管理官と問題児

二ノ宮明季

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2章

2-17 きっと酷く傷つけてしまった

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 ネモフィラの身体は、風を切ってぐんぐん進む。
 幼い頃から身体を動かすのは苦手ではなかった。比較的足も速い方で、勉強の面では姉と比較される事は多かったが、かけっこだけは、程ほどの年齢の頃に姉を追い抜いた。
 生ぬるい風を受けて走っている間、頭の中ではぐるぐると不安や不満が渦巻く。
 何故かクレマチスにも否定された。今日のジギタリスは怖かった。これは不満だ。納得がいかない。叱られる度に、己を否定されているようで怖い。

 その一方で、今日の原因になってしまったミリオンベルの顔を思い出すと、ギュッと胸が苦しくなった。
 冷たい、感心の無い視線の向こう側には、どこか諦めにも似た感情が見えた気がしたのだ。
 もしも信じていた物が全て間違っていて、ネモフィラを否定するジギタリスやクレマチスが正しいのだとすれば、きっと酷く傷つけてしまった。
 それも、彼を傷つけたのは、己だけではない。
 ネモフィラが振りかざした「当たり前」で、何人も、何十人も、もしかすれば何百人もの人に、ずっと心を傷つけられてきた事になる。

 認められなかった。
 これを認めてしまえば、今までの自分が全て否定されるようで、たまらないのだ。
 はぁはぁと息が乱れる。
 胸が苦しいのは、きっと走っているせいだ。全てを何かのせいにして、ネモフィラは公園に飛び込んだ。
 そして、出来るだけジギタリスに気付かれないようにと、木の陰に隠れるように佇む。
 きっとあの先輩は探しに来る。けれども、話したい事は無かった。
 悪くない、悪くない、と、呪文のように心の中で唱えても、ちっとも胸の痛みは引かない。

「……クレス、助けて下さいまし」

 知らず知らずのうちに、クレマチスの名前が零れる。
 ネモフィラを悪くない、とは口にしなかったが、それでも辛い時に思い浮かぶのは、大好きな彼の名だった。

   ***

「探しましたよ」

 ようやっと発見したネモフィラさんがいたのは、公園の木の影だった。
 まさか完全に見失ったところから、匂いを頼りに探す事になるとは思わなかった。
 元々人よりも少々性能の高い嗅覚をもっていたおかげで、どうにか問題が起こる前に発見出来て、胸を撫で下ろす。
 ネモフィラさんからは、いつも薔薇と石鹸が混ざったような香りがする為、嗅ぎ分ける事は容易だ。ついでに言えば、フルゲンスさんからは少し香りの強いシャンプーの匂いが、ナチからは間食しているお菓子の香りがする事が多い。
 いいや、そんな人の匂い事情よりも、先にネモフィラさんだ。
 俺は彼女に近づくと、腕を取った。

「離して下さいまし」

 ネモフィラさんは俺を睨み付けたが、その瞳には涙が浮かんでいる。一瞬たじろいだが、必死にそれを気取らせぬ様に、相手を真っ直ぐに見た。
「しかし、離せば逃げるでしょう」
「……放っておいて、下さいまし」

 睨み付けたその瞳は、俺から逸らされる。ぽたりと涙がこぼれ、どうしたらいい物かと考える。
 こんな状態ではあるが……いや、こんな状況だからこそ、相手を泣かせてしまった事に罪悪感が生まれる。
 どうしたらいい、どう慰めたらいい。
 頭の中に、一気にいくつもの行動の選択肢が現れたが、俺は頭を振って「放っては置けません」と口にする。
 とにかく、話をしなくては。
 押さえつけてはいけない。何故俺が怒ったのか、あの場が険悪になってしまったのかを伝え、相手の考えもじっくり聞く必要がある。
 何かアクションを起こすには、相手の事を知らな過ぎたのかもしれない。

「私は――」
「聞きたくありませんわ!」
「でも――」
「もう沢山ですの!」

 けれども、取り付く島も無い。彼女は大きな声で、俺の言葉を遮った。

「わたくしが何をしましたの? どうしてわたくしだけがこんな風に叱られなくてはなりませんの?」
「聞いて下さい、ネモフィラさん」
「嫌ですわ! 聞きたくありませんわ! もう、今まで正しいと思って来た事を否定されたくはありませんの!」

 困ったな。意固地になって聞く耳を持たない。これは意識を一回リセットする必要があるだろうか。
 俺は小さく息を吐きだし、「逃げないで下さいね」と言ってから手を離した。
 手早く手品のタネを仕込んでから、俺はネモフィラさんの視線の方へと回り込み、視線を合わせる為に屈む。
 手品の小さな道具は、仕事中に子供を泣かせてしまった時の為に少しだけ持ち歩いている。俺はどうも怖がられる事が多いのでその対策だったのだが、まさかこんなに大きな子供に使う事になるとは思わなかった。

「な、なんですの……」

 ネモフィラさんはしっかりと待っていてくれたので「よく見て下さい」と、何もない両掌をひらひらと見せる。
 この前手品を理解していなかったので、もしかしたら食いつくのではないかと思ったのだが……俺の予想は的中した。
 涙にぬれていた瞳をハンカチで拭ってから、こちらの手元に注目している。
 俺はぎゅと握り拳を作ると、充分に間を開けてから開いた。
 俺の掌からは、色取り取りの花が溢れ出る。花、とはいっても、全てチマチマ作った偽物なのだが。

「まぁ! なんですの? 凄いですわ!」

 ネモフィラさんは子供の様にはしゃいでいる。作戦は成功だ。

「手品です。少しは落ち着きましたか?」
「……ええ」

 彼女は俺の一言で、これが落ち着かせる為の行動だった事を察したのだろう。小さく頷いた。

「聞いて下さい」

 俺は今しがた出した花を、ネモフィラさんの掌に置いていく。

「ベルさんにとって、枚数の事を言われるのは嫌な事なんです」
「……ええ」

 今までのような、真正面からの否定や拒絶は無く、彼女は頷いた。

「枚数で人を見ず、その人をその人として見るよう、努力して下さい」
「……はい」

 少しずつ乗せた花は、ついに全て彼女の掌の上に収まった。

「相手に嫌な思いをさせたら、どうするのが正しいと思いますか?」

 そのまま目をじっと見て尋ねれば、「……謝りますわ」と答えが返ってきた。

「いつ?」
「今からでも、謝ります」

 少し頬を膨らませてはいるが、それでも進歩だろう。

「……こんな風にするのは、どうして貴方なんですの?」
「どういう意味でしょうか?」

 俺は意図が分からずに首を傾げた。

「……クレス……」

 ここでクレマチス様の名前が出る、という事は……。本当に慰めて欲しいのは、婚約者であるクレマチス様だった、といったところか。
 だが、それは俺には叶えてやる事は出来ない。

「……謝りに、行けそうですか?」
「……ええ」

 話題を変える、というか、元に戻す為に尋ねれば、肯定が返って来た。

「では、行きましょうか」
「……ええ」

 俺は背筋を伸ばすと、ネモフィラさんは花をポケットにしまってから姿勢を正した。
 まだ少し拗ねている様子は見られるが、とりあえずはいい。相手にとって言われたくない事がある、という事さえ、理解してくれたのなら。
 俺は彼女と共に、再び何でも屋へと向かった。

   ***
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