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十一、論理くん、でぃーぷきすをする

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夏休み。毎日のように、合唱部の練習があった。コンクールまであと少しだ。練習にも熱が入る。全体練習中心で、指揮の西山先生が厳しく私たちを指導する。窓は開けているけれど、暑い。歌っているうちに、セーラー服の中が汗でべたべたしてくる。私たちの声は外まで響いているだろう。私は、額に汗を滲ませながら、真剣に歌った。でも頭の隅では、論理くんが私に言ってくれたことを思い出していた。
『池田さんの歌うところを、頭の中で、もう何百回再生したか知れない』
『俺は、池田文香の呼吸を愛してるんだ』
『必死に吸わないと、いい声って出ないじゃない。あのきれいなソプラノを出すために、ものすごく一生懸命に呼吸をしている池田さんが、俺大好きなんだ!』
あつい。気温も、論理くんの言葉も。みんな一生懸命練習してるのに、私はこんなこと考えているなんて、私、よっぽど論理くんのこと好きなのかな…。今も、どこかで論理くんが聞いていてくれたらいいな…。私は大きく口を開けて、また息を吸い込んだ。「すはあああっ」と私のブレス音。お腹も大きくふくらむ。私、歌ってるよ、論理くん…。

休憩中。私は、優衣とおしゃべりをしていた。
「暑いね~。汗だくだくだよ」
優衣は、スカートの裾を思い切りバサバサと振り始めた。
「ちょっと優衣!やめなよ!」
合唱部には、少数だけれど男子もいる。
「あ~気にしない気にしない」
優衣は、さらに何回かスカートの裾を振り、私ににたっと笑いかけた。
「でさぁ、ぶんちゃんはさぁ、このスカートの中、論理に見せたぁ?」
「えっ!なに言ってるの!」
「その様子じゃ、まだまだ、まだのようだな、一人エッチからは進んでないか」
優衣は、得意げに言った。
「そのひとりえっちっていうの、なんだか気持ちいいから、もう家で何回もしてるけど」
私がそう言った瞬間、周りがシンとなり、私に視線が突き刺さってきた。西山先生もこっちを向いている。その手に持っていた水筒が、床に落ちた。
「ちょっと!こっち来て!」
優衣は焦りきった顔で、私を音楽室の外の廊下に連れて行った。
「あまりそういうこと言っちゃダメだよ!」
「なんで?」
「恥ずかしいことなの!ぶんちゃん、本当にそういうこと何も知らないよね」
優衣は、呆れた顔をする。
「じゃあ、ディープキスなんかも知らないよね」
「でぃーぷきす?深いキスなの?何が深いの?」
「はぁ、この子は…じゃあ、銀水のトイレに続いて、この優衣さまが教えてつかわそう」
「お、お願いします…」
「普通のキスは、唇をただ重ねるだけでしょ?ディープキスは、唇を重ねた上で、口を少し開けて、お互いの口の中に舌を入れ合うの。それで、舌を絡み合わせるの」
私は少し想像してみた。でも、いまいちよくわからない。
「ねえ優衣、いまいちよくわからないんだけど…実践してくれない?」
私は、優衣に近寄った。優衣は慌てて一歩後ろに下がった。
「なに言ってるの!今度論理としなさい!」
私は、今度論理くんに会ったら、でぃーぷきすなるものを論理くんとしようと思った。
「よーし、練習再開するぞー」
西山先生の声が聞こえ、私たちは練習を再開した。

十二時くらいに部活が終わり、優衣と一緒に校庭に出た。日差しが強く、相変わらず暑い。校庭が日の光を反射して、陽炎が出ている。
「ん?あれ、論理じゃない?」
優衣が、いきなりそんなことを言う。心臓が飛び跳ねた。
「えっ」
私は、辺りを見回す。音楽室の真下の植え込みの前にベンチがある。そこに論理くんは座っていた。どうして論理くんがここに?いきなりのことに、心臓が激しく鼓動した。
「ちょっと論理!そこでなにしてんのよ!」
優衣は私の手を引っ張り、論理くんのもとに駆け寄った。
「聞いてたんだよ」
論理くんは、満たされたような顔で、穏やかに言った。
「なにを?」
優衣にそう尋ねられた論理くんは、やっぱり穏やかにこう言った。
「合唱部の、みんなの歌声。特にその中から、池田さんのソプラノと、ブレス音をね」
私は、きゅんとした。論理くん、なんでそんなくさい台詞をいつも平然と言えるんだろう。好き。好きだよ論理くん。
「はあ?論理って、そんなこと言う人だったか?」
「うん…。論理くんってこういう人だよ」
私は、やっとの事で言葉を発した。頬が燃えているのがわかるし、胸もさっきから高鳴り続けている。
「はぁ…。論理ってやっぱり変わってるわ。私にはわかんない。まあいいや、ぶんちゃん、さっきのこと論理と二人でよーく実践するんだよ。あーあ、あついあつい。じゃね」
優衣は踵を返して帰って行った。さっきのこと…。私は、論理くんを見つめる。思いがけず論理くんと二人きりになっちゃった。嬉しい。そして論理くんのおちょぼ口がぐっと開いて「はああああっ」と息を吸い込む。深い呼吸感のあるそのブレス音。肩が大きく上がる。そうして論理くんがこう言ってくれる。
「池田さん。九時から三時間、このベンチで池田さんの歌声を、シャワーのように浴びていたよ。池田さんの息継ぎと、僅かに上がるセーラーの肩も、身にしみるように楽しめた。ありがとう」
私も口を開いて「すはあああっ」と腹式呼吸。
「私も、思い切り息を吸って、論理くんが聞いてくれていたらいいなと思って歌ってた。そしたら、本当に聞いていてくれた。なんだか、以心伝心だよね」
論理くんは立ち上がり、私をぎゅっと抱きしめてくれる。
「必死になって歌っている池田さんは、出会った頃から大好きだった。だから何度でも聞きに来るよ」
「ありがとう。もうすぐ合唱コンクールが鶴賀(つるが)の公会堂であるんだ。よかったら見に来てほしいな」
論理くんは、ぱっと顔を輝かせた。
「本当⁉︎もちろん行くよ。ステージの上で歌ってる池田さんを、最前列で一回も瞬きせずに見届けるよ」
私は苦笑いした。論理くん、そんなに私の歌ってる姿を見たいんだね。
「最前列は無理だと思うよ。出場する子たちが前のほうに座るから」
「そうなの?残念…。でもそれ、何日だったっけ」
「八月二十日だよ。論理くん、その日空いてる?」
「たとえ空いていなくても、腕ずくで空けさせるよ」
論理くんは、にっこり笑った。
「ありがとう。論理くんが聞いてくれると、私も歌い甲斐があるよ」
「池田さんがステージのどこにいても、俺が客席のどこにいても、池田さんのソプラノとブレス音は、必ず聞こえるからね」
論理くんの顔が近づいてくる。
「あっ、ちょっと待って論理くん」
「え?」
「あのね、優衣に聞いたんだけど、でぃーぷきすっていうものがあるらしくて、それはなんか、普通のキスとは違うみたいなんだけど、論理くん、でぃーぷきすって知ってる?」
論理くんは、きょとんとした。
「でぃーぷきす?深いキスって意味?知らないな、どんなものなの?」
やっぱり論理くんも知らなかったか。
「あのね、普通のキスは、唇をただ重ねるだけだけど、でぃーぷきすは、唇を重ねた上で、口を少し開けて、お互いの口の中に舌を入れ合うらしいの。それで、舌を絡み合わせるんだって」
「へえ、そうなんだ」
「ちょっと、やってみない?」
私は、論理くんの目を見つめた。論理くんも、うん、とうなづいて、顔を近づけてくる。唇が触れる。口を少し開けて、舌を伸ばした。論理くんの舌が、私の舌に当たる。
「んんっ…」
思わず声が漏れてしまった。私の背中を抱いた論理くんの腕に、一気に力がこもった。そして、論理くんの舌が、激しく動き始めて、私の舌を追い回す。なにこれ…気持ちいい…。また、優衣に教えてもらった、大事なところ――おまんこ――が、熱く疼く。論理くん、本当にでぃーぷきすって知らなかったのかな。さっきからすごい勢いで私の舌をかき回しているけど。
「あっ…ぁぁ」
論理くんの喉が鳴る。私たちの口が、お互いの唾液で濡れ始めた。論理くんの右腕が、私の背中を離れ、すーっと左の乳房に辿り着く。軽く揉まれた。
「はぁっ…あっ…」
心地よいドキドキ感がある。気持ちよさから吐息が漏れる。とろけそう…。ひとしきり舌を絡ませたあと、舌を抜き、唇を離した。論理くんが、息を弾ませ、顔を紅潮させて、そこにいた。私も、息が弾んでいた。
「池田さんが歌っているとき、きびきびと動いて歌を紡いでいるのがその舌なんだよね。その舌に、俺、生まれて初めて触れたよ。それも、俺自身の舌でね。これがディープキスか。…最高だ」
論理くんは、心底興奮しているようだった。
「私も興奮した。帰ったら、ひとりえっちっていうのしようと思う」
「そうか、一人エッチか」
論理くんの顔は笑っていた。でも、私の見間違いなのかな。論理くん一瞬だけ、寂しそうだった。
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