。
あれで信じるのは、些事を気にしない、樹の人の良さ。
藤高貢が真っ直ぐ背筋の伸びた良い姿勢のまま、グイッと身を乗り出した。
「手紙、というのはどういうものですか?」
もともの鋭い眼光が、さらに鈍く光ってみえる。
新伍が、桜子に届いた手紙について、かいつまんで話す。
「恋文であり脅迫状、ということですね。それで?」
貢が、腕を組んで、顎を上げ、やや居丈高に尋ねた。
「手紙の犯人は私ではない、と証明できましたか?」
視線は、新伍の懐に向けられていた。
「えぇ。ご協力のおかげで。」
「?」
桜子は、交わされる二人の言葉の意味を図りかねて、新伍に問うような視線を送ると、
「さっきの受領証ですよ。」
「わざわざ、あんなおかしなものを書かせて、なんの意味があるのかと思っていましたが、腑に落ちました。」
新伍は、懐から取り出した紙を、広げた。
そこには、一文字一文字、手習いの手本のように、細部の留めはねまで正確な文字で、
『ご依頼の書類、確かに受け取りました。
藤高 貢』
と、書かれていた。
「それで、五島さんは、あんな書付を?」
貢の書いた字は、あの手紙の文字とは、全く似ても似つかない。
「この件、警察には、話してあるのですか?」
「この手紙だけで、何とかしてもらうのは無理でしょう。」
「藤高家からも、口添えしましょうか?」
湖城は有力財閥であり、藤高は陸軍中将。警察の中に顔が利く人間もいるだろうから、確かに、警固などをつけてもらうことは、可能かもしれない。
「湖城さんは、あまり大事にしたくはないようでした。」
「なるほど。」
藤高が、細い目を一瞬、さらに細めて、
「犯人に目星がついているのかもしれませんね。」
「えっ?」
弾かれたように、視線をあげると、眼光鋭い貢と目があった。思わず、顔を伏せる。
(考えたこともなかったわ。)
お父さまに、犯人の目星がついている?
新伍はどう考えているのだろう?
おそるおそる新伍のほうに視線を向けると、
「さぁ………それは、どうでしょう?」
曖昧な返事とともに、首をかしげた。
話は、ここで打ち切りとなり、二人は貢に、暇を告げた。外に出ると、日が傾きかけている。
「念の為、行燈を貸しましょう。」
藤高家の家紋の入った行燈が用意されるまでの、ほんの僅かな間に、貢が言った。会ったときと同じように、舐めるように、新伍を見て。
「家まで送る必要は、ありませんね。」
「えぇ。大丈夫です。」
新伍が、どこか意味有りげな笑顔で、それに応えた。
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