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九、論理くん、私を勇者にする

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終業式の日になった。明日から夏休みだ。論理くんと会えない日々が続くと考えると、少し悲しくなった。夏休み、論理くんと会いたいな…。
「ねえ池田さん、夏休み、この前池田さんが言ってた、『図書館旅行』をしようかと思うんだけど、池田さんも一緒にしない?」
論理くんは、快活に長い台詞を言った。今までの論理くんなら、言葉も淀むし、いつもうつむきがちだった。どうしたんだろう?
「どうしたの論理くん?なんか元気に見えるけど」
「そう?心当たりないよ。池田さん、空いてる日いつかな」
「あ、えーと、ちょっと待ってね」
私は、スマホを取り出してスケジュールを見た。
「明日空いてるよ。どう?」
「俺も空いてる。じゃあ明日行こうか。待ち合わせ場所は、尾風駅の中央コンコースにある大時計の下。わかる?」
「ああ、あの、列車の出発時刻が出る電光掲示板のところだったよね?」
「そうそう。あの辺りにいてね。時間は十時ね」
「わかった」
やったー!夏休み初日から論理くんに会えるなんて!やったー!

次の日。私は、約束通り十時に大時計の下に来た。この前、論理くんがかわいいと言ってくれた、Baby, the Stars Shine Brightの洋服。おばあちゃんに誕生日プレゼントで三着もらったから着回しをして、今日は、上は半袖のブラウス。下は、ピンクのスカート。前回に引き続きフリルがたっぷり。論理くんはもう来ていた。そして論理くんは、私に気付いたらしく、にこにこ笑いながら手を振ってきた。あれ?と、私は思う。この前のカラオケデートのときと、なんか違う。
「池田さん!おはよう!」
「あ、論理くん、おはよう!」
「カラオケのときもそうだったけど、池田さん、Baby似合うね!かわいいよ!」
「え、Baby?Babyって何?」
「そりゃあ、Baby, the Stars Shine Brightの略だよ、池田さん、その服着てて略語知らないの?」
やっぱり論理くん、勢いが違う。昨日の終業式でもそうだったけど。この前のカラオケデートのときと人が変わったような論理くんの生き生きとした言動に、私は少し気圧されていた。
「し、知らなかった…。でも論理くん、女の子の服のブランドなのによく知ってるね」
「幅広く知ってるわけじゃないけど、ロリータファッションは大好きだよ」
「ロリータファッション?」
論理くんは、私の服のあちこちを指差しながら言う。
「そういうふうに、フリルとか、レースとか、バッスルとかヨークとかが、かわいらしくあしらわれた服のことをそう言うんだ」
なんで論理くんが、フリルとかそんな言葉を知ってるんだろう?
「あ、そうなんだ」
「この手の服は、黒髪で、清楚な雰囲気のある、落ち着いた女の子によく似合うんだよ。例えば池田さんとかね」
「えっ、私⁉︎」
えっ。私はドキッとした。論理くん、こんなこと言う人じゃなかったのに。どうしちゃったんだろう。でも、こういう論理くん、好き。惚れ直しちゃう。
「うん。ファッションは人を選ぶからね。池田さんは、選ばれるに十分な人だと思う」
私…こんな所で口説かれた…。かーっと顔が熱くなってきた。
「もう…。論理くん、わかったから、早く行こ」
私は、論理くんの手を引っ張った。
「あ!」
突然、論理くんが後ろから声を出す。
「えっ!なに?」
私は、振り返った。
「池田さん、今日もうなじ剃ってきたんだね」
顔が熱いよぉ。
「え…。うん…」
「どうして?」
論理くんは、まるで私の答えがわかっているかのような顔をして、そう聞いてきた。え…どうしてって…。論理くん…。ううう…。
「…論理くんが喜んでくれるから」
私は、恥ずかしかったけれど、そう言った。
「どうして俺が喜ぶことをしてくれるの?」
論理くんは、さらに自信に満ちたような口調でたたみかけてきた。論理くん…。だから、ここは駅の真ん中で、みんな見てるんだって!それでも論理くんは、じいっと私の瞳を見つめてくる。え…論理くん…。恥ずかしい…。でも…言いたい!私はぎゅっと目を閉じ、小さな口を思いきり開いて「すはあああっ」と呼吸した。
「論理くんが好きだから!」
思わず叫んでしまった。論理くんは自信満々な顔をしているけど、瞳の中には、私を愛おしむ気持ちが見えたような気がした。ハッと辺りを見回すと、通りすがりの人がこちらをじろじろ見ていた。私は、恥ずかしさから、顔が耳まで熱くなるのを感じた。
「じゃあ行こうか。池田さん」
論理くんは、私の手を取って歩き出した。あれ?なんだか、私の大事なところが、熱い…。ええ…、私、どうしちゃったんだろう…。

今日の目的地は、尾風から百キロほどのところにある、銀水(しろがねのみず)という街にある図書館だった。尾風駅から、香歌(こうか)行きの特急に乗る。車内に乗り込んで、論理くんが通路側、私が窓側に座った。
「わあ、私、香歌行きの特急なんて初めて!」
「そうなんだ。俺も、八木(やぎ)から先には行ったことないなぁ。あっちのほうに特に親戚もいないし」
「銀水までどれくらいかかるの?」
「一時間半だよ」
私は、表情を緩めた。
「じゃあその間、たくさんおしゃべりできるね」
「そうだね」
そこから銀水まで、私たちはいろんなことを話した。論理くんは、駅名についてすごく詳しく教えてくれた。小さな駅を一瞬通り過ぎただけで、「あ、戸田(とだ)を過ぎた」とか、「この次が緑山(みどりやま)だな」と、まるで地元の人みたいに言う。そればかりか、この電車の停車駅と到着時刻もみんな知っていた。
「なんでそんなに詳しく知ってるの?」
私は、驚いてそう聞く。
「俺、子どもの頃から時刻表をよく見て育ったんだよ。全国の駅とか列車ダイヤとかは、大体わかる」
論理くんはそう言った。
「見ただけでそんなに覚えられるの?」
私がそう聞くと、論理くんはきょとんとした。
「え、何度も見てたら誰でも覚えるんじゃない?」
「え、そんなことないと思うよ。私は覚えられない。論理くん、見た時刻表のページをそのまま覚えてるわけ?」
「うん。この特急の時刻は、時刻表春号の、四十六ページにある。それを思い出しながら今乗ってる」
「えー!論理くんすごい!」
論理くんが、どうやってものを覚えているのか気になった。勉強のときもそのように覚えているのかな。
「じゃあ、勉強のときも、教科書のページをそのまま覚えられるの?」
「いや」
論理くんは苦笑いをした。
「そういうことのできる人が、東大や京大に行くんだろうね。俺は、そこまではできない。良くも悪くも印象の強いものが頭に残る」
「例えばどんなものが?」
「腹式呼吸で必死に歌っているおかっぱの女の子」
「えっ」
それって私のこと?どういうことだろう…。私は論理くんを見つめた。論理くんは大きな口を開き、「はあああっ」と息を吸い込む。深いブレス音。胸と肩がふくらんだ。そして話し出す。
「池田さんが、息継ぎをするときの大きく開いた口。ブレス音も聞こえてくるくらい。わずかに動く肩。背中の動き。ぐっと膨らむお腹。みんな、俺の頭に残ってる。映画のようにね」
私は、顔が熱くなった。そういえば、前に論理くんとカラオケに行ったときも、そんなようなこと言ってたっけ。あのとき私が歌った様子が、全部論理くんの頭の中に残ってるのだろうか。恥ずかしい。
「そ、そうなんだ…」
ガクン、と、電車のスピードが落ちた。大きな駅に入っていく。
「撫仏(ぶふつ)か」
論理くんは窓の外を見たあと、私を見つめた。その視線は、音楽室で私を見つめていた、あの視線と同じだった。そしてまた「はあああっ」と肩を上げて息を吸い込む論理くん。論理くんは胸式呼吸だな。合唱でいい声出ないぞ。
「池田さんが歌い始める直前に、思いっきり口を開いて、息を吸い込むところが、最初に印象に残ったんだよ。そこからずっと音楽室で池田さんを見つめて、池田さんが息継ぎをすると、セーラーの肩が微かに動いたり、背中がちょっと膨らんだり、お腹が力強く動いたりするところまで見ていた。池田さんの歌うところを、頭の中で、もう何百回再生したか知れない」
論理くん、そんなところまで見てたの?そうか、論理くんがいつも女の子を見ていたのは、そういう理由だったのか。そう語る論理くんの声が車内に響く。撫仏の駅で何人も乗ってきたお客さんが、ちらちらと私たちを見ていく。恥ずかしい…けど、嬉しい。
「論理くん、女の子の歌うところが好きなの?」
「違う。俺は、池田文香の呼吸を愛してるんだ」
論理くんは、毅然とそう言い切った。通路の向かいの会社員風の人が、薄笑いを浮かべてこっちを見た。論理くん、ここ、電車の中なんだよ。私は、顔がさらに熱くなるのを感じた。
「あ、ありがとう…。でも、呼吸ってどういうこと?」
「必死に吸わないと、いい声って出ないじゃない。あのきれいなソプラノを出すために、ものすごく一生懸命に呼吸をしている池田さんが、俺大好きなんだ!」
会社員風の人、まだこっち見てる…。恥ずかしい…。でも、私も言おう…!お腹をふくらませ、私も「すはあああっ」と呼吸する。
「ありがとう。論理くん、前にさ、COSMOSの『る』の音が、私の声しか聞こえなくなるって言ってくれたじゃん?それ、私嬉しかった。私も、合唱団員としてそれが自慢だったから、論理くんはそれをちゃんと聞いていてくれたんだって思った。いつでも必死で歌ってるけど、それを認められてるみたいで、すごく嬉しい」
私は、論理くんの目をじっと見つめて言った。ふと、脇腹と肩に、熱い感触があった。見ると、論理くんの手があった。その指先が、Baby, the Stars Shine Brightのブラウスを弄っている。論理くん…なにこの変な感情…。しかも、私…また、あそこが熱い…。
『皆さま、本日は、勾玉(まがたま)鉄道をご利用頂きまして、誠にありがとうございます。次の停車駅は、杉茶屋(すぎのちゃや)でございます…』
車内放送と重なり合って、論理くんの言葉が聞こえる。
「池田さんって、いつも必死で一生懸命だよね。そんな池田さんに、必死に一生懸命に愛されたらって、いつも思ってた。池田さんが大きく口を開いて、必死に息を吸うたび、池田さんに吸い込まれたいって、俺思ってたんだよ」
『…えー、銀水から先の停車駅は、八木に十二時三分です。香歌上(こうかがみ)には…』
通路の向こうからは、思い切り興味本位の視線が来る。論理くんの両手が伸びて、私を抱きしめてくる。
「池田さん、俺を、吸い込んでくれ!」
ぷっ、という失笑が、通路の向こうから。上からは車内放送。前からは論理くんの顔。いいよ、論理くん、私が吸い込んであげる…。今までの、どの歌よりも深く、強く…!論理くんの唇が近づいてくる。私も軽く唇を突き出して論理くんを待った。
「池田さん…」
「ん…」
キスするんだ、私。電車の中だけど。みんな見てるけど…。でもいい!論理くんとのキスだもん。論理くん、お互いファーストキスだね…!そして、私たちは唇を重ねた。

キスのあとは、ちょっと言葉がなくて、ぎこちない沈黙が続いた。依然として、私の大事なところは熱いままだった。私は、がんばって論理くんに話しかけて、論理くんもそれに応えてくれた。会社員風の人は、紅峠(くれないとうげ)の駅に着くまでずっと私たちをにやにやと見つめて、そして降りていった。その紅峠のあたりから、銀水までの間、私は論理くんに、私の家族のことを話した。両親は教師で、いつも帰りが遅いこと。三歳差の弟がいて、仲は結構いいこと。両親が教師だから、私も将来は教師になりたいということを話した。論理くんは、その話を興味深げに聞いたけれど、私の家族は仲がいいことを知ると、論理くんは、あの悲しげな顔をまた見せた。

図書館に着いた。駅からはそんなに離れていない。銀水の図書館は、大きいけれど古びていた。木でできた机が並んで、書棚にある本も、戦争直後に出たような児童書があったりした。
「すごーい。こんな木造の図書館なんて初めて」
「そうだな。今どきちょっと珍しいよな」
机に座り、教科書やノートを出して、二人で勉強を始めた。不思議に落ち着く図書館で集中できた。かれこれ三時間以上は勉強した。
「池田さん、すごく集中できて効率もいいし、図書館旅行を企画してくれてありがとう」
論理くんは、お礼を言ってくれた。
「いやいや、お役に立てたなら何よりだよ」
私は、論理くんが喜んでくれて嬉しかった。
「ちょっと、トイレに行ってくる」
論理くんは席を立った。私は、勉強を再開する。数学の、証明問題がどうしてもわからない。頭の中でいろいろ考える。そのとき、私のうつむいたうなじに、何か当たった。ビクッとして横を見ると、論理くんがいたずらっぽい表情で私を見ている。
「ちょっと、論理くん何したの?」
「だって…剃ってきてくれたんだもの」
「え?剃ったきたけど…。え、なに?」
「剃ってきてくれたうなじに、俺、キスしたかったんだ」
論理くんの声には、独特の響きがある。胸式呼吸で勢いのある声は出ないけれど、小声でも遠くまでよく通ってしまう。だから、また見られた。
「ありがとう…」
私は、人差し指を口の前に当てて、「静かに」とジェスチャーしながら、論理くんを横の席に座らせる。
「論理くん、この証明問題わからなくて困ってるんだけど」
私は、わざと話題を逸らした。恥ずかしい…。さっきから、もうずっと熱い…。私は、半ば無理矢理勉強に戻ろうとした。うつむいて、教科書に目を戻す。すると、またうなじに視線を感じる。
「もう、論理くんどうしたの?今日出会ったときから、いつもと違うよ」
私、ドキドキしちゃうよ…。
「そんなふうに見える?」
「うん、見える」
論理くんは、口元を引き締め、目を空中に漂わせて何か考えたあと、こう言った。また「はあああっ」と、深い呼吸感のあるブレス音がする。
「池田さんが家に来てくれたあと、お父さんが、珍しくあいつらに向かってしゃべったんだ。『子どもというのは、成長して独り立ちしていくもんだ。それをわかっていないやつは、親じゃない。リウマチがどうこうという話じゃない。リウマチであろうがなかろうが、人の親なら人の親らしくしろ』って」
「それで…お母さんどうなったの?」
「お父さんが珍しくしゃべったから、しばらく何も言えなかったけど、この前俺に、『論理くんが独り立ちできる子なのかどうか、いずれ見せてもらうわね』って言ったよ」
「『独り立ちできる子なのかどうか見せてもらう』って、一体論理くん何をすればいいの?」
「わからない。でも、今までは頭ごなしに駄目って言ってるだけだったから、今度は何か条件を付けてくるんだと思う」
「条件…」
論理くんのお母さんの顔と、煙草の臭いが思い浮かぶ。とんでもない条件だったらどうしよう…。
「どんな条件だと思う?」
「あいつは、何よりも世間体が大事だからな。だから、よくはわからないけれど、あいつの見栄を満たすようなことを言ってくると思う。でもそれより」
論理くんの目が、熱く煌めく。
「俺は、条件を出されるような者として見られたのが、初めてなんだ。それがなんか、ズシンときた」
「そっか!条件を満たせば、自由にさせてもらえるんだね」
「俺は今まで、なんでも頭ごなしにされてきた。あいつからもそうだし、学校でも、頭ごなしに嫌われてきた。それが今変わってきている。そしたら、少し胸を張れるようになった」
「よかったじゃん」
「俺が変わってこれたのも、池田さんのおかげだ」
論理くんの頬が少し赤くなって、声が段々と大きくなっていく。
「他の女子が頭ごなしに俺を嫌う中で、池田さんは、先入観なしに俺に接してくれた。おかっぱを切ってきたときも、俺が『おかっぱ、短い』と言ったら、後ろ姿も見せてくれたりして、自然に反応してくれた。それがどんなに嬉しかったか知れない。池田さん、本当によく俺と出会ってくれた。俺は池田さんが――」
「おい!いい加減にしろ、図書館だぞ!」
隣の机にいる、中年の男の人が怖い顔をしてこちらを睨んでいた。他の人も、こちらを見ている。あっ、やばい、謝らなきゃ。ところが論理くんは、
「なんだと⁉︎に言われる筋合いはねえ!」
と、睨み返してしまう。図書館中の空気が、ピーンと張り詰める。学校にいるときの論理くんは、いつも弱気な態度で、いじめられた私を守ってくれたときはすごかったけど、お母さんの前ではどこか強気になりきれなかった、そんな論理くんが…。
「抜かしたな!どこのガキだ!」
はっと、我に返る。
「すみません!」
私は、男の人に頭を下げ、周りの人たちにも「すみません、すみません」と、頭を下げた。
「なんだよ池田さん。俺は、間違ったことはしてねーぞ」
「思いっきり間違ってるから!」
机の上の教科書やノートをかき集めて、まだすごい顔をしている論理くんを引っ張って、私たちはそそくさと図書館をあとにした。

時刻は三時半を過ぎたところだった。この銀水という街も暑い。蝉の鳴き声が、あちこちから降り注いでくる。日差しも、まだまだ強かった。
「あいつ許せねえ、俺は真剣にしゃべってたんだ!」
論理くんは、まだ文句を言っていた。
「まあいいじゃんか」
そう言いながら、銀水の駅の駅舎に入る。お蕎麦屋さんののれんが目に入った。
「そういえば私たちお昼ご飯食べてないよね。ちょっとお腹空いたね」
「ああ、そういえばそうだった。なんか食べてく?」
のれんをくぐる。
「論理くん、何食べる?」
「天ぷら蕎麦」
「じゃあ私も」
注文して、お腹が鳴るのを論理くんに聞かれまいかと気にしながら、待つ。少し経って、天ぷら蕎麦が出てきた。引き替えにお金を払う。
「いただきます」
私は、汁に付かないように、何気なく横の髪を耳に引っかけて食べ始めた。なんかさっきから暑い。七月だから当然だけど、こっちに来るときにはあまり意識しなかった。どうして急にこんなに暑いんだろう。
「池田さん」
「なに?」
「あのさ…」
論理くんの視線が、私の耳の辺りにある。
「ん?どうかした?」
私は耳を触る。
「その…その辺り…もみあげ」
「もみあげ?」
もみあげを触る。
「そこ…。俺が、今度、剃ってやるよ」
「えっ」
どういうこと?
「その、」
論理くんの指が伸びてくる。そして私のもみあげを、触った。
「ほら、ここは、長いじゃん。でもここから下は、半端な毛がもしゃもしゃになってる。ここを剃ると池田さん、かわいくなる」
論理くんは、両手で私のもみあげ付近を触りながら、そう説明した。でも、説明はあまり頭に入ってこない。ただでさえ論理くんに触られてドキドキするのに、そのとき論理くんの左手の指が、耳をさりげなく触る。耳を触られるたびに、なぜかドキドキするし、顔も、体も、大事なところも、熱い。論理くんがさらに、耳の上の辺りを触る。もう我慢できない…!
「論理くん…」
売れない声優の作り声みたいに、私は呻いた。
「え?どうしたの?ここ剃るとかわいくなるから、今度剃ってあげるね」
「あ、あ…ありがとう」
話はわかってなかったけれど、お礼を言った。やっぱり暑い。多分、気温のせいだけじゃないかもしれない。Baby, the Stars Shine Brightが、粘っこい汗でもうぐちょぐちょになってる。
「ねえ…論理くん…。私、さっきからずっと変なの」
「え?変って?どうしたの?」
「体が熱いの…」
「え、大丈夫?夏風邪?熱でもある?」
論理くんは心配そうな顔をして、熱を測るように、私の額に手を当てた。
「ひゃあっ!」
私は、変な声を出してしまった。夕食の時刻ではなかったので、お客さんが私たちだけなのが幸いだった。もうどうしたんだろ…私。持久走を走ったって、こんなに熱くはならない…。
「えっ、池田さん、どうしたの⁉︎」
「論理くんが触ると、私、熱くなるの…。それになんだか、なんかおかしい…」
大事なところがおかしい。脈打っている。お腹の底から、むらむらとこみ上げるものがある。でも、論理くんにそれを言うのは、何故か恥ずかしい気がした。
「俺も同じだよ。触ってくれるだけじゃなくて、いろんな池田さんを見るだけでも、俺も熱くなる」
論理くんは、水を一口飲んで、こう続けた。
「何故熱くなるかと言ったら、それは、俺が池田さんを、愛しているからだ」
じっと私を見つめる論理くん。
「池田さんはどうなの?」
暑いし、熱いし、もう、どうしようもない。蝉の鳴き声が、脳内で反響する。もう立っていられない…。私は涙目になった。論理くんにもたれかかる。目を見つめる。
「私も、論理くんを愛してる。この熱さは、論理くんがくれたものだよ」
「池田さん!」
いつしか論理くんは私を抱きしめていた。その腕にこもる力が強くなる。論理くんの唇が近づいてくる。カウンターの向こうの店員さんの視線を感じながら、私はその唇を受けた。

改札口を抜け、銀水駅のホームに出た。尾風行きの特急が発車するまであと二十分くらいある。私は、尿意を感じた。
「論理くん、ちょっとトイレ行ってくる」
私は駆け足でトイレに向かった。トイレに入り、用を足そうとショーツを下ろす。えっ!何これ!ショーツに、ネトッとしたものが、指二本分くらいの広さで付いていた。こんなのは初めてだ。恐る恐る、自分の大事なところに触れてみる。
「えっ、ちょっと…」
濡れていた。熱く、ぬるぬるとした濃厚な質感がある。どうしちゃったんだろう…今までこんなことなかったのに…。怖かった。でもそのとき、論理くんの顔が浮かんだ。その顔に誘われるように、もっと中に指を持って行く。なんだか、気持ちいい…。指を、上の方にずらしたとき、指先に皺のような突起のようなものが触れた。
「きゃっ!」
体に電撃が走り、私は身を仰け反らせた。何故か、頭の中の論理くんが、もっと鮮明になって迫ってくる。なにこれ…気持ちいい…。もう一回触ってみる。また電撃!
「あっ…!」
変な声が出てしまった。恥ずかしい…私、どうしたんだろう…。他の人に聞かれちゃうよ…。でも、指が止まらないし、頭の中の論理くんが迫ってくる。また触る。「あん!」また触る。「あぁぁっ…!」また触る。「ああぁっ…あっ!」気持ちいい…私昇ってる…昇ってる…昇る…昇る…論理くん…‼︎
「あぁああ…っ…論理くっ…んん…‼︎」
論理くんの姿が頭に貼り付いて、快感が全身を電流のように走った。その衝撃で、足腰ががくがく震えた。尿が溢れ出て、大事なところを濡らした。何これ…。私どうなっちゃったの?

なんとか気持ちを落ち着かせて、ホームにいる論理くんのもとへ戻ってきた。私は恥ずかしくて、論理くんの顔を見られなかった。でも、さっきのはなんだったんだろう…。
「池田さん、どうしたの?やっぱり具合悪い?」
論理くんは、うつむいている私に向かってそう言った。どうしたのって言ったって…。
「う…ううん、なんでもない、大丈夫」
「そうなの?あ、そろそろ特急入ってくるよ」
私は、なんだかいけないことをしてしまったようで、大事なところが熱いのをどうしようもなかった。論理くんの勘が鈍いことを祈りながら、特急に乗った。

特急が銀水を出ると、不思議なことにすぐ眠気が来て、論理くんの肩にもたれながら私は寝てしまった。眠りながら、論理くんの手が頭やお腹を撫でてくれるのを薄ぼんやりと感じていた。

尾風に着き、バスに乗って家の近くまで来た。
「今日は楽しかったよ。ありがとう論理くん。また図書館旅行しようね」
「うん。今度はどこに行こうかいろいろ考えてるところだよ」
「ほんと?楽しみ!じゃあ、今日はこれで」
と、私たちは手を振り合った。私は、論理くんに背を向けて、一、二歩歩み出した。その瞬間、
「池田さん!」
突然論理くんが、背後から私を抱きしめる。
「えっ、論理くん…?」
論理くんは、私の胸の上辺りをぎゅっと抱きしめている。顔は、私の左肩に埋めている。私は、論理くんの腕に両手をそっと添えた。論理くんの鼻息が、私の左耳にかかって、また大事なところが熱くなってくる。
「池田さん…今日は、俺本当に嬉しかった。また、一緒に来てくれるかい?」
「うん、どこまでも行くよ」
「ありがとう…」
私は、首を左に向けた。論理くんの唇が、自然に私を迎え入れて、私たちは唇を重ねる。そして論理くんの右手がすうっと動いて、私の左乳房をつかんだ。ドキドキが止まらない…。長い長いキスをした。やがて唇が離れたあと、論理くんが囁く。
「池田さん」
「論理くん」
私たちは、軽くもう一度唇を交わす。
「愛してるよ」
「愛してるよ」
また口付けをして、
「大好きだよ」
「大好きだよ」
論理くんは、また、後ろから私を固く抱きしめた。私、今、最高に幸せ。ずっと私、論理くんといたい…。この夏も、この秋も、この冬も、ずっと…。

この日の夜、論理くんとラインをして今日のお礼を言った。そして、また熱い言葉を交わし合う。私たち、ラブラブだよね。余韻に浸ったあと、私は優衣に電話をして、今日あったことを話した。優衣は、嬉しそうに私の話を聞いてくれていた。
『へえ~論理って、私が思ってたのと結構違うんだね。なんかもっと頼りないかと思ったら、結構やるんじゃん』
「うん…。私も最初はびっくりしたけど、ますます好きになっちゃった」
『はいはい、ごちそうさま』
私は、優衣に話そうかどうか迷っていたことを話す。どうしてもはっきりさせたい。
「あのね…。それで、聞きたいことがあるんだけど…」
『ん?なになに?』
私は優衣に、銀水のトイレで、私が体験したことを聞かせた。優衣は、ときどきおもしろそうに笑いながら私の話を聞いてくれた。
『あはははは!』
優衣が大声で笑う。とても楽しそうだ。
「何がそんなにおかしいの?」
私、そんなおかしいこと言ってるかな?
『ぶんちゃん、駅のトイレでやっちゃったの?ある意味勇者だよ』
「え?何が?どういうこと?」
優衣は、ひとしきり面白そうに笑ったあと、深呼吸をした。
『しかたないなぁ、この優衣さまが教えてつかわそう』
「お、お願いします…」
『ぶんちゃん、それはね、一人エッチというんだよ』
「えっ!ひとりえっち?」
えっちというんだから、えっちなことのえっち?
『そう!一人エッチ。自慰行為とも、オナニーともいうわね』
「じいこうい?おなにー?」
初めて聞く言葉ばかりだ。
『ちなみに、ぶんちゃんの言ってた、皺のような突起のようなものは、まあ…』
珍しく優衣が言い淀んだ。
「優衣どうしたの?」
『何も知らないでこの子は…』
優衣は呆れたようにそう言ったあと、
『一度しか言わないからよく聞きなさいよ、それのことを』
珍しく優衣が音をたてて息を吸い込む。
『クリトリスっていうの!』
「えっ、クリスマス?」
『ぼけるんじゃないわよ!バカぶん!』
私は優衣から、女の子の大事なところについていろいろ詳しく教えてもらった。私の知らないことばかりで恥ずかしかったけれど、私は論理くんを、心だけじゃなくて身体でも愛しているんだ。そう思うと、とても嬉しかった。
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