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六十六、狂宴の果てに

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それから数日。カレンダーに十一月のページが現れた。木枯らしも吹き始め、学内の木々も色づいていく。文芸部は、村上と博美が抜け、はーちゃんは相変わらず落ちこんでいるまま、日が経っていった。そんなある土曜の夜、冷えを感じながら俺は、下宿でストーブに当たっていた。
「ライン!」
スマホがライン着信を通知する。見てみるとはーちゃんからだ。たった一行、こんな言葉が画面に浮かんでいる。
『港 今北 倉庫 来て』
え?はーちゃん?どうしたのこれ?思わずリプを打とうとする。でもその手を止めた。はーちゃんのラインは、坂口が全部検閲しているはずだった。きっとはーちゃん、この言葉、坂口に隠れて打ってる。
「どうしたんだはーちゃん…」
坂口の悪魔の顔が思い浮かぶ。あの野郎…、何かとてつもないことをはーちゃんにするつもりなんじゃないのか。言い知れぬ強い不安が押し寄せてくる。
「港?今北?倉庫?」
これだけじゃ何もわからない。どうしよう…。そうだ、検索!スマホをバッと手に取る。
「今北…、今北…」
画面を上に繰る。「今北」はネットスラングにもなっている言葉なので、それ関係のページばかりヒットしてくる。焦る気持ちを落ち着かせ、辛抱強く検索を続ける。かなり長い時間が経ってしまう。でもそのうち、玉都市内の「今北産業株式会社」のページが見つかる。急いで飛んでみる。
「はーちゃん…」
はーちゃんの悲しげな顔が頭をよぎる。早く、早く行かないと…!脂汗をかきながら俺は、今北産業のページを読んでいく。
「あっ、これだ!」
下宿で叫ぶ俺。今北産業の所在地が書いてある行。その一行下に、倉庫の住所がある。それは確かに、玉都港にある住所だった。
「よし!行くぞっ」
駆け出しかける俺。でもそこでハッと体を止める。はーちゃんの急場…。恵美ちゃんも居合わせるべきじゃないのか。ここは電話してみよう。恵美ちゃんのライン画面を開け、通話をつなぐ。恵美ちゃん、コール二度もないうちに出てくれた。
『もしもしロジックう?』
「あ。恵美ちゃん。はーちゃんが…、はーちゃんが大変そうなんだ!」
『えっ⁉︎はーちゃんさんがどうしたのお!』
俺は恵美ちゃんに経緯を話した。
『大変んーっ、坂口絶対い、はーちゃんさんになんかしたあっ。あのリョナ凶悪犯めえっ』
恵美ちゃんの声も上ずる。
「そう思うだろ!早く助けに行かなきゃ!」
『うんーっ、ボクも行くうっ』
そして俺は通話を終えると、車に飛び乗った。アクセルを踏み込み、闇の中を玉都港に急いだ。

港の工業地帯は、夜になると人っ子ひとりいなくなる。明かりすらろくにない。ほとんど真っ暗闇の中を、今北産業の倉庫に突っ込む。パジェロミニを乗り捨て、倉庫に駆け込んだ。
「はーちゃんっ!はーちゃああんっ!」
はーちゃんを呼びながら奥へ走る。そのうち、行く手に灯し火と人影が見えた。何人かの男の声と、女の…喘ぎ声。いったい何を…まさか⁉︎嫌な予感がして、俺はとっさに、近くの置き荷の陰に身を隠した。
人影は五人いた。見知らぬ男が三人。そしてそいつらは、無惨に全裸にされた髪の長い女を、犯していた。目を凝らしてよく見てみる。あれは…、あれは…はーちゃんだ!男たちはなんと、自分たちの男根を次々とはーちゃんにねじ込んでいる!なにを…、こいつら…、こいつらなにやってんだっ。そしてその奥には、薄明かりの下で椅子に座り、ゆるやかに足を組んでいる男。手には赤葡萄酒を満たしたグラス。…坂口だ。魔物の笑みで、はーちゃんが犯されているのを見ていた。
「よしよしよし」
坂口の声。心底ぞっとする。
「いい宴になった。やがみ、キッコーマン、バカ太郎(たろう)、俺の奴隷は楽しめるだろう」
「ふふふ、すまねぇな秀馬」
三人の男のうち、やがみと呼ばれた猫背の男が、そう言って気持ち悪く笑う。はーちゃんの下で腰を振りながら、顔を快楽に赤く上気させているのが、たまらなく醜い。くそっ!こいつ!
「秀馬よう、てめえ、いつもいつもよくもまあ、次から次へと奴隷を見つけてくんなあ。まあ、俺たちはこうやって毎度そのおこぼれにあずかれるんだから、嬉しいことだけどよ」
と、やがみの脇でキッコーマン。「おらっ!」とはーちゃんの口を無理やり開けさせ、そこに自分の男根を無理やりに入れ込む。こいつっ、はーちゃんに何を!
「ううう…、うう…」
キッコーマンの男根を押し込まれたまま、はーちゃんが呻く。
「おらおらっ、もっと舌を使わんか。秀馬の奴隷だろうがっ」
キッコーマンはそう怒鳴ると、はーちゃんの後ろ頭を押さえつけ、強引にその首を振らせた。汚い男根が、はーちゃんの喉を突く。
「うぐっ、ぐえっ、ぐ…えっ…」
はーちゃんの口から吐瀉物。はー…ちゃん…っ。
「ほれっ、奴隷、こっちの穴がヒマになってるぞ」
バカ太郎が声を出し、はーちゃんの背中をむんずとつかみ、その股間の後ろに覆いかぶさる。そして、穢れたそれをはーちゃんのお尻の穴にねじ込んだ。
「んーっ!んっ、んっ!んんーっ!」
お尻を無理やりこじ開けられる苦痛に、顔を歪めてはーちゃんがうめく。下にやがみ、後ろにバカ太郎、口にキッコーマン。責め尽くされるはーちゃん。
「うううううっ‼︎ううっ…ううううっ‼︎」
はーちゃんがうめき続ける。三人の男にがっちりと食いつかれ、身を捩らすこともできない。
「はーっはっはっはっはっ!」
おぞましい魔瘴気を吐き出しながら、椅子の上で坂口が高らかに笑う。
「いいぞいいぞ遥。一度に三人相手にする気分はどうだ。その淫らさが奴隷たる所以だぞ。おいやがみ、第一弾だ。存分に出せ」
「あいよー。おぅおぅ、こいつは上玉だ。食いがいがあるぜ。ありがとよ秀馬」
はーちゃんの下で、一層腰の振りを強めるやがみ。
「あうっ、あうっ、ああう…。イクぞ、イクぞ…、いっただっき…まーっす!」
その声とともに、腰をのけぞらせるやがみ。こいつ…、こいつ、はーちゃんの中に…っ!
「待てえーっ‼︎」
思わず置き荷から飛び出す俺。怒りで息を弾ませながら、坂口たちを睨みつける。
「お前ら…、お前ら…っ、はーちゃんに…、何をしているっ‼︎」
「ほう。誰かと思えば」
坂口が、薄笑いを浮かべながら、葡萄酒に口をつける。
「雑魚。よくここがわかったな。遥、お前が知らせたか」
「うう…ううう…」
でもはーちゃんはキッコーマンに口を満たされたまま、何も言えない。
「ふん、まあいい。雑魚、せっかく来たんだ。お前も奴隷で楽しんでいくといい」
「何だとっ!」
「どうした。宴は最高潮だぞ。お前も早く服を脱げ。遥は締まりがいいぞ。後ろも前も口もな。はっはっは」
「ふざけるなっ‼︎」
進み出る俺。この顔が…、この顔が、たまらなく憎い。
「坂口…っ、はーちゃんをいたぶって、夢を潰して、その挙句に、ここまでするのかっ‼︎」
「無論だ」
グラスを手の平で転がす坂口。不敵な笑みが浮かんでいる。
「俺の奴隷を俺がどうしようが自由だ。気のすむまでこいつを使い倒す。それがこいつの願いでもある」
「嘘だっ‼︎」
俺の叫び声が、倉庫の空気を軋ませた。
「はーちゃんの想いを…、踏みにじるだけ踏みにじって…。もう絶対許さないっ。今すぐはーちゃんから離れろ‼︎さもなくば俺が相手だっ」
「ほう…。聞いたかお前ら。雑魚が俺たちの相手をしてくれるらしいぞ」
「ふふふ、面白いこと言うじゃねえかこのガキ。女みたいな髪型しやがって」
そう言ってバカ太郎がはーちゃんから離れる。次いで、あとの二人も立ち上がった。六つの目に闘気がみなぎっている。ごくり、と俺は唾を飲みこんだ。ケンカだ。しかも四対一の。自信ない。でもやるっきゃない。
「論理…、論理ぃ…」
キッコーマンを抜かれて口がきけるようになったはーちゃんが、悲しそうに俺を呼ぶ。はーちゃん!俺が、この手で、助けてやる!
「行くぞっ、やああああああっ‼︎」
力の限り拳を握り、俺はまず、いちばん身体が小さいやがみに突進した。右の拳を繰り出す。やがみはそれを避けもしない。構わず俺は、拳をやがみの顔に炸裂させる。でも…、殴られてもやがみは、びくともしなかった。
「俺は今、殴られたのか。それとも蚊でもとまったのか」
やがみの声。え…、確かに殴ったはずなのに。
「わああっはっはっはっは‼︎」
爆笑する四人。
「てめえ、勢いばっかで、ケンカの一つも知らねえな。教えてやる、拳はこうして使うもんだっ」
やがみの声。その瞬間、俺の視界の中を何かがよぎった。
「ぐはあっ…」
顔に信じられない衝撃。吹き飛ばされる俺。激痛が後から来た。
「くっ…くうっ…ちく、しょう…」
よろめきながら、何とか立ち上がる。口の中に血の味がした。
「ほれ、来やがれ雑魚野郎」
今度はバカ太郎が俺の前に立つ。
「くそっ、食らえーっ」
バカ太郎に飛びかかる俺。力の限りパンチを繰り出す。でも、バカ太郎はそれを何なく避けてしまう。
「ほれほれ、たるいパンチだな。蝿がとまるぜ」
「畜生っ、畜生ーっ」
盲滅法に腕を振り回す俺。しかしかすりもしない。
「ケッ、馬鹿ったるいやつめ」
と、キッコーマンがペッと唾を吐き捨てた。そして恐ろしい声を上げる。
「面倒だ。片付けちまおうぜ!」
「おうよ!」
掛け声とともに、一斉に襲ってくる三人!俺の顔、胸、腹、腰、足…、身体すべてに浴びせられる拳、蹴り、膝、肘。痛みとか、衝撃とか、そんな言葉じゃ表せない激烈さが、津波のように俺を包んだ。
「はーっはっはっはっは‼︎馬鹿が。身の程をわきまえない雑魚め。死ぬがいい」
坂口の憎い声。くそっ…、何もできないのか俺。
「論理っ、論理いーっ‼︎頼むっ、やめろーっ」
泣きながら絶叫するはーちゃん。俺が…俺が助けてやりたいのに…。なおも押し寄せる攻撃。だめだ…、身体の感覚がなくなっていく。意識が霞む。はーちゃん!俺、ここで死ぬのか──。
「待ちな!クズ野郎ども」
遠くで声がした。誰だ…?
「ん?」
攻撃がやむ。三人が、声のしたほうを向く。
「……………」
腫れ上がった目をやっと開ける。ぼんやりとした視界。そこに男が一人、仁王立ちに立っていた。その脇に若い女が二人。誰だ…。霞んで顔がよく見えない。
「あ…、あ…、て、てめえは…。なんで、ここに…」
キッコーマンの震える声が聞こえた。
「てめえ…、タイマンの秀!間違いねえ、タイマンの秀だ!」
バカ太郎が叫ぶ。声が怯えている。タイマンの秀?どこかで聞いたぞ。
「ダメだ、ヤベえやつが来た!ずらかるぞ」
やがみの声を合図に、三人は脱兎のようにその場から散り散りに逃げていった。何が起こったんだ…。そう思う俺の真上に、その男が立つ。
「ざまあねえな太田。相変わらずの力弱さだ。クソにもならんやつが」
この声…。開かない目を何とか開ける。そこに映ったのは、果たして村上だった。その脇にいた女の一人が、俺に駆け寄ってくる。
「ロジックうっ!しっかりしてえーっ」
間延びしながら、キンと響くあの声。恵美ちゃんだ。俺を抱きかかえてくれる。
「論理いっ」
続いてはーちゃんの声。でもそれに重なって、憎らしい坂口。
「動くな遥。奴隷に自由はない」
「ケッ、奴隷ごっこか。おめでてえな」
蔑意を満たしながら、村上がそう吐き捨てる。
「佐伯や太田などどうなってもいいが、博美の頼みとあれば捨ておけねえ。坂口、おとなしくこの場から消えな。そうすれば殴りはしねえ」
「殴りはしない、だと?」
冷徹な声を出した坂口が、ゆっくりと立ち上がる。
「やがみどもが逃げるのだから、お前もそれなりにできそうだな。だが、俺に触ることができるかな」
「大した自信じゃねえか」
睨み合う村上と坂口。
「村…上…、どう、して…ここに…」
苦しい息をようやくついて、俺は声を絞り出す。
「うるせえ。お前はそこで寝ていろ」
村上がそう言うと、もう一人の女が俺の顔を見下ろす。博美だった。
「メグが泣いて頼むから助けに来てみれば…。コテンパンじゃない。ダッサぁ」
「ダサいだなんて言うな!」
はーちゃんが博美に食いつく。
「論理、必死になってくれたんじゃねぇか!あたしなんかのために、論理、身体を張って──」
「遥。お前に発言権はない」
冷たさを極めた声で、坂口がはーちゃんを遮る。
「村上。俺の宴を妨げたお前の罪は重い。タイマンの秀だか何か知らんが、俺に殴られたら、尻尾を巻いて逃げるがいい」
「嫌だと言ったら?」
「命の保証はない」
「ケッ、大きく出るじゃねえか」
間合いを詰める両者。
「坂口。そこまで言うなら、俺を一発殴ってみろ。お手並みを拝見してやる」
「ほう」
低い声とともに、坂口が拳を握りしめる気配がした。
「ならお言葉に甘えようか。行くぞっ!」
ビチっと、肉のぶつかる音。確かに、坂口の拳が村上をとらえていた。だけど、村上はびくともしない。
「ケッ…」
村上が頬をさすり、ペッと唾を吐く。
「この程度か坂口。『命の保証はない』だと?笑わせるんじゃねえ」
そして今度は、村上が拳を握る。
「坂口、もう一度確かめさせてやる。この場から逃げるつもりはねえか」
「ない、と言ったらどうする」
「こうしようってんだっ!」
シュッと、何かが空を切る音。村上の拳が、坂口の肉を引き裂く。
「ぐああっ‼︎ぐううっ…!ううっ…」
坂口が前につんのめり、身体を二つ折りにしている。その右手が腹を押さえていた。
「き、貴様あっ‼︎」
坂口の全身から、怒りと憎悪がほとばしる。
「ケッ、お前も太田に負けねえ雑魚だな。どこからでも来やがれ」
「うるせえっ‼︎」
坂口が村上に飛びかかる。乱闘が始まった。両者の拳と蹴りが飛び交う。でも、村上の攻撃は坂口を確実にとらえ、これをぐらつかせるのに、坂口がどれだけ殴りと蹴りを入れても、村上は余裕をもってこれらを見切る。実力差が歴然としてきた。
「こしゃくなっ、食らえっ‼︎うおおおおおおおっ‼︎」
業を煮やした坂口が、凄まじい咆哮とともに、拳を振り上げて村上に突進する。渾身のパンチ。そしてそれを敢えて受ける村上。やはりよろめきもしない。
「ケッ、坂口、それがお前の全力か。本当の全力ってのはな、こういうものを言うんだっ‼︎」
村上がそう言い放った瞬間、その膝が神速の速さで坂口のみぞおちに決まる。
「ぐわあーっ…」
そして前にのめった坂口の顔に、村上の右の拳。それがとどめになった。
「うぐっ…ぐっ…ぐう…」
ぶざまな仰向けで、地べたに転がる坂口。失神して、文字通り、ぐうの音もない。静寂が、一帯を支配した。聞こえるのはただ、坂口の身体が痙攣する、ビクビクという微かな音だけ。
「馬鹿馬鹿しい。行こ、秀哉」
博美が村上の腕を取る。
「ああ」
二人は踵を返し、闇の中に去っていった。
「ろっ、論理いっ‼︎」
はーちゃんが駆け寄ってくる。恵美ちゃんに代わって、俺を膝に抱きかかえた。
「論理っ、論理いっ、こんなに…なって…。ぐずっ…あたしが…呼んだから、ううう…こんな…ことにっ!無茶しやがって…ぐずっ、死んだら…死んだらどうすんだっ!」
「は…はーちゃん…」
俺の顔に、熱い滴がぽたぽたと落ちてくる。
「はーちゃん…、ごめん…、俺、力弱くて」
「いいんだっ!」
はーちゃんが激しく首を横に振る。涙が飛び散った。
「いいんだ、論理…。あたし、論理は…来てくれるって…ぐずっ、信じてた…から」
「はーちゃん…」
俺は、激痛に耐えながら、震える腕をはーちゃんに伸ばした。その手の平をぎゅっと握ってくれるはーちゃん。
「坂口なんか…もう、やめろ。やめて…俺と…。俺、はーちゃんのこと…好き…なんだ」
「論理っ!論理ぃ…」
はーちゃんが一層力を込めて、俺を抱く。俺の頬には、相変わらずの熱い滴。そしてはーちゃんは、泣きながらいきなり俺に…キスした。はーちゃんと俺の、初めてのキス。涙と同じはーちゃんの熱さが、唇から俺の全身に広がってゆく。
「論理…、あたしを…守ってくれて…、ぐずっ、ううう…あり…がとう。目が…覚めた。あたしも…論理のこと、ううっ…好きだ!大好きだっ!」
「はーちゃんっ‼︎」
身体中が痛む。だけど、その痛みの中で、ついに勝ち取った、限りなく大きなものがあった。「大好きだ」と言ってくれたはーちゃん。俺の想いは、通じた。俺の瞳からも、涙が溢れる。二人して泣き濡れながら、俺たちはずっと手を握りあっていた。

痛む身体に無理を言わせ、パジェロミニを駆る帰路。助手席にははーちゃん、後部座席に恵美ちゃん。三人とも言葉もなく車に揺られた。でも、はーちゃんの右手が、俺の左腕を、ずっとさすってくれていた。二十分くらい走って、はーちゃんの下宿に着く。
「論理…。ほんとに、ありがとう。身体、痛むよね。骨とか折れてない?」
あれ?はーちゃんそんな言葉使いだったか?
「ああ。痛いことは痛いけど、まあ大丈夫だと思う」
「ロジックう…、やられるだけえ、やられちゃったよねえ。魚屋のゴミ箱のお、魚のアラだってえ、そこまでボロボロじゃないい」
毒舌はそのままながら、恵美ちゃんも心配そうにしてくれる。
「ほんとだ…。村上にも言われたけど、ざまあない」
はーちゃんが、俺の腕をそっと取る。
「明日日曜だから、病院やってないよね。月曜になってもひどく痛んだら、大学休んで診てもらいなよね」
え…。やっぱはーちゃん、言葉使い変わってる。なんか、かわいくなった。前の荒っぽい言葉使いより、そのロリボイスにずっと似つかわしくなったように思う。どうしたんだろう。
「わかった。はーちゃん、今夜は眠れそうか」
俺にそう聞かれると、はーちゃんは微かに笑った。そして口を開くと「はあああっ」と腹式呼吸。そこは変わってない。
「いろいろされたけど…。論理に来てもらえたから、大丈夫だよ」
「そか。ならよかった。ゆっくり休んでくれ」
「うん。バイバイ」
はーちゃんと手を振りあい、俺は車を出した。恵美ちゃんと二人になる。車は西に進路を取って、博美と恵美ちゃんの下宿へと向かう。
「あーああ」
後部座席から恵美ちゃんの、響きのあるアルト。
「ボク見事に失恋だよおー。はーちゃんさんも見る目ないー。こんなにかあいい恵美さまがあ、一途に好きでいるってのにい。ああもー!どいつもお、こいつもお、タマキン小さいいー」
「恵美ちゃん…」
そうだ、俺とはーちゃんが想いを通じ合わせたと言うことは、恵美ちゃんが失恋するということだ。
「ごめんよ…」
「謝るくらいならあ、はーちゃんさんをよこせえ」
そ、そんなこと言われても困る。いくら恵美ちゃんの言うことでも、はーちゃんを渡すのはできない。
「ロジックう…。ううう…」
ルームミラー越しに恵美ちゃんと目が合う。口を引き結んでうなっている恵美ちゃん。でも、やがてそのふわりとした顔に、微かな笑みが宿った。
「はーちゃんさんー、最後はあ、幸せそうだったねえ」
「いっぱいひどいことされたけど、別れ際には笑っていてくれた」
「踏み潰されたあ、ハンバーガーみたいな顔したあ、ロジック認めるのお、悔しいけどお」
今俺そんな顔してるのか。面憎いことを言う恵美ちゃんが、一瞬俺を睨み、また笑顔に戻る。
「ロジックのお、おかげだよお。命懸けでえ、はーちゃんさんー、守ったんだもんねえ。ボクにはあ、そこまでできないい」
ルームミラーに映る恵美ちゃん。左右の赤い大リボン、愛らしい輪っか三つ編み。目元まで長く垂れた前髪。餅菓子のような白い頬と二重顎。つぶらな垂れ目の瞳──。かわいい子だ。こんなかわいい子を踏み台にして、今、俺の恋がある。
「恵美ちゃん、俺、恵美ちゃんの分まで、身体全部ではーちゃんを愛するよ!」
「うんー」
こっくりとうなずく恵美ちゃん。輪っか三つ編みが揺れる。
「ロジックにならあ、はーちゃんさんあげるよお。はーちゃんさんー、大事にするんだぞお。泣かしたりしたらあ、タマキン食ってやるからあ」
「握りつぶす」が「食う」になったよ。内心、苦笑い。うん…、もちろんだよ恵美ちゃん。俺の、生まれて初めての彼女・はーちゃん。絶対大事にする。その、ちょっと骨っぽい手を、決して離さない。
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