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十、論理くん、赤ちゃん大魔王と会見する

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このあと私たちは、二回図書館旅行をした。真緑(まみどり)と、竹河(たけかわ)。真緑はこじんまりとしていて、椅子が小学校の椅子みたいだった。竹河で勉強していると、窓の外に何度も特急が見えた。論理くんは、今度は静かにしていてくれて、それでもときどきうなじにキスしてきて、勉強中の私を驚かせた。二人とも勉強はとても捗ったし、もっともっと熱くなれたと思う。竹河から帰ってきて、家の近くでいつものように論理くんから後ろ抱っこされた。そのとき、論理くんが抱っこしたままこう言った。
「池田さん、今度の三十日、空いてるかな?」
「うん、空いてるよ」
「じゃあさ…」
論理くんの言葉が途切れる。論理くんの表情はわからないけれど、曇った顔をしているような気がした。
「どうしたの?」
「うん…」
論理くんはまた黙り込んだけれど、意を決したように、一気にこう言った。
「申し訳ないけれど、俺の家にもう一度来てほしいんだ」
ドキッとした。多分、それは論理くんの腕に届いただろう。え…また行くの…?一体何故?
「うん…いいけど…。なんで?」
「ごめん、怖いよね」
論理くんは、右腕で私の胸をさする。ドキドキは完全に伝わっているようだ。
「あいつが、俺たち二人を呼んで、条件を出すらしい。銀水でも話したけれど、親父にあれこれ言われたことがあいつなりに堪えたみたいだ」
「うん、わかったよ」
私は振り向いた。やっぱり論理くんの顔は曇って、あの悲しそうな表情が垣間見える。
「どんな条件だかわからないし怖いけど、行くしかないよね」
「ごめん、池田さん」
論理くんの腕に力がこもった。そしてあの「はああああっ」という深いブレス音。胸式呼吸の論理くんの肩が上がるのがわかる。
「たとえ、火鼠の皮衣を取ってこいと言われたら、俺は取ってくるよ。池田さんと一緒に生きていくためなら」
相変わらずな言い方をするな、論理くん。でも、その言い方が嬉しかった。
「じゃあ論理くんのお母さん、かぐや姫でさえ手にできなかったものを手に入れるんだね」
「池田さん!俺、池田さんを離さない…!」
論理くんは、後ろから固く私を抱きしめた。私も、自分の手を論理くんの腕に添えて、固く抱いた。

七月三十日。この日はすぐに来てしまった。朝起きたとき、陰鬱な気持ちがまとわりついていた。どんな条件を出されるのか不安でしかたがない。でも、前に進むしかない。論理くん、ラインくれないかな。そんな私の思いが通じたのか、スマホが「ライン!」と鳴る。
「論理くん!」
のめり込むようにスマホを開けた。そこにはやっぱり、論理くんからのライン。ああ…。
『池田さんおはよう。今日はごめんね。怖いよね…』
私は軽やかに指を画面に走らせる。
『論理くんおはよう。うん、確かに怖いけど、論理くんと一緒なら平気だよ!』
『やつがどんなこと言ってくるかわからないけど、どうなったって俺と池田さんは、ずっと一緒だよ!』
「!」のあとに、真っ赤で大きなハートマークの絵文字を三つも重ねる論理くん。ありがとう論理くん。いつもそんな熱い言葉で、私を元気にしてくれる。だから大好き!

論理くんからラインをもらった私は、てきぱきとベッドから起きて、顔を洗い、歯を磨き、ヘアブローをして、おかっぱを整える。髪は少し伸びて、リップラインよりもちょっと下まで来ていた。今日は…わざと地味な服を着るほうがいいな。下に行って、居間で朝ご飯を食べる。お母さんとお父さんと弟の正志(まさし)がいた。
「お姉ちゃん、今日は、論理くんの家に行くんでしょ?大丈夫?」
お母さんは、私を心配そうな目で見た。
「うん、大丈夫。論理くんがついてるから」
「あらあら、勇ましいわね」
そう言って笑うお母さんの隣で、お父さんがコーヒーを一杯すすりながらこう言う。
「俺もね、文香、一応全部は聞いたけどさ、正直あまり勧められないな」
「でも、論理くんに罪はないよ」
私は、パンを一口かじった。
「なんかさぁ、論理さんって人、突然現れたよなぁ。お母さんが鬼婆みたいな人なんでしょ?お姉、わざわざ傷つきに行くことないよ」
正志が、パンをくちゃくちゃと食べながら言う。憎らしいところもある正志だけれど、こういうところは優しい。正志だけじゃなく、お父さんもお母さんも、私を心配してくれる。私の家族はこんなに温かいのに、なんで論理くんの家族は、あんななんだろう。
「ありがとうみんな。でもいいの、論理くんの家族からどう思われても、論理くんは、私を愛してくれてるから」
私は、論理くんの顔と温もりを思い出しながら言った。正志は、ぽかんとしている。お父さんは、私を見たまま動かない。お母さんは、ふんふんとうなずいたあと、こう言った。
「そう…。お姉ちゃんがそこまで言うならがんばってきなさい。でも、この前お母さんが言ったことは忘れないでね。お父さんもお母さんも、正志も、お姉ちゃんが酷い人にずたずたにされるのを、決して望まないから。そうだよね」
お父さんも、正志も、うんうんとうなずく。
「文香の口から、『愛している』って言葉が出るのか…。ついこの前まで、俺と一緒に風呂に入っていたのに」
「みんな成長するのよ、お父さん」
「そうだなぁ…」
お父さんは、何故か寂しそうだった。
「僕の口からも、『愛してる』って言葉が出るときがくるのかなぁ」
正志が、他人事のように言う。
「それは来るわよ。それもそんなに先のことじゃないでしょうね」
私は、お母さんと正志の会話を微笑ましく聞きながら、朝食を食べ終わった。起きたときの、陰鬱な気持ちと不安は、少し和らいでいた。お父さんとお母さんと正志に、また背中を押してもらった。ありがとう、みんな、大好き!

論理くんの家の前に着いた。あのときとは違って、今は午前中で、夏の日差しが頭から差し込んでいる。油蝉が、うるさいくらい鳴いている。でも私の頭の中には、あの夕暮れ時の、伏魔殿のような論理くんの家が消えない。
「ふう」
私は、ドキドキしながら深呼吸をして、震える指で呼び鈴を押した。ガチャリ、と、扉が開く。お姉さんが出てきた。
「ああ、文香ちゃんかね、入って」
お姉さんは、笑ってそう言った。でもその笑顔は、私の不安感を増幅させた。どうして私はこの人から、悪意を感じることしかできないんだろう。
「この前のあの部屋で、みんな待ってるからね」
「お邪魔します」
お姉さんはこの前と同様に、やっぱり何処かへ行った。目の前に、もうあのお母さんのいる居間がある。煙草の臭いが漂ってきた。心臓がドキドキして、足がすくむ。でも、行かなくちゃ。
「池田さん、こっちだよ、来てくれてありがとう」
あ、論理くんの声だ!私もそれに応えようとする。でも――。
「余計なことは言わなくていい!黙っていて!」
お母さんの、意地悪げな声がぴしゃりと響いた。足が止まった。動けない…どうしよう…。
「文香さん、いいよ。こっちおいで」
お父さんの声だ!地獄に仏!私は歩き出した。部屋の前に出る。論理くんが、お母さんの前で正座させられている。その向かいに、お母さん。座卓に身を寄りかからせて、右手の近くに緑色の手文庫。その上に茶色い灰皿。もう吸い殻が何本か溜まっている。その隣に木製の眼鏡置き。そしてお母さんは、もくもくと煙草を吸いながら座っている。この前と違って眼鏡をかけていた。その奥の目は、相変わらず威圧感に満ちている。でも、私の向かい、部屋の奥にお父さん。優しそうに私を見つめてくれる。どうして、こんな二人が夫婦なんだろう。
「文香さん、わざわざ来てもらってすまなかったね」
「謝る必要なんて無い!当然のことでしょう!」
お父さんが優しげに言ってくれたのに、お母さんはヒステリックに遮る。お母さんの言葉に合わせて煙草の副流煙がばくばくと吐き出されていく。相変わらずな人だな。
「まあ、論理の隣に座って下さい」
お父さんは、お母さんをまったく無視して、私を座布団に座らせた。
「さて」
お母さんは鼻まで落ちてきた眼鏡を、左の人差し指でぐいっと押し上げて言った。
「よくわからないけれど、あなた、夏休みに入ってから、今まで論理と何してた?」
お母さんは、鋭い目つきで私を睨んだ。私、こんな目つきで睨まれることしただろうか。
「答えなさい」
ドキッと心臓が跳ねた。でも、私悪いことはしてないよね…。
「図書館で、二人で勉強していました」
「論理くん、何してたの?怒らないから本当のこと言ってごらん」
お母さんの声色が、私と論理くんとではまったく違う。別人のようだ。
「怒るも何も、池田さんの言うとおりだよ」
論理くんは、毅然とお母さんに言う。
「この娘にそう言えと言われてるんでしょ?黙っていてもお母さんにはわかるよ」
「黙っていても勝手にわかるんなら、ここで池田さんまで呼びつけて、うちゃうちゃ話をする必要はないよな」
論理くんは、決して声を荒げないけれど、静かにお母さんに言い放つ。論理くん、なんかこの前と違う。
「なんであんたはそんな屁理屈を言うの!あんたはね、黙ってお母さんの言うことを死ぬまで聞いていればいいの!大体論理くんは…」
「そんな話をする場所じゃないだろう!」
お父さんが、お母さんをキッと睨んで言う。お母さんは悔しそうな顔で、言葉を飲んだ。
「文香さんだって、こんなところにいて怖いだろう。要点だけ話して帰ってもらわないとな」
「私はね…」
またずり落ちかけてきた眼鏡越しに、お母さんが少し血走った目で私を睨み付ける。
「私はね、まだ論理は小さいのに、どこの野良猫ともわからない娘に、何も知らない論理を持って行かれたくないの。論理は、私のそばにいる。それで十分。いい?私のそばに…」
「お前のド性根も、ほとほとしぶといな」
さすがのお父さんも少し苛ついた顔を見せる。
「もうさっさと、言うべきことを言わないか。能書きはもういい、論理は、文香さんと付き合うには、何をすればいいんだ?」
「……………」
お母さんは、息づかいも荒くうつむいている。お母さんは、論理くんがよっぽど大切なんだなと思った。いろいろ言われて少し不愉快だけれど、お母さんが言葉を発するのをじっと待った。そしてお母さんは、やっと顔を上げた。また、左手の薬指で眼鏡をぐいっと上げる。
「論理くん」
お母さんの冷厳な声。さっきの猫撫で声とは、また全然違う。この人の中には、ひょっとすると何人もの人が住んでいるんじゃないだろうか。
「この娘と付き合うのなら、明立に必ず合格しなさい。もし、明立を滑ってきたら、私は池田さんを相手に、損害賠償の裁判を起こします」
「なんだと⁉︎」
論理くんが身を乗り出す。私も、ええ⁉︎と、恐怖と困惑が襲ってきた。
「内申点を、三も四も上げろと言うだけでずいぶん無理難題なのに、裁判までするというのか」
論理くんはそう言って、しばらく無言でお母さんを睨み付けた。
「お母さん、この際だから一つ聞きたい。お母さんにとって、いちばん大事なものはなんだ?」
お母さんは、きょとんとした。
「いちばん大事なもの?今さら何を聞くの?論理くんでしょう。それ以外あるはずがない」
「じゃあ聞くが、」
論理くんは膝を動かして、お母さんに迫り寄った。
「そのいちばん大事なものが、いちばん大事にしているものを、どうして大事にできない?どうして、裁判だのなんだのと言って痛めつけるんだ?お母さん、お母さんのいちばん大事なものって、俺じゃないよな?」
「馬鹿言うんじゃないよ!あんたはまたそんな屁理屈を言って、親の心子知らずとはこのことだ!聞いていればいい気になって、論理くんのいちばん大事なものが、誰だって?あんたね、あんたね…!」
お母さんは、涙を流し始めた。論理くんのいちばん大事にしてるものって、私だよね…。お母さん、自分がいちばん大事だと言ってもらいたかったんだろうな…。なんだか、複雑な気持ち…。
「お父さん。もういいかな、これで」
論理くんはうんざりした顔で、お父さんに言った。
「うん、いい」
お父さんはそう言うと、ポケットから一万円札を一枚取り出して、論理くんに渡した。
「文香さんも、今日はよく来てくれた。相変わらず不快な思いをさせてすまない。これでどこかおいしい物でもこのあと二人で食べてきてくれ」
「お父さん!なにするのあんた!」
お母さんが、鬼のような顔で叫ぶ。でもお父さんは、それを全然相手にせず、私たちを部屋の外に送り出した。そして、部屋の中から障子を閉めた。
「お疲れ様」
玄関口にまたお姉さんがいた。
「赤ちゃん大魔王のお相手をしてくれてありがとう」
論理くんは、ぷいっと横を向いている。
「赤ちゃん大魔王って…?」
「そりゃあ当たり前でしょ、あなたたちにさっき無理難題を出したあのお方よ」
「聞いてたのかよ」
論理くんが、憮然と言う。
「一応ね」
お姉さんは、相変わらず笑っている。
「私がもらわれてきたときも、高校受験は大騒ぎだったわ。見りゃわかるでしょ、私勉強は好きじゃないの。それなのにあの人ときたら、真剣に、私は光ヶ丘(ひかりがおか)に行って当然と思ってたの。それが、中里(なかざと)も、森岡(もりおか)も、北も、尾風西もだめって聞いて、あの人の駄々のこねようと言ったらなかったわ。私は、清風(せいふう)で別によかったけれど、今でも清風がどうこうと嫌味を言われる」
「お母さんは、どうしてあんなふうに荒れているんですか?」
あんなお母さん、私の家庭環境からしたら考えられない。
「見栄よ」
お姉さんは、すっぱりと言い切った。
「あの人ね、歩けてたときから見栄っ張りなの。着物とか小物とか…。自分が動けなくなったから、自分の見栄を、私や論理に代わりに張らせようとしているだけ。母親にとって『うちの子は光ヶ丘に行ってるんです』と言えれば気持ちいいじゃない?だから、論理にも明立に行かせようとしている」
私の家では、そんな見栄だのなんだの、そんなことは関係ない。お母さんやお父さんは、私が行きたい高校に行かせてくれるだろう。私には、ちょっと理解ができなかった。お姉さんはさらに言葉を続ける。
「で、」
お姉さんは、にたっと笑った。
「論理は、これから一年ちょっとで、通知表を三も四も上げられる器じゃない」
「なんだと!」
論理くんが叫んだ。
「そう。まあ、上げられるっていうならそれはそれでいいけどさ。下手すると、裁判沙汰だよ。あんたが色きちがいになっていなければ、こんなかわいい女の子に厄介事を押しつけずに済むのにね。だからあんたは、一人で生きて一人で死ねって言うんだよ」
私は、お姉さんを見据えた。
「そんなの悲しすぎます。お姉さんが論理くんにどんなことを言っても、私は論理くんのそばにいたいです。そんな悲しいこと、論理くんに言わないで下さい」
「そうかいそうかい」
お姉さんがまた笑う。この笑顔は、苦手だ。
「ま、中学生の交際なんて、川面を流れる紅葉みたいなもので、付いたり離れたり忙しいものだしね。そばにいるというのならいればいいわ」
お姉さんはそう言って、私たちを玄関に送り出した。
「そういえばさ、」
お姉さんが私に問いかける。
「文香ちゃんの家は、何人家族なの?」
「四人です」
「お父さんとお母さんと、兄弟姉妹が一人?」
「弟です」
「そう」
またお姉さんが笑う。でも、その目がどこか変化した気がした。
「文香ちゃんを見ていると、どんな四人家族かわかる気がするわ。人間だったら、そういう家族のもとに生まれ育たなきゃいけないわね」
「私の家は…平和ですよ」
「そうでしょうそうでしょう」
お姉さんは苦笑いした。そして私たち二人をじろりと見たあと、にやにやと笑いながらこう言った。
「私は、あなたたち二人を祝福しないけど、一つだけ敵に塩を送ってあげるわ。損害賠償って言うけれど、論理が滑ったことと、文香ちゃんの動きとの間に、ちゃんと因果関係を立証できなければ、賠償請求なんてできるはずがない。あの人は自分の手で、地球全てが動かせると思い込んでいる赤ちゃん大魔王。振り回される必要は髪の毛一本ほどもないわ。それじゃあね」
玄関のドアがぱたりと閉まる。私たちは、論理くんの家の前に取り残された。私は、論理くんの手を取り、ぎゅっと握った。
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