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雨季 1

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 七の月五日目。
 とうとうか。
 空を見上げると、灰色の雲が、びっくりするくらい低い位置まで立ち込め始めている。
 昨日までとは打って変わって、空模様が怪しい。

「本当に、雨季が来るんですね。
 昨日まで、全然そんな雰囲気じゃ、無かったのに……」

 窓辺から、空を見上げたサヤが、そんな風に零す。
 雨季のこの雨は、この地方特有だ。
 どういったわけか、ひと月ほど降り止まないわけだが、王都などはそんなこともなく、長雨は続くが、合間に雨の降らない日や、晴れた日も挟まれる。

「振り始める前に、家具が届くと良いのですけど……」
「際どいかなぁ……これだと、夕刻まで保たないだろうし」
「……見て分かるんですか?」
「見た目と、匂いで、まあだいたい?」

 なんとなく会話の流れでそう答えると、サヤは窓を大きく開け、スンスンと鼻を鳴らし出した。
 一生懸命空気の匂いを確認するその姿が、可愛いわ、可笑しいわで、つい口元が緩む。

「匂いの違いが、分かりません……」
「あー……サヤはまだ雨季の雨を経験してないからじゃないか?
 むせ返るみたいな水の匂いと、土の匂いと、混じった感じなんだよ。それが濃くなる」
「んん?」

 俺を見上げたサヤが、眉を寄せる。
 そして虚空を見上げたままの体制で、匂いに集中するためなのか、目を閉じた。その表情が何かこう……求められている様に見えて、視線を外す。
 そんなわけがない。
 サヤはいたって真面目に空気の匂いを確認しているだけだ。
 鼻に集中するあまり、口が薄く半開きになっているから、それがその……うああぁぁ。
 一人頭の中で混乱していると、くっくっと笑う声。
 しまった……人の視線があることをすっかり、失念していた。
 扉の横で、拳で口元を隠す様にして笑う偉丈夫に視線をやると、咎められると思ったのか、慌てて姿勢を正した。

「失礼」
「……いえ」

 男前なんだよなぁ……。
 皆総じて背が高く、体格も良い。更に見目が麗しい。
 今朝の護衛は、ディート殿だった。
 俺の護衛役は、近衛の中から数人が交代で行う取り決めとなっている様子だ。

「やっぱり分かりません。
 でも、昼食の匂いは嗅ぎ分けました!   もうすぐお昼だと思います」
「うわっ、油売ってる場合じゃなかった」

 慌てて窓を閉め、執務机に戻る。
 仕事の合間、ちょっと息抜きをしている間に脱線してしまったのだ。
 氾濫対策もひと段落し、雨もまだ振らない。よって午前中の業務は少なくなり、慌てる必要もない。
 雨が降り出せば、暫くは忙しくなり、そしてまた暇になるだろう。
 そんなことを考えつつ手を動かしていると、またサヤの手が止まる。

「…………車輪の音です……」

 お。思ったよりも早かったな。ギルも、空模様を気にして、早く発ったのかもしれない。
 サヤの呟きに、ディート殿が耳をそばだてるが、彼にもまだ聞き分けられない様だ。だが、サヤの耳なら確実と、急いで手元の処理を終わらせ、片付けを行なっていると、俺の耳にも喧騒が届いた。

「急いで荷運びだな。まずは玄関広間に全部入れてしまおう。濡れなきゃ、後はゆっくり進めても良いんだし」
「ですね。昼食はちょっと後回しにしましょう」
「ええっ⁉︎」

 ……第三者の悲鳴。
 視線をやると、ディート殿が若干情けない表情で俺たちを見ている。
 昼食が遅れるの、嫌なのか……。なんか本当、この人色々と垣根が低い……。

「レイ殿、俺も荷運びを手伝っても良いだろうか」
「あ、はい。助かりますけど……近衛の方にそんなことお願いするのもその……」
「良い!   昼食の為だからな‼︎」
「は、はい……」

 そんなに、昼食が遅れるの、嫌なのか……。

 ルオード様の率いる近衛部隊は、姫様の独断で選別された部隊なのだそうな。
 こう言うと酷い我儘に聞こえるが、姫様は身分に囚われず、有能な人材をどこかからか見抜き、近衛に引き抜くのだという。なので、男爵家出身者や、士族から大抜擢を受けた者までいるのだそうだ。年齢も、総じて若い。次代を担う若手の発掘を行なっているということだった。
 これを聞いたときは、ルオード様は本当に凄いと感心したものだ。
 正直、身分にとらわれない部隊というは、纏めるのが至難の技だ。
 しかもルオード様も子爵家出身と、決して高いご身分の方ではない。
 気苦労も多いだろうに、隊を率いる姿は、本当に凛々しかったものな。
 そしてその隊員であるディート殿。
 俺とさして変わらない十九歳、今回派遣された中では一番の若手であるらしい。髪型が示す通り、まだ成人前の為正式な近衛となるのは三ヶ月後とのこと。
 とはいえ、一人前の騎士として近衛職に就くことが確約されているのだから、その実力も推して知るべしだ。

 玄関広間に移動すると、外から支持を飛ばす声が聞こえる。やっぱりな、ギルだ。
 サヤが小走りに駆けて行って、玄関扉を開けると、途端に誰かが飛びついてきた。

「サヤさん!」

 ルーシーも来ている。店の方はワド一人で大丈夫なのかな。

「ルーシーさん、お久しぶりです」
「お久しぶりですっ。ずっと叔父様だけこっちに居っぱなしで本当に腹が立ったから、我儘言ってついて来ちゃいました!」

 サヤに抱きついた状態できゃぴきゃぴとはしゃぐ。
 サヤが男装中だってこと、忘れてないよな……完璧に女友達に接してる態度じゃないのかそれは……。はらはらと見守っていると、俺に気付いたルーシーが、サヤから慌てて身を離す。
 そして、袴を摘んで上品に挨拶を始めた。

「レイシール様、お久しぶりです。この度は、土嚢壁の無事な完成、おめでとうございます」

 やれば出来る。
 それにしても、なんだか随分とめかし込んで、キラキラだ、物凄く。もともと見目麗しい娘であるのだけれど、着飾るとまた凄いな。
 露草色の袴に袖無しの白い短衣、腰帯は浅葱色と、清々しい色合いだ。更に、腰帯を紺の飾り紐で飾ってあるのがとても新鮮だった。見たことない装いだな。飾り紐には銀細工もあしらわれている。
 艶のある金髪は横髪を編み込まれ、後頭部で纏められている。襟足を大胆に晒した纏め髪だが、社交界のご婦人方のようなギッチリ感はなく、ゆるくふわりとしている。
 こちらにも紺の飾り紐と、銀細工の飾りがある。
 俺の視線に気付いたのか、ニッコリと笑ってふわりとその場で回ってみせた。

「如何ですか?   最新作です」
「うん。凄く美しいと思うよ。髪型も、服装も、爽やかでとても良い」

 その言葉に満足そうに笑う。そして、サヤの腕に自身の腕を絡めた。

「ですってサヤさん。流石です!」

 うん?   何故サヤ……。

「腰帯の飾り紐、サヤさんの発案です!」

 ええっ、いつの間に⁉︎

「発案というか……故郷の衣装にある飾りですから……」

 苦笑しつつサヤが言う。
 腕に美少女が絡み付いているからか、男装のサヤがより凛々しく見える構図になっているな。

「でもでも、サヤさんの故郷の衣装と、この国の衣装は違うものでしょう?   そこに新しい飾りを取り入れたのは、サヤさんの案です!
 私、凄く気に入ったんですから!   女性の装いに小物が増えるのは素晴らしいことです!   自己表現の新たな風ですよ⁉︎
 帯に新しい装飾が加わったことで、女性はより羽ばたけるようになったんです!   叔父様も大絶賛だったんですから‼︎」

 ……言ってることの意味が、半分以上分からない……。

「こらルーシー!   手伝うっつーから連れて来てんだぞ⁉︎   てめえの荷物くらい運びやがれ!
 あと叔父って言うな‼︎」

 開けっぱなしになっていた玄関扉から、大きな荷物を両手で抱えたギルがのしのしと乱入して来た。数日ぶりだ。
 俺を見て、表情を緩め……たと思ったら、その後ろに視線をやってハッと身を正す。そして、深く頭を下げた。

「失礼致しました。バート商会店主のギルバート、参じました。
 ご注文の品をお持ち致しましたので、お目汚しかと存じますが、運び込ませて頂き……」
「ちょっ、ちょっとギル、怖い、畏まるの怖いから止めてくれ!」
「それはお許し下さい、私共下賤の身と致しましては……」
「ああ、俺のことも気にしなくて良い。
 今日俺が護衛なのは、その辺も含めての人選だ。レイ殿に民間のご友人が多いことは伺っている」

 背後からの声に、俺もハッとなって振り返る。
 また忘れてた。ディート殿だ。貴族のこの方がいらっしゃったから、ギルは畏まったんだな。

「俺のことに気付いたか。気配を殺すのは得意なのだが、ギルと言ったか?   結構な手練れだな」

 そう言って爽やかに笑う。
 ルーシーは気付いていなかった様子で、あわあわと挙動がおかしくなっていた。
 気配を殺す?   って、ああっ、それでやたらと意識から外れるんだな、この人。それが出来るってことが相当な手練れだ。
 ディート殿のくだけた態度に、ギルも大きく息を吐く。そして、屈めていた姿勢を正した。

「友人として……接する態度をお見せしても、問題無いと?」
「ああ。俺も民間の友人は多いつもりだ。なのにそんな口調で話されたんじゃ、話が進まん」
「そうですか。では、失礼します。レイ、降り出す前に一通り、ここに入れるぞ。結構な量だから、急いで奥から詰める」
「ああ、そうしてくれ。俺たちも手伝う。……その、ディート殿も」
「……はぁ⁉︎」
「ご、ご本人がね、昼食が遅れるのも、申し訳ないし……その……」

 しどろもどろの俺に対し、ディート殿はさっさと動く。玄関扉から外に出て、有無を言わさず、大きな木箱を持ち上げ、運び始めてしまった。
 それを見たサヤとルーシーも、慌てて動き出す。
 俺はとっさにサヤを捕まえて、力加減だけ気をつけてと耳打ちした。こくりと頷くサヤ。
 数台続く荷車から、使用人と共に、どんどん荷物を運び込む。ギル、ディート殿、サヤと力持ちは、家具を中心に手伝ってくれたので、より捗った。
 いつもならば、寝台くらい一人で持ち上げてしまうサヤだが、今日それは控え、二人一組で作業してもらう。
 それでもやはり、小柄なサヤが大きな家具を、涼しい顔して運ぶ姿は注目を集めた。
 まあ、ギルの店の使用人らなので慣れている。流石だねぇ、頑張るねぇと、褒めてもらえた様だ。

「思いの外早かったな。男手が一人加わると違う」
「俺が戦力外だもんなぁ……いつも悪いね」

 一息ついたギルに、そう言って労う。
 そうしていると、食堂の扉が開いた。
 ハインだ。お疲れ様ですと、台車を押してやって来た。
 まずはたらいから、濡らした手拭いを取り出し配る。使用人らに混じって、ディート殿がいることに気づいて若干眉間にしわを寄せた。この人何してんだ……って顔だ。

「お茶と、試作があるのですが、ひとつまみされますか」
「……試作?」
「あっ、炭酸葡萄、ちゃんと出来てましたか?」
「ええ、面白いことになってますよ」

 満面の笑みでサヤがやって来て、硝子の鉢を覗き込む。
 鉢の中は、皮を剥かれた葡萄が水の中に敷き詰められていた。
 サヤは、横に添えられていた小鉢に、硝子鉢から葡萄を少量取り出す。

「炭酸葡萄……炭酸って、炭酸水の炭酸か?」
「はい、それと葡萄です」
「何が面白いことになってるんだ?皮を剥く手間を省いてあることか?」
「食べたら分かります」

 そう言って、自身の口に一つ放り込む。
 興味津々に歩み寄って来たルーシーの口にも、匙ですくったそれを差し出した。

「ルーシーさん、あーん」

 ザワッと、一部の使用人とディート殿が動揺して、素直にパクリと口にしたルーシーに、おおぉ!   と、歓声が上がる。
 ルーシーは、そのまま葡萄を咀嚼したかと思うと、両手を口元に添えて驚愕した。

「面白いでしょう?」

 ニコニコと笑顔のサヤに、こくこくと全力で首を縦に振る。キラキラと瞳を輝かせ、それはもう愛らしい。
 が、分からん!   何が面白いのか全然伝わりません!

「レイシール様も如何ですか?   食べなければ絶対に分からないです」
「うん。食べる」

 ルーシーの反応に俄然興味が湧いたので、サヤが新しい匙にすくってくれた葡萄を受け取って口に入れた。
 途端に、衝撃が走る。うん。これは衝撃。舌に衝撃が!

「なっ……なんで⁉︎」
「面白いでしょう?」
「おい、何が面白いんだ⁉︎」

 首を傾げている使用人やギル。代表して、ディート殿がそう聞いてくるが、俺は黙秘した。
 これは言えない。言ったら面白くない!

「食べますか?」

 笑顔のサヤ。
 皆それぞれが葛藤した挙句、結局口にした。
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