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六十五、おばさんカット

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唯一の心の支えだった夢を失ったはーちゃんは、それからすっかり本島先輩のようになってしまった。大学には出てくるけれど、表情にぜんぜん生気がない。俺たちでいろいろ話しかけても、「ああ…」「そうか…」と生返事が返ってくるだけ。お昼ご飯も「腹減らねぇな…」と、食べようとしなかった。そしてそんな状態になりながらも、はーちゃんは坂口のもとに付き従っている。自分の夢を潰した張本人の坂口のもとに。またぶたれてもいるのか。はーちゃん…。何もできないまま、はーちゃんを見守ることしかできない俺たち。そんな日が一週間続いたある夜、恵美ちゃんから突然着信があった。
『もしもしロジックう』
「お、恵美ちゃんか。よく俺に電話できたな。博美は風呂か」
『うんー、今入ってったとこお』
「それでどうした恵美ちゃん?はーちゃんのことか」
『うううん…。あのさあロジックう、姉貴があ…』
なんだ、博美か。もう関心ないんだけど。でも恵美ちゃんの言うことだから聞いておく。
「博美がどうかしたのか」
『姉貴い、髪い、バサバサに切っちゃったあ。おかっぱやめちゃったよお。二センチくらいのベリーショートになってるう』
「ほう…。なんでまたそんなになったの」
『姉貴さあ…』
恵美ちゃんはそこで一旦言葉を切った。言い淀んでいる様子がわかる。
「博美が、どうした」
『村上とお、付き合い始めたんだよお』
「え?村上と?」
ちょっと驚いた。部長が上海に発つ前、あれほどベタベタしていたのに。その後、連絡が取りにくいとは聞いていたけれど。それにしても、後釜が村上とは…。
『姉貴い、博紀さんに放っとかれてえ、寂しくてたまんなかったとこにい、村上にい、『あんなやつと遠距離するよりい、俺といるほうがあ、お前は幸せになるう』ってえ、激しく言い寄られたんだってえ』
「村上のやつ、博美に気があったのか」
『そうみたいい』
村上がなぜ、不満いっぱいの文芸部を今までやめなかったのか、謎が解けた気がする。そういえば「ハルマゲドン」に、色白ぽっちゃり好みとか書いてたよな。きっとそれも博美のことなんだろう。
『んで姉貴い、村上にい、『太田みたいにい、力弱いやつなんかとお、同じ髪型にい、してるなあ』って言われてえ、言うこと聞いてえ、今日バッサリやっちゃったあ』
太田なんか?村上め、相変わらずムカつくな。まあ、そんなやつの言いなりになって二センチカットにする博美も滑稽だが。
「それでベリーショートか。村上の好みかそれが」
『わかんないい。でも美容室から帰ってきてから、姉貴機嫌いいー。ボクが聞いてもないのにい、村上のことお、あけすけにしゃべったあ。『東尾さんにい、何あんなに夢中になってたかあ、気がしれないー』とか言ってるう。布団の上でうんこ漏らしてえ、にっちもさっちもいかなくなってたらあ、それがみんな夢だったみたいな顔してるよお』
まともに連絡を取ろうとしない部長も部長だし、そんな部長に早々に愛想を尽かして村上なんかに乗り換える博美も博美だ。そんな馬鹿馬鹿しい、線香花火のようなカップルに振り回されて俺、わざわざ中穴島まで泣きに行ったのか。俺もおめでたい。
「そうか。まあ明日が楽しみだ。博美のぶざまな髪型を拝める」
『ロジックう…。姉貴が耳たぶおかっぱやめてえ、ショックじゃないのお?』
「ショックも何も、ここんとこだらだら伸ばしっぱなしだったじゃないか。前にも言ったろ、俺もう博美に関心ない。今俺、はーちゃんに夢中だ」
『え…⁉ロジック今なんてえ…?』
しまった。思わず口が滑った。電話の向こうで息をのむ恵美ちゃんがありありとわかる。
『ロジックがあ…、はーちゃんさんにい、夢中う…?どういうことお?』
「う…」
いけないドジ踏んだ。このこと、もっとしっかりした場所で恵美ちゃんに話したかったんだけど。しょうがない、もう言うしかない。
「恵美ちゃん、実は俺さ…、はーちゃんのこと、好きなんだ」
『……………』
長く沈黙する恵美ちゃん。でもやがて、「すはっ」と小さな息が聞こえた。
『そっかあ…。ロジックう、姉貴に冷たいって思ってたらあ、そういうことだったんだねえ…』
「ごめん恵美ちゃん。もっと早くに言うべきだったよ」
『うううん、いいよお』
恵美ちゃんの低い声。でも、ちょっと明るさが残っている。
『ロジックう、ならボクとロジックう、ライバルどうしだねえ』
「うん、そうなるな…」
『わかったよお。ロジックう、堂々とやろお。はーちゃんさんの気持ちい、振り向かせるのはどっちかあ、競争だよお』
恵美ちゃん独特の間延び口調が、ありがたかった。もっと激しく責められるかと思った。
「恵美ちゃん…」
『ごめんロジックう、姉貴出てきちゃうといけないからあ、これでねえ』
「う、うん。わかった。ごめんね恵美ちゃん」
『ほんとにごめんだよお。ロジックみたいなタマキン小さい男とライバルなんてえ。もっとカッコいいやつとお、ライバルやりたかったあ』
明るく毒舌で返してくれる恵美ちゃんが嬉しい。はーちゃんを競いあいながら、この子とも仲良くやっていけそうだ。俺の気持ちを理解してくれたことに再度礼を言い、俺は恵美ちゃんとの通話を終えた。

その翌日。「教育原理」の受講を終えた俺は、手早くお昼にし、トイレで用を足す。手鏡を取りだし、トイレの鏡と合わせながら、耳たぶおかっぱを入念にブラッシング。だがその手がふと止まる。
「ふう…」
小さくため息。博美、もう完全におかっぱじゃなくなったんだな。博美のことはもういやになっているし、博美のおかっぱはモサモサに伸びきっていたけれど、それでも、いざこうなってみると、どこか寂しい自分がいる。誰かまた、俺とお揃いの耳たぶおかっぱにしてくれないかな。はーちゃん、ばっさりやってくれないだろうか。はーちゃんと耳たぶおかっぱおそろなんて、めちゃどきどきする。そんなことを考えながら、俺はまた髪をとかす。切ってまだ一週間の耳たぶおかっぱは、後ろあがりに湾曲したカットラインも精確で心地よい。真っ白なうなじと、襟足の逆富士山型の剃り跡もかわいい。今日は服も紫セーラーだ。
「うん」
鏡の中の俺とうなずきあい、トイレを出た。そして部室へ向かう。

「もおっ、わけわかんないもんっ!」
部室の扉を開けると、いきなりふーちゃんの金切り声。ど、どうした?中には、睨み合う文香と博美。その間でおろおろする恵美ちゃん。昨日の恵美ちゃんの話どおり、博美は二センチカットだった。中年過ぎのおばさんに見える。
「いきなりそんな髪型にして、村上くんに乗り換えて、二人で部活やめるぅ?ひーちゃん、自分で何言ってるか、わかってんのぉっ」
見れば机の上には、退部届が二通のっている。
「わかるも何も、言ってる通りだから」
博美の冷たい声。ぶざまなおばさんカット。見てると笑ってしまう。
「それじゃ」
「待って!待ってよひーちゃん」
立ち去りかける博美の腕を、文香が取る。
「無茶だもん…。おかっぱ大好きって言ってたじゃん。部活、みんなで楽しくやってたじゃん。なんで…」
「答えは簡単。秀哉の好まない髪型でいたくないし、秀哉の好まない部活にもいたくないし、秀哉の好まない人間関係も結びたくないだけ」
博美のやつ、早くも村上を名前で呼んでいるのか。それにしても秀哉秀哉と…。それなら村上が「俺はお前が生きるのを好まない」と言ったら、こいつは死ぬのか。笑わせるんじゃない。
「考え直しなよぉ。ひーちゃん、あんなに部長さんのこと、好きだったじゃん。それを何?よりによって村上くんだなんてぇ」
「よりによって?」
博美が気色ばむ。
「ふーちゃん、秀哉の何を知ってるわけ」
「少なくとも、傷ついた人の心に平気で塩を塗る人だってことは知ってるもん」
この前の本島先輩のこと、ふーちゃんまだ根に持ってるんだな。確かにあれは悔やみきれないだろう。
「ね、ひーちゃん、落ち着いて考え直そ。村上くんの毒気に当たっちゃってるんだもん。もう一度部長さん好きだったころ思い出して」
「嫌!毒気?ふーちゃん、秀哉の一部分しか知らないくせに。秀哉はね…、東尾さんに放っとかれた私を、力強く励ましてくれる人なんだよ!」
「でも村上くんは、鬱で苦しむ徳郎さんを鞭打った!それは間違いない事実だもん。私、友だちがそんなひどい人のもとに行くの、放っとけないもんっ!」
「ああ、うるさいっ‼︎」
博美は文香の手を振り払った。
「誰が何て言ったって、秀哉は私の救いだよ!ふーちゃんはそこで、わけのわかったようなこと言ってればいい」
「待ってひーちゃん!お願い考え直してだもん!村上くんなんて──」
「やめようふーちゃん、もういい」
俺はそこで声を出す。
「博美はもう村上教の信者だ。信者に何を言っても無駄だ」
「何よ論理くん」
怒りもあらわに、博美が俺を睨む。
「村上教…?論理くん、秀哉を馬鹿にするつもり⁉︎」
そんな博美に俺はさらに言ってやる。
「相手の本質を見ずに盲従するんなら、新興宗教と同じだ。精々村上教祖様を崇め奉っていればいい」
「論理くん…論理、くん…っ!」
荒く息をする博美の顔がさーっと上気していく。吊り目の目なじりが。一層吊り上がった。
「何よ論理くんもふーちゃんもっ‼︎私が…私がどんな思いで東尾さんに放っとかれたかなんて、知りもしないんでしょう‼︎そんな私を、秀哉がどれだけ力強く支えてくれたか、わかりもしないんでしょう‼︎」
「姉貴い…、ロジックう…、ふーちゃんんー、ケンカやめてよお…」
怒鳴り散らす博美の脇で、恵美ちゃんがべそをかく。でも博美は、そんな妹のことなど気にもとめない。
「とにかくこれだけは言っとく。誰が何と言おうと、私は秀哉のところに行く。秀哉の好まないものとは全部縁を切る。私のすべては秀哉。以上だよ。さよなら」
こちらにくるりと背を向ける博美。おばさんカットの粗雑に切った襟足が、たまらなく不格好に見えた。
「姉貴待ってえっ!」
「来ないでメグ!」
足を踏み出しかける恵美ちゃんに、博美の鋭い声。
「あなたも、もう邪魔だよ」
「姉貴い…、そんなあ…。ボク邪魔なのお?」
涙ながらの恵美ちゃんの声。でも博美は、それに答えることなく、外に出ていった。押し黙るふーちゃんと俺。恵美ちゃんのすすり泣きだけが、部室に響いていた。
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