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試練の時 8

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 床に崩れていたダニルは、暫く微動だにしなかった。

 ……届かなかったか…………。

 今まで苦しんできたことが、たったこれだけの言葉で覆せるなんて、思ってない。だけど……。

「ダニル……カーリンはさ、来世生まれ変わったら、もうカーリンじゃないんだよ……。
 どれだけ彼女を大切に思って、お前がこの道を選んだか、俺は分かってるつもりだ。だけど……カーリンは、今しか、お前にしか、幸せにできないんだよ」

 何を言ったって、綺麗事だということは、分かっていた。
 結局のところ、罪を重ねたことが来世にどう影響するのか、本当に来世があるのかさえ、誰にも分からない。
 大丈夫だなんて、誰も保証してやれない。
 だけど……愛する人を大切にしたいと思って、そのためによくあろうとすることが、間違っていることであってはならないと思うのだ。
 今までの行いを悔いて、正しくあろうとすることを許さないなんて、そんな救いのないものが、俺たちの生きるこの世界の根幹であってはならない。
 よりよく生きるために来世を与えられるなら、前世を悔い改めるために今世があるなら、どこからが出発地点だったって、良いはずだ。
 だからダニル、お前には、恐れてうずくまるよりも、幸せになろうと足掻く方を、選んでほしい。

「……行こう」

 ダニルを立たせて、寝具を持たせた。

「お待たせ。どこら辺なら邪魔にならない?」
「そうですね。一応部屋の隅にしておきましょうか。あ、衝立とかあれば……」

 寝具を部屋の隅に下ろして、小机や、出産した際の産湯を使うための机など、他にも必要そうなものを話し合い、他の部屋からそれを持ち込んでいたら、シザーが汁物と麵麭を持ってきてくれた。
 食欲が無くても、極力お腹に入れて、陣痛に備えましょうねと言うサヤに、頷くカーリン。
 食事を取るために、寝台の上に身を起こそうとした時だった。

 カーリンの背に腕を回し、抱き起こしたのはダニルで、その背に枕を挟み、角度を整えてやり、そっと横たわらせて……。
 驚いた表情のカーリンの、額に張り付いていた髪を、指で撫でるようにして、整えて……。

「……角度、辛くないか」
「う、うん……大丈夫……」

 交わされた言葉は、短かったけれど。

 それでもカーリンが、驚いた反応をしているということは、ダニルは今のカーリンにとって、それだけ遠い存在になっていたということ。
 それをダニルが、自らの意思で、踏み越えたということだと、理解できた……。

 サヤが、潤んだ瞳を俺に向けてきて、俺も頷いて、そっと部屋の入り口へ。

「私たちも、食べてきますね。
 何かあったら、呼んでください」

 今はとりあえず二人にしてあげよう。
 まだぎこちないけれど、今必要なのは、二人の時間だと思う。


 ◆


 雨が降り出してから、もうとっくに二時間を経過している……。
 けれど、雨脚は弱まることを知らず、いまだに窓の外は、隣家も見えないような雨に視界を閉ざされていた。
 ジェイドが二時間待てと言った、その時間までもう少し……。

 カーリンは、少し距離の縮まったダニルの介添えで足湯をして、気持ちが落ち着いたのか、多少表情も柔らかくなったように思う。
 そうして現在、滲み出てくる羊水を受け止めるための手拭いを、寝台に敷き直していた。

「……っ」
「カーリン?」

 少し顔を顰めたカーリンに、ダニルはすぐに気が付いた。

「あ、なんでもない。お腹が重いなって、思っただけだから……」

 そう言ったカーリンが、厠に行っておきたいんだけど……と、遠慮がちに口にして、ちらりとサヤを見る。

「あ、そうですね。ん……でも、外に行くのは駄目です。破水した以上、バイ菌感染が起こりやすい状態ですから、雨に濡れるとか、絶対駄目なので……。
 そもそも、歩くと羊水が余計に出てしまうと思うので、極力動かない方が良いかと。
 そうですね……嫌かもしれませんが……桶とかに用を足してもらって、後で私たちが捨てに行くという方法なら……」
「えええぇぇぇぇぇぇ⁉︎」
「駄目なものは駄目です。私の国でも、シャワーすら駄目だったんです」
「シャワーって?」
「お風呂で、頭からお湯をかぶるみたいなことです。湯に浸かるのも当然駄目でした」
「そんなに厳重?」

 俺の質問に、サヤは厳しい表情でこくりと頷く。

「妊婦さんのお腹に赤ちゃんがいるということは、それだけ特別なことなんですよ。
 本来、自分の中に他人の何かが入っているという事態には、拒絶反応が起こります。
 身体に入った毒物を、嘔吐や下痢で排泄するのと同じ感覚だと思っていただければ。
 けれどお母さんが赤ちゃんを拒絶、排除しようとしてしまっては、赤ちゃんは生きていけません。
 だから、免疫力を敢えて低下させて、赤ちゃんを受け入れている状態なんです。
 そのために、他の危険な物も受け入れやすくなっていると言えば、理解できますか?    今のカーリンさんは、普段ならば拒絶する危険な物も、知らずに受け入れてしまうような身体になっているんですよ。
 まして破水しています。身体の中に、傷口がある状態で、その傷口の中には、赤ちゃんが入っているんです」
「それは確かに、危険だな……」

 妊婦本人のみならず、赤子も危険ということだよな……?

 不浄場はどうしても野外にある。この店は一応不浄場まで屋根が繋げられているけれど、これだけ強い雨であれば降り込んだり跳ねたりする雨で、多少は濡れてしまうだろう……。

「うん。恥ずかしいは我慢してもらうしかないな」

 で、結局。
 衝立の向こう側に簡易厠が設置されることとなった。カーリンは嫌がったけれど、仕方がない。
 渋るカーリンにしびれを切らしたのは、結局ダニル。
 有無を言わさずカーリンを横抱きに抱き上げた。

「やっ、やだ!    サヤさんに、手伝ってもらう!」
「今更何言ってんだよ」
「大丈夫。羊水も出ちゃうと思うので、恥ずかしくないですよ」
「恥ずかしいよ⁉︎」

 とりあえず俺とサヤは部屋の外に避難。流石に同室では嫌だろうということで。ダニルはほら……ね?

 まだ部屋の中からキャアキャアと聞こえてきたけれど、この土壇場でカーリンとダニルの距離が少しずつ、縮まっていることが嬉しくて、サヤと二人で、微笑み合った。

「……サヤは、大丈夫?」
「私はなんともないですよ?」
「…………そっか」

 にっこりと笑ってそう言われたけれど……。
 破水した妊婦を、医師が到着するまで見守る……というこの状況が、緊張を強いていないはずがない。
 サヤの知識頼みとなっているこの状況が、重たくないはずはないのだ。
 それでも気丈に振る舞うサヤが、愛しくて……肩を抱き寄せて、さっと額に口づけしたら、怒られた……。人目が無いからやったのに……。

「最近、そういうこと多すぎませんか⁉︎」
「愛しいなって思う気持ちを伝えたいんだもん。他の手段があるならそうするけど、何かある?
 サヤの国でする、そういうことの表現方法があるならそれでも良いよ」

 ニコニコと笑ってそう言うと、言い淀むサヤ……。

「こ、言葉で言えば済むんと違う?」
「言葉で伝えて良いの?」
「あっ、やっぱりあかん。なんかあかん気がする……」
「これでも随分、大人しくしてるんだよ?    一応人前は、避ける努力してるし……」
「全然避けてへんくせに⁉︎」
「感極まった時は場所なんて選んでられないんだよ。つい勢いで動いてしまうから」

 なんでそないに感極まるん⁉︎    と、怒ってみせるサヤ。
 だけどこればっかりは……気付いたらやっていることなので、自粛も難しいんだよなぁ。
 反省の色がない!    と、また怒られたけど、そうやって表情をくるくると変化させているサヤは、なんだか緊張がほぐれている感じがして、俺は好き。
 こうやっていられるうちは、精神的にもまだ大丈夫そう。このまま何事もなく、医師の到着が間に合えば良いと思う。
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