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第三章 掴んだ手を放すことは、許されないでしょう。

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 私には悩みがある。それは人間関係でも、仕事のことでもなく、ましてや色恋とやらでもない。

「大丈夫ですよ。伊藤さん。最初の滑り出しが良すぎただけです」

「でも、もう一週間くらい64キロから65キロを行ったり来たりです」

 崩れ落ちるようにジムのマットに横になれば、今日も爽やかな山本くんがフォローしてくれている。私のやる気はふーっと空気を入れればすぐに膨れ上がるが、逆を言えばすぐにへちょるのだ。私の心はへちょっているのだ。

「食事減らしたほうがいいですか?」

「いいえ。このままで大丈夫です。停滞期を乗り越えたら、また努力の分だけ体重が落ちますから。もうひと踏ん張りですよ」

「はーい」

 年下に励まされて情けないだとか、そんなくだらないプライドは遠い昔に捨ててきた。優等生のように手を挙げて返事を返せば「お疲れ様でした」と、にこやかに山本くんは去っていった。窓の外を見ればほとんど日が落ちている。夏場は七時を過ぎても明るかったのに、今では六時近くには夜がやってくる。短く息を吐いてから、ランニングマシーンへと足を向けた。


 部屋に戻れば日課のメンテナンスの時間。ジムから濡れたままの髪で上がってくるのが、中々の寒さになってきた。それでもドライヤーをする前につげ櫛で梳かしてあげないといけないから我慢だ。化粧水の干からびてしまった肌に、ゼロワンを塗れば砂漠に染み込む水のように一瞬で吸い込んでいった。毎日見る自分の顔の変化はいまいちわからないけれど、メイク乗りの良さが効果を示している。

 卓上鏡では映しきれない全身を見るために立ち上がれば、新しく始めたトレーニングのお陰で背中の筋肉痛に顔を歪める。おばあちゃんのように「あぁ」と小さく唸りながら鏡の前に立つ。お腹を見ようとヨレヨレのティシャツを持ち上げようと思い、さっと背後にある開かないはずの開く扉を振り返る。なんだか矛盾しているが、そうなのだから仕方がない。その扉は沈黙を守っている。一応、二度見してみたが、動く様子はない。

 ぺろりと捲ってお腹を見れば、始めよりはへこんだものの未だ掴める贅肉がしっかりとこびりついている。身体は筋肉痛なのに、結果の出ない現状に苛立ちが募っていた。

「そういえば・・・」

 ふと閃いたこと。いつか聞いた話だったか、ネットで見たかすら覚えていない。寒い日にベランダに薄着で出ると、身体を温めようとしてカロリーをたくさん消費できるというものだ。思い立ったらすぐ行動と、ベランダへと向かう。秋でもティシャツとテロテロ生地の薄手長ズボンは季節関係ないお決まりのスタイルだ。窓を開ければびゅうと吹き込んで来る秋の夜風に背中を震わせる。

「うぅあ・・・、コレコレぇ」

 謎のアドレナリンが出ているようで、気合一発勢いよく窓を閉めた。そしてガチャンと嫌な音がした。

 いやいやいや、まさかね。窓をスライドさせようとするがびくともしない。開け放たれたカーテンの間からもれた光が、私の間抜けな姿を照らしている。覗き込めば鍵はしっかりと閉まっているし、スマホはテーブルの上だ。万事休す。周りのビルはオフィスビルだから、もう人はいなくて真っ暗だ。今日は金曜日。待て待て、三日ここにいろと? こんな格好で凍えてしまう。たった十分程度いる予定が、三日?! ああ、吐き気がしてきた。


 一体何分経っただろうか。部屋の時計を見れば、まだ二十分も経っていない。途方に暮れるとはこのことだ。三日もトイレを我慢出来ないし、垂れ流しで発見されるくらいなら死んだほうがマシとさえ思う。座り込んで冷えた身体を奮い立たせて、柵を杖のようにして立ち上がる。夜風は冷たいはずなのに、もうそれを感じるだけの感覚はない。

「五十嵐社長」

 こんなときに浮かんでしまうのは、五十嵐社長で。小さな声で呟いたと思う。それなのに。

「日和?」

 左側の仕切り板の向こうから返ってきた返事に目を見開く。幻聴かもしれない。

「日和? どうした?」

 いいや、幻聴なんかじゃない。震えていた身体が、歓喜に震え始める。

「ちょっと出ようと思ったら鍵閉まっちゃって入れ(ガン)なくて・・・」

 言い終わる前にベランダの仕切り板が鈍い音を立てた。
 ガンガンと立て続けに鈍い音が鳴り、五十嵐社長の足が見えた。何度も蹴られた仕切り板には顔が覗ける程度の穴が開き、そこから見えたのは見慣れたはずの二重なのに初めて見る焦った表情をしている。次の瞬間蹴破られた板の下半分がこちら側に倒れ、五十嵐社長の手が伸びてきた。ヒーローみたいだった。

 この手を掴んでしまったら、私、もう引き返せないかもしれない。
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