翡翠の環−ご主人様の枕ちゃん

綿入しずる

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Ⅱ‐回青の園

寝台ⅱ

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 あれからたまに性欲を感じる。でも翌日、その翌日も、抱かれることはなかった。以前にはねだられるのも気分がいいとは言われていたが、そういう仕事中でもないのに俺から切り出すなんてとても――それに主人の忙しさ、お疲れだろうと思えば、もっといけないと思う。主人も俺に言葉を請うことはなく二日過ぎた。
 朝、夜に目を閉じたときと大差ない温かい懐で目が開く。小さく寝返りを打って見上げると主人の顔。あれ、と出かけた声は、寝起きで丁度擦れてくれた。
 珍しい。まだ起きてない。俺が起きて、綺麗な顔に見惚れて一呼吸しても、まだだ。そろそろ誰か起こしに来るだろうが、まだ。
 本当にお疲れなんだろう。少しでも長く寝ていてもらいたいが、起こさないようにしようと気を使うと逆に体が硬くなり、呼吸も不規則になってしまう。視線で起こしてしまいそうで寝顔を窺うのも躊躇われた。
 そしてそんな努力もほんの少しの間で終わってしまうのだ。決まった時間に使用人たちがやってくる静かな気配。普段であればこの頃にはもう身も起こしているんだけれど……
「旦那様、失礼いたします、朝支度に参りました」
 部屋の扉が開かれ声がかかって、それからようやく目が開く。もう見慣れたはずの金色に、この瞬間はつい息を呑む。
「……ん。ああ、入れ」
 咳払いして声を上げる、その反応もなんだか鈍かった。本当に珍しい。身を起こすのに合わせて自分も起き上がり、布団や毛布を畳んで湯たんぽの始末をする。残り湯で顔を洗う、その間に主人も顔を洗って朝食の席についている。横に座ると同じ食事が、主人の食器とは違う簡素な皿によそわれて差し出された。
 此処に着いてからはこうして主人と一緒だから、朝夕同じ物を食べさせてもらっている。定番の粥はまだ湯気が上がる温かさで、色々な香辛料を入れた独特の匂いがする。他にも肉と豆の煮込みや卵料理、果物もある、寒期バラドになったので内容は少し変わったが、屋敷とも差のない豪華さだ。
 朝に部屋へ来る使用人はほとんどが屋敷から付いてきた人たちで、俺という奴隷にも慣れていて特に関心を向けてはこなかったので、俺も気が抜ける。いい匂いだな、おいしそうだな、などと悠長に考える余裕もあった。
 ただ、なんとなく――段取りというか、様子というか、今日は何かがいつもと違った。違和感があった。
 食器の行き来が落ち着いて暫し。横目で窺った主人は茶を飲んで卓上を眺めている。
 今の俺の食事はちゃんと、主人が食べ始めてからだ。いつもなら待つことはほとんどない。朝食も身支度も、待っている仕事に早く移れるよう主人は使用人に合わせてさっさと動く。なのに今日は粥に手をつけず、それどころか匙にも触れず、主人は何か考えている風だった。どこか用心深く茶杯を傾け、料理を眺めて、かといって何か――例えば果物を剝くようにとか言いつけることもなく、黙っている。
 明らかにいつもと違うその雰囲気に、何か間違いがあったんじゃないかと使用人たちも緊張しているのが伝わってきた。
 気まずい沈黙。ごくと唾を飲んでもまだ静かだった。
「……医者先生を呼んでくれ、頭痛がする」
 そうしてぽつと聞こえた声は独り言のような調子で、皆が固まった。叱責があったと思って、一番格上の給仕が咄嗟に口を開く。その後も微妙な間があった。全員が驚き、今度は隣の年嵩の女性が皆をせっつくように言った。
「――まあ。大変、すぐに手配いたします」
 一人が急いで扉へと向かったところで、呆けていた皆が慌ただしく動き始めた。俺はどうしたらいいのか分からずまだ固まっていた。
 医者先生、頭痛。体の調子が悪いってこと。
 疲れた、なら幾度か聞いたがそれは初めてのことだった。どうやら使用人たちにとっても慣れないことのようだ。いつものなめらかな動きとは違い、皆どこかぎくしゃくと動いて主人の近くに寄ったり離れたり、指示を出したり出されたり。
「横になられますか」
「火鉢を寝台に寄せて頂戴な」
「酷く痛みますか? 今しばらく辛抱なさってくださいませ」
「大事ない、ただの風邪か何かだろう」
 とりあえず邪魔になってはいけないと気がついて、慌てて主人の横を空け、離れた場所に立つ。淡々と返す主人の目がこっちを見たが、どうしろとの命令は無かったからただ眉が下がる。
 なんかいつもと違う、のは風邪だからか。起き抜けもそれで。具合が悪かったのか。近くにいたのに全然気がつけなかった。それに次はどうしたらいいのかも分からない。
 主人が再度、まだシーツをかけ替えられてもいない布団の上に戻る。クッションを背に身を起こして、手渡された茶を飲んで待つ。
 ぱたぱたと忙しない足音がいくつも重なって、扉が開く。緑の帽子は居なかったが、飛んで来たハリュールを見るとどうにかなるように思えて少しは安心した。彼も動揺が透けた顔だったけど。
「お加減が悪いとか」
「少しな。風邪だろう」
 確認の声に、主人はさっきと同じような言い方をする。軽い言い方だったが、声がいつもより弱い所為でそう聞こえるのかも知れなかった。どこかぼうとした、据わりの悪い声音だ。
 風邪って言ったって、風邪で死んだ奴隷なんて何人も見た。思って、ぞっとする。他の、もっと酷い病気だったら。
 一人頭振って考え直す。主人には医者先生もついているし、いくらも高価な薬とかだって使えるだろう。ジャルサの加護もある。だから大丈夫だ。
「少ないに越したことはないですが、それでも……一体何年ぶりです」
「さて十年だったか、もっとか……頭が動かんな、やれ」
 凭れた主人は大儀そうに肩を竦めて溜息を吐いた。そこでようやく医者が帽子を被りながらやってくる。屋敷に居た老爺ではなく、もう少しは若い男だった。
 入れ替わりに離れたハリュールは俺を見つけて歩み寄った。その手が持ち上がってびくりとしたが、振りかぶられたり掴まれたりすることはなく、頬に触れた。
「お前まで風邪ひいたわけじゃ……分からんな」
 掌を当てて――体温を確認しようとしたのだと、医者が同じように主人の頬や首に触れているので分かった。
「ああ、熱がございますね……悪寒がなさいませんか。……うん、腫れも少し……」
 人は病気になると熱が出る。死にかけの氷精憑きネ・モ・ヒエムもぬるくなるが、それでもハリュールの手よりは冷たいはずだ。奴隷商でもなければ触れてもよく分からないだろう。それに俺は相変わらず冷えている。俺は別に、どこも痛くないから。
「いえ、俺は元気です……」
「なら元気そうにしてろ。そんなに心配しなくてもいいはずだ」
 ふ、と息を抜いて、ハリュールは主人のほうを振り返った。入ってきたときは皆と変わらず慌てた風だった医者は、今は笑っていた。それを見て本当に息が抜けた。
「昔から滅多に病気や怪我をなさらない方だ。御加護が篤いからな。……ただまあ、滅多にないというだけで、まったくなかったわけじゃないそうだ。それでもすぐに治っていたと聞く」
 鸞は、何をしているんだろう。ちゃんと主人を護ってほしい。不安と憤りが胸に湧くが、同時に自分が何もできていないことも突きつけられる。折角仕事を覚えたはずが、結局言ってもらわないと何もできないなんて。もどかしい。
 主人の目や口の中まで見ていた医者が、頷いてハリュールに目配せした。
「――そうですね、頭痛も耐え難いほどではないそうですし、おそらく風邪と言って差し支えないでしょう。加護つきと言っても何事もそういう目のときはありますからね。旅でお疲れでしょうし、着いて十日も経ちましたか、ようやく気が緩んだのでしょう。できれば軽くお食事を召し上がって、体を温めて、後は寝ておられるのがよろしい。薬と足湯を用意いたします」
 言う声は穏やかな調子だった。酷くはない――ということだろう。さっきとは逆に、その場にいた全員がほっとするのが分かった。きっと、主人自身も。病気の所為か既に疲れた風だったが、まだ横にはならない。
「……ハリュール、急ぎの物があればそれだけ回してくれ」
「畏まりました。祈祷師もすぐ手配いたしますので」
 いつもより少し間延びした指示に、ハリュールはすぐに応じた。主人は笑った。
「大袈裟だな」
「大袈裟ですよ! 不届き者の呪いの可能性があります」
「……そうだな。サーダと子供たちも確認を。先代もだな」
「御意に」
 不穏な言葉にどきりとしたのは俺を含めた周りだけで、医者も否定しなかった。主人は変わらぬ、いつもより少しだけ覇気の足りない物言いで言いつけて、ハリュールの返事に一つ頷き、
「……言うことは言ったな、寝るぞ」
 目を伏せて考える間を置いてからまた頷いた。それがよろしいでしょう、と医者が言って、皆が次の仕事へと動き始める。
「ハツカ、来い」
「――はい」
 俺のことも、ハリュールを窺うより早く主人が呼んでくれたのに心底ほっとした。お前は外の仕事に行けと言われたらどうしようかと思った。気になって仕事なんてできない。
「白なんて抱えて寝ちゃいけませんよ、臓腑が弱りますからね」
 けれど寝台へと寄る前に、医者の先生が渋い顔で言うのにはっとした。そうか、病気なんだから。でも。
「横に! い、おりますので」
 主人に呼ばれたからにはと咄嗟に頭を働かせて――強気に口を利いてしまって狼狽えると、主人が頷いて再度手招いた。医者先生もやはり渋々といった顔ながら頷いてくれたので、急いで寝台の横へと身を寄せる。主人は掌でぽんと布団の端を叩き俺を座らせたが、その後の指示はなかった。
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