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六十四、紙吹雪

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二次選考のある日、はーちゃんは大学を休んだ。選考は一日中かかるってラインで言っていた。その結果が出るまでおよそ三週間、部活でも大学生活でも特に変わったことはなかった。強いて言うなら、本島先輩の顔をぜんぜん見ていないことがある。あのあと先輩がどうなったか、気がかりといえば気がかりだけれど、文香も俺たちも、もう先輩には関われない。どうしようもなかった。一方の文香は、もう先輩のことはとっくに吹っ切ったようで、いつも通り明るい笑顔を振りまいていた。
髪がまた一センチ半伸びたので、ヘアカットに行った。気持ちのいい耳たぶおかっぱがリフレッシュする。カットしたての例によって紫セーラーを着て大学に行き、ふーちゃんに「論理くん髪切ったのぉ、かわいいよぉ」と褒めてもらいながら、ニヤけて授業を受ける。そしてその日の四限目が、俺と文香が空きコマだった。『見せたいものがあるんだ。論理とふーちゃん、四限目空いてるだろ、部室来てくれ』と、弾んだ絵文字付きではーちゃんからラインが入ったのを受け、二人で部室の扉を開けた。
「お。二人とも来てくれたか」
「ロジックう、ふーちゃんー、待ったよお」
中でははーちゃんが待ちかねた様子。恵美ちゃんもいる。はーちゃん、手に何か書類を持っている。
「これ見てくれよ!」
「うん?何かなぁ」
はーちゃんの見せる書類を見る。それは、はたして──二次選考合格を通知する書類だった。
「はーちゃん!受かったか」
「やったじゃん!」
俺と文香、二人してはーちゃんの肩をたたいたり撫でたりする。
「はーちゃんさんすごいですう。香歌の最終選考お、出れるのたった八人なんですってえー。マグロ頼んだらあ、間違って大トロでてくるよりい、すばらしいですよお」
恵美ちゃんも興奮している。
「みんな応援してくれてありがとうよ。最終選考、出せる力全部出してくるぜっ」
俺たちは、四人で喜びを分かちあった。はーちゃん!今最高潮に輝いてるぞ。ほんとに…、ほんとにアイドル声優になれるかもしれない。はーちゃん、もっと光り輝いてくれ!…だけど、そう思ったとき、部室の扉がガタリと開いた。
「やあやあやあ」
くそ。喜びに浸っているときに、いちばん見たくない顔が現れた。坂口が、ずかっと俺たちに近づいてくる。相変わらずニヤニヤと気味悪く笑っている。
「おう、はーにふーに論理に、部外者までいるのか。揃いも揃っているな。それで、はー、俺に急用とは何だ。授業抜け出してきてやったぞ」
はーちゃん、坂口も呼んだのか。
「はい…。これを、見ていただけますか」
はーちゃんが、二次選考合格の書類を坂口に見せる。
「うむ、何だ…」
坂口が書類に目を通す。するとその顔から、笑いが消えた。
「はー、このオーディション、二次まで通ったのか」
「はい」
「最終選考、香歌まで受けに行くつもりか。この俺のもとを離れて」
坂口の声音が、見る間にあの冷徹なものになっていく。この男、はーちゃんを、はーちゃんの夢を、どうする気だ。
「お願いいたします秀馬さん。選考、わたくしに受けさせてくださいませんか」
はーちゃんは席を立ち、坂口の前に土下座しかけた。
「土下座する必要はない。そこに座れ」
「はい」
「はー、もうこのあたりで、はっきりさせようじゃないか」
傲然とはーちゃんを見下ろしながら、坂口が言う。
「何をで…しょうか…」
「はー、俺はお前の声優ごっこに、これまでよく付き合ってきたと思う。この前の二次選考でもお前、一日中いなかったな。俺がどんな思いをしてお前を待っていたか、わかっていたか」
「はい。秀馬さんには、理解をいただいていると感謝しております」
「俺に感謝しているのだったら」
坂口は冷たい表情のまま、はーちゃんの頬を右手で撫で回す。
「これ以上くだらん声優ごっこで俺に迷惑をかけるのも、控えるべきじゃないのか」
坂口!やっぱりはーちゃんの夢、潰すつもりだったんだな!
「あ、秀馬さん!それだけは…」
たまらず席を立ち、坂口の前に土下座するはーちゃん。
「お願いいたします秀馬さま。ご満足いただけるまで、どれだけでもわたくしをいたぶって下さって構いません。どうか…どうかわたくしの夢を、ご理解くださいませんか」
「遥」
坂口が、俺たちの前ではーちゃんを「遥」と呼んだ。そして、重々しい口調でこう言う。
「お前に選ばせてやる。俺を取るか、夢を取るか。どちらか一方を選べ」
「夢…、と言ったら、どうなりますか」
「俺と遥の関係は今日までだ。それ以降、俺と遥は、見知らぬ者になる。俺と遥の一切の営みはなくなる」
いいじゃないかはーちゃん。痛めつけられることがもうなくなるんだから。こんな男と別れられるチャンスだぞ。そして夢も追えるんだぞ。でも…、はーちゃんの顔が悲しげに歪む。
「そんな…。そんな、秀馬さま、お願いいたします、わたくしをおそばに置いてください…」
なんで!なんでそんなこと言うんだはーちゃん!
「わたくし、秀馬さまが好きでたまらないんです。秀馬さまの温もりとときめきをいただきたいんです。お願いいたします。わたくしを、どうか、おそばに…」
「なら、この選考も、養成所そのものもやめろ」
「坂口っ、いい加減にしろっ!」
俺は思わず怒鳴った。憎い…。この男が心底憎い。こんなやつ…、こんなやつ…。
「黙れ雑魚。これは俺と遥の話だ。お前にもふーにも、ましてや部外者に発言権はない」
「くっ…」
黙らされる俺たち。何も…何もできないのか。
「どうだ遥。もう一度聞く。俺を取るか、夢を取るか」
「秀馬…さまっ…」
床にひれ伏したはーちゃんの脇腹が、小刻みに震える。
「うっ…うう…ぐずっ…」
はーちゃんは、泣いていた。傲然とそれを見下ろしたまま、黙ってはーちゃんの答えを待つ坂口。かなり、長い時が過ぎた。でも…、はーちゃんがついにこう言ってしまう。
「秀馬さま…。おそばに、おります…」
「はーちゃん!」
「はーちゃん、なんでだよぉ!」
「はーちゃんさんー!」
叫ぶ俺たち。そんな俺たちの前で、坂口が魔性の笑みをこぼす。その顔は、恵美ちゃんの言う通り、悪魔そのものだった。
「ふふふ…。いい決断だ遥。ならこれは破り捨てるぞ」
坂口の手が無情に動く。ビリッ…、バリッ…。これ見よがしに何度も何度も書類を破る坂口。そして、書類の紙吹雪を、はーちゃんの震える身体に、あまりにも軽やかに振りかける。この野郎…っ!憎い。坂口が憎い!これまでここまで人を憎いと感じたことなんてないっ。
「よしよしよし。これで用件は済んだな。俺は授業に戻る」
「坂口悪魔あっっ!」
悔しさに喉を引き潰されながら、恵美ちゃんが叫ぶ。
「お前え!よくもお…よくもお、はーちゃんさんの夢をお…っ!」
「ふん」
坂口が目を細める。
「奴隷が見る夢だと?冗談にもならん。馬鹿馬鹿しい」
そう吐き捨てて、坂口は部室を出ていった。後に残されるはーちゃん。悲しい紙吹雪に包まれて。
「はーちゃんっ!」
「はーちゃんんっ!」
「はーちゃんさんーっ!」
まだ床に伏したままのはーちゃんに、三人ですがり付く。
「なんで……」
うずくまったはーちゃんの背中が、声を絞り出す。身体の、心の、奥底の、奥底から。
「なんで…なんだよ…。秀馬さん…、なんでなんだよっ‼︎あたし…声優、やりてぇよう…っ‼︎うう…ああ…あ…、はあああああああっ‼︎」
はーちゃんが身体の限りに息を吸い込む。俺の手の下ではーちゃんの背中が、裂けるばかりにふくらむ。
「あああああああ…あああああっ‼︎…あ…あああ…ああ…っ、はあっ、はああっ、はあああああああっ‼︎ああああああああああああっ‼︎」
はーちゃんは泣いた。悲しさも、つらさも、怒りも、悔しさも、全部、全部込めて。涙も、声も、枯れて、それでも泣いた。いつまでも。いつまでも──。はーちゃん…。俺の、愛しいはーちゃん。なんで…なんでこんな目にあうんだよっ。

それからはーちゃんは、西澤さんに電話をかけ、オーディションも養成所もやめると申し出た。そのあまりの急な言葉に驚愕し、西澤さんは声を失ったけれど、やがて必死に(なんて手垢のついた言葉じゃ到底表せないくらいに)なってはーちゃんを説得した。でもはーちゃんは、魂の消え果てた声で「大切な人の理解が得られないので…」と、涙を落としながら繰り返すのみ。そうして一時間。西澤さんの説得も虚しく、はーちゃんは電話を切った。ここにはーちゃんの声優の夢は、完全に坂口に潰された──。
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