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暗中 3
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マルとの交渉については、一方的にハインが話したのみで、ほぼ終わった。
俺は何度か部屋を空け、ワドと交代で、明日の会議に向けての準備を進めた。
レイの状態が心配でならなかった。
本当に、無理やり自分を保っているのだと思う。常に貼り付けておく笑顔の維持ができていない。
気持ちの波が襲ってくるのか、急に怯えた表情をしたり、苦しそうに耳を塞いでいたりする……。本当なら、部屋を出て来たくはなかったろう……。そう思うと可哀想でならなかった。
だが、サヤがここを離れてくれたのは、ある意味良かったのだと思う。
サヤがいたら、きっともっと無理をした。
俺やハインだから、まだここまで見せているのだと思う。そこまでを譲らなければならないくらいにギリギリなのだ。
ルーシーとサヤだが、サヤは使用人の服装……但し、男装で。ルーシーは、主人筋の人間だと分かりやすいよう着飾って向かったそうだ。それ以外にも、比較的体格と風貌に恵まれた、腕に自信のある使用人が一人、つけられた。
バルチェ商会は街の外縁に近く、ゴミゴミした地域に店を構えていたので、二人用の馬車で向かった。
しかし、遅い……。
一時間もあれば帰ってこれるはず……。なのに、その時間は過ぎている。
長居したい店でもないだろうに……。やはり俺が行けば良かったか? と、考えればキリがない。苛々が募ったが、やらなければならない事も多く、時間を作る為にも仕事をこなしていくしかなかった。
そして更に半時間が経つという頃合いになって、ようやっと馬車が戻って来た。
俺は、仕上がり間近の衣装に誤りがあり、修正が必要かもしれないという報告を受け、その衣装の確認に来ていた。
店の奥で衣装を広げ、修正が必要と言われていた部分が、後からの要望で訂正されたものだと確認し、修正不要だと分かって胸を撫で下ろす。貴族の仕事はややこしいことが多い。次から次に、細々修正が入るのだ。
その俺の視界の端をルーシーがコソコソしている。
俺には気付いていないようだ。サヤの手を引き早足で進む。だから俺はルーシーが近くに来た瞬間に、鋭く「くぉら!」と、声を掛けた。
おかしなくらい、ルーシーが跳ねる。
「な、なに? 今ちょっと、急いでるから……報告は後で来るからっ」
「何しでかしてきた……。なんでコソコソと、逃げるんだ……?今話せ。すぐ話せ」
「き、着替えが先! 叔父様の変態‼︎サヤさんや私の着替えを覗くつもり⁉︎」
「お前がそうやって、誤魔化そうとしてんのは、見え見えなんだよ‼︎」
サヤを背後にかばいながら後ろ向きに歩き、店の奥に足を進めるという、器用なことをこなしながら、ルーシーが俺から必死に隠そうとしているのは、どう見てもサヤだ。
俺も遠慮せず大股で距離を詰める。
すると、あまり好ましくもない独特の匂いが一瞬鼻腔を掠め、俺の眉間にシワが寄った。
「あ、あの……」と、もう一人、一緒に行っていたはずの使用人が、背後から俺に話し掛けて来るが、そいつに向かって「黙ってなさい!」と、鋭く命令するルーシー。そこで俺の堪忍袋の尾が切れた。
「黙ってるのはテメェだ‼︎」
怒鳴りつけてルーシーを引き剥がす。
ほぼぶん投げられたルーシーを、同行していた使用人が慌てて受け止めた。
「サヤ…………」
血だ。
サヤの左袖が、血に染まっていた。
上腕を手拭いで縛ってあり、それも半分ほど赤く染まっていた。
血の気の引いた顔。だが意識ははっきりしているようだ。視線が俺を見ていた。
隠したかったのだろうが、血の匂いがするのだ。誤魔化されてたまるか。
俺の視線に一瞬怯んだが、サヤは毅然と顔を上げ、口を開く。
「大丈夫でした」
「何がだ⁉︎」
「ちゃんと、動けました。私……レイシール様の護衛を、勤めることが、出来そうです」
「怪我の話が先だろ⁉︎ 何言ってんだ!」
腕をつかもうとして、逃げられた。歯噛みするしかない。こんな状態なのに、傷の手当てすら拒否するのかよ⁉︎
拳を握る俺に、使用人が治療道具を持って来ますと言って、その場を離れる。
ルーシーは、何かギャンギャン騒いでいるが無視した。今はそれどころじゃねぇ。
サヤに一歩を踏み出すと、サヤは一歩下がる。俺は焦りを押し殺して、サヤに語り掛けた。
「ルーシーに、応急処置なんて上等な真似は出来ねぇぞ。こっちに来い、手当てするから……」
「じ、自分でしますから……」
「どうやって⁉︎ 片腕で何をするんだ!」
怒鳴りつけ、驚いて身を縮こませるサヤの姿に、必死で怒りを押し殺しす。
怒りたいんじゃねぇんだ……早く手当てをしたいだけなんだ……。だがこいつは、こんな状態でも男に触れられるのは嫌であるらしい。
誰なら治療可能だかを考えて、俺は決意した。背に腹を変えてる場合じゃない……。
「じゃあいいから、ついて来い。早く治療しねぇと、血を失くしすぎるぞ、分かってるよな」
睨みつけて言うと、サヤは渋々、こくりと頷く。よし。俺は踵を返した。サヤがついてくるのを確認し、足を早める。
そして向かったのは応接室だった。
女中に頼むこともできるには、できた。だが、これはレイに隠して良いことではないと、思ったのだ。
「あのっ……い、嫌です……大した怪我じゃないんです……」
俺の向かう先を察したサヤが、泣きそうな声でそう言うが、俺は足を緩めなかった。
そのうち、袖がツンと、引っ張られるが、それも無視した。
訪を告げることもせず扉を開く。当然ハインとレイがいて、レイは長椅子に。ハインは執務机で作業を行っていた。
急に開いた扉にビクリとしたレイが、胸元を握りしめていた。不安定な瞳が、俺を見る。俺はレイの元にまっすぐ進んだ。すまん……今の状態のお前に、また負担を掛ける……。けど……。
「レイ、……サヤの手当てをしてやってくれ……」
「……手当て…………?」
サヤ。手当て。という二つが、結び付いていなかった顔のレイが、次の瞬間に目を見開く。
俺の背後に視線が縫い付けられていた。
限界まで見開かれた瞳が、恐怖に染まる。
「サヤ‼︎」
悲鳴のような声を上げ、立ち上がった。
サヤはというと、レイの声に泣きそうな顔になり、二歩ほど下がって逃げようとする。
それをレイは追って、右手を掴んで阻止した。
その姿に、少なからずホッとする。
サヤに触れられる……そして、レイは逃げなかった……。良かった、手当てが出来る。
俺は、使用人が持ってきた治療用具を受け取り、長椅子前の小机に広げた。
次に水差しと盥が運び込まれる。
長椅子までサヤを引っ張ってきたレイが、無理やり座らせてから、血に濡れた袖を、治療用具の中にあった鋏で切る。傷を押さえているらしい手拭いも毟り取った。
その間に俺は、無用な使用人を遠去ける。ワドに、外のことを任せると告げると、ワドは静かに一礼してから、退室した。
そしてサヤを見る。
「お前……」
つい、呻いてしまった。
刃物の傷だ。十数糎の、長い傷が、腕を縦に切り裂いていた。
それを見てようやっと、さっきの言葉の意味を知る。
刃物の相手ができましたってことかよ……この状態で、よくそんなことを口にできるな。
まだ血すら止まっていない……どくどくとまではいかないが、じわりじわりと滲み出る血が、肘の方に伝っていく。
痛みがない筈がない……。なのにこいつは、泣き言も、呻き声一つすら、あげていない……。
その根性には感服するが、逆に痛々しい。泣けよ。痛いって言え。そんなもんまで堪えてんじゃねぇ。
「縫うほどでは無いようですね……。サヤ、事情を説明してください」
「それは後だ‼︎ ハイン、手拭いを塗らせ」
やって来たハインが、冷静に傷を見て言ったが、レイがそれを、声を荒げて制止した。
サヤがビクリと反応し、身を竦ませる。
レイはサヤの手当てのやり取りを、おろおろと見守っていたルーシーを見つけ、こちらに呼んだ。こいつはワドに引っ張り出されなかったらしい……。静かだから、全然気付かなかった。
「ルーシー、お願いがある……サヤに触れられるのが、今、君しかいないから……。
サヤの腕を、動かないよう持っていてもらえる?傷口を洗うから……サヤも、浸みるけれど、我慢するんだよ。すぐに済むから……」
冷静な、落ち着いた声音だった。レイの顔を見ると、瞳に先程までの不安定さは伺えない。
一時的なものであるかもしれないが、サヤの血で冷静さを取り戻せたらしい。
ルーシーがやって来て、固まった血で斑らになっているサヤの手首を、両手で握り締めた。
腕を横に伸ばして、下に盥を置く。濡らした手拭いで、傷口回りの固まった血を丹念に拭き取り浄めてから、その上で水差しの水を腕に掛ける。
血の流された腕に、また血が滲むが、手拭いでさっと拭ってから、レイは傷口を開くようにして中を確かめた。
「んっ…………」
そこで初めて、サヤが呻いた。
傷口を開かれるのだから痛いに決まっている。若干癒着しかけてたのが剥がされ、また血の量が増えた。
水を掛けられたのも痛かったと思うが、それは耐えるのだから……サヤは見た目に反し、かなり我慢強い。たまに男でも泣くからな。
サヤの呻き声に、レイは辛そうに顔を歪める。しかし手は緩めない。傷口の中に異物が残っていれば、今以上に酷い結果が待っているのだから、妥協はできないのだ。
だが見ただけでは安心できないらしい。ルーシーに状況を確認する。
「……傷口に、汚れが入るような可能性は、あった?」
「い、いえ……無いと、思います。室内でしたし……」
サヤの傷口を開くレイに、ルーシーの方が青い顔になっていたが、気合いで返事をしていた。
それにレイも頷く。
「うん、見た感じも、汚れは無いか、流れたように見える……。なら、次は包帯を巻くから」
傷を開くのを止め、今度は腕を鷲掴みするようにして傷口を合わせ、上に油紙を当てる。
更にその上から包帯で、きつめに縛っていく。
サヤは悲鳴を上げない。痛いに違いないのに……拳をぎゅっと握りしめて耐えていた。
額に汗を浮かべ、歯を食いしばり、呻き声を飲み込むように、唾を嚥下している。
一通りが終わると、さすがにぐったりとしていた。というか、今までよくもまあ、という感じだ。声を漏らしたのは一度きりだ。驚嘆に値する。
俺も肩の力がやっと抜けた。ああもう……流血沙汰とか最悪だ……。でも、良かった。あの程度の傷で済んで。命に関わる様なものでなくて……。後は傷が、残らなければ良いんだがな……。
ルーシーがそっと、腕を離す。
「サヤさん……」と、心配そうに声を掛けると、長椅子の背凭れにしなだれかかったままではあったが「大丈夫ですから」と答え、うっすら微笑んだ。
と、そのサヤの頭が、唐突に傾ぐ。
レイだった。
サヤを、胸に押し付ける様にして抱きすくめていた。
一瞬呆気にとられていたサヤが、次の瞬間真っ赤になる。
「いえっ、あの! み、見た目ほど痛くは無いです。
流石に、水を掛けたり縛ったりは痛かったですけど、痛みには慣れているというか、ズキズキする程度で、そんな大したものでは……!」
「動かさない!」
レイに怒られ、またピタリと止まった。
だが、怯えた様子では、ない。
俺は、ちょいちょいとルーシーを手招いた。
ルーシーも、音を立てない様にそっと、サヤの横を離れ、こっちにやって来る。
「報告は、サヤから聞く。出てろ」
「…………はぁぃ……」
流石に、察することはできた様だ。
ルーシーが退室した後も、レイはサヤを離さなかった。
少しでも力を緩めてしまったら、サヤが居なくなってしまうとでも思っているのか、両手でがっちりと抱え込んでいる。
今更怖くなってきたのか、サヤの頭を抱くレイの手は、震えていた。引き結ばれた唇も震えていた。そしてただひたすらに、サヤに縋り付くかのように、抱き締め続けていた。
俺は何度か部屋を空け、ワドと交代で、明日の会議に向けての準備を進めた。
レイの状態が心配でならなかった。
本当に、無理やり自分を保っているのだと思う。常に貼り付けておく笑顔の維持ができていない。
気持ちの波が襲ってくるのか、急に怯えた表情をしたり、苦しそうに耳を塞いでいたりする……。本当なら、部屋を出て来たくはなかったろう……。そう思うと可哀想でならなかった。
だが、サヤがここを離れてくれたのは、ある意味良かったのだと思う。
サヤがいたら、きっともっと無理をした。
俺やハインだから、まだここまで見せているのだと思う。そこまでを譲らなければならないくらいにギリギリなのだ。
ルーシーとサヤだが、サヤは使用人の服装……但し、男装で。ルーシーは、主人筋の人間だと分かりやすいよう着飾って向かったそうだ。それ以外にも、比較的体格と風貌に恵まれた、腕に自信のある使用人が一人、つけられた。
バルチェ商会は街の外縁に近く、ゴミゴミした地域に店を構えていたので、二人用の馬車で向かった。
しかし、遅い……。
一時間もあれば帰ってこれるはず……。なのに、その時間は過ぎている。
長居したい店でもないだろうに……。やはり俺が行けば良かったか? と、考えればキリがない。苛々が募ったが、やらなければならない事も多く、時間を作る為にも仕事をこなしていくしかなかった。
そして更に半時間が経つという頃合いになって、ようやっと馬車が戻って来た。
俺は、仕上がり間近の衣装に誤りがあり、修正が必要かもしれないという報告を受け、その衣装の確認に来ていた。
店の奥で衣装を広げ、修正が必要と言われていた部分が、後からの要望で訂正されたものだと確認し、修正不要だと分かって胸を撫で下ろす。貴族の仕事はややこしいことが多い。次から次に、細々修正が入るのだ。
その俺の視界の端をルーシーがコソコソしている。
俺には気付いていないようだ。サヤの手を引き早足で進む。だから俺はルーシーが近くに来た瞬間に、鋭く「くぉら!」と、声を掛けた。
おかしなくらい、ルーシーが跳ねる。
「な、なに? 今ちょっと、急いでるから……報告は後で来るからっ」
「何しでかしてきた……。なんでコソコソと、逃げるんだ……?今話せ。すぐ話せ」
「き、着替えが先! 叔父様の変態‼︎サヤさんや私の着替えを覗くつもり⁉︎」
「お前がそうやって、誤魔化そうとしてんのは、見え見えなんだよ‼︎」
サヤを背後にかばいながら後ろ向きに歩き、店の奥に足を進めるという、器用なことをこなしながら、ルーシーが俺から必死に隠そうとしているのは、どう見てもサヤだ。
俺も遠慮せず大股で距離を詰める。
すると、あまり好ましくもない独特の匂いが一瞬鼻腔を掠め、俺の眉間にシワが寄った。
「あ、あの……」と、もう一人、一緒に行っていたはずの使用人が、背後から俺に話し掛けて来るが、そいつに向かって「黙ってなさい!」と、鋭く命令するルーシー。そこで俺の堪忍袋の尾が切れた。
「黙ってるのはテメェだ‼︎」
怒鳴りつけてルーシーを引き剥がす。
ほぼぶん投げられたルーシーを、同行していた使用人が慌てて受け止めた。
「サヤ…………」
血だ。
サヤの左袖が、血に染まっていた。
上腕を手拭いで縛ってあり、それも半分ほど赤く染まっていた。
血の気の引いた顔。だが意識ははっきりしているようだ。視線が俺を見ていた。
隠したかったのだろうが、血の匂いがするのだ。誤魔化されてたまるか。
俺の視線に一瞬怯んだが、サヤは毅然と顔を上げ、口を開く。
「大丈夫でした」
「何がだ⁉︎」
「ちゃんと、動けました。私……レイシール様の護衛を、勤めることが、出来そうです」
「怪我の話が先だろ⁉︎ 何言ってんだ!」
腕をつかもうとして、逃げられた。歯噛みするしかない。こんな状態なのに、傷の手当てすら拒否するのかよ⁉︎
拳を握る俺に、使用人が治療道具を持って来ますと言って、その場を離れる。
ルーシーは、何かギャンギャン騒いでいるが無視した。今はそれどころじゃねぇ。
サヤに一歩を踏み出すと、サヤは一歩下がる。俺は焦りを押し殺して、サヤに語り掛けた。
「ルーシーに、応急処置なんて上等な真似は出来ねぇぞ。こっちに来い、手当てするから……」
「じ、自分でしますから……」
「どうやって⁉︎ 片腕で何をするんだ!」
怒鳴りつけ、驚いて身を縮こませるサヤの姿に、必死で怒りを押し殺しす。
怒りたいんじゃねぇんだ……早く手当てをしたいだけなんだ……。だがこいつは、こんな状態でも男に触れられるのは嫌であるらしい。
誰なら治療可能だかを考えて、俺は決意した。背に腹を変えてる場合じゃない……。
「じゃあいいから、ついて来い。早く治療しねぇと、血を失くしすぎるぞ、分かってるよな」
睨みつけて言うと、サヤは渋々、こくりと頷く。よし。俺は踵を返した。サヤがついてくるのを確認し、足を早める。
そして向かったのは応接室だった。
女中に頼むこともできるには、できた。だが、これはレイに隠して良いことではないと、思ったのだ。
「あのっ……い、嫌です……大した怪我じゃないんです……」
俺の向かう先を察したサヤが、泣きそうな声でそう言うが、俺は足を緩めなかった。
そのうち、袖がツンと、引っ張られるが、それも無視した。
訪を告げることもせず扉を開く。当然ハインとレイがいて、レイは長椅子に。ハインは執務机で作業を行っていた。
急に開いた扉にビクリとしたレイが、胸元を握りしめていた。不安定な瞳が、俺を見る。俺はレイの元にまっすぐ進んだ。すまん……今の状態のお前に、また負担を掛ける……。けど……。
「レイ、……サヤの手当てをしてやってくれ……」
「……手当て…………?」
サヤ。手当て。という二つが、結び付いていなかった顔のレイが、次の瞬間に目を見開く。
俺の背後に視線が縫い付けられていた。
限界まで見開かれた瞳が、恐怖に染まる。
「サヤ‼︎」
悲鳴のような声を上げ、立ち上がった。
サヤはというと、レイの声に泣きそうな顔になり、二歩ほど下がって逃げようとする。
それをレイは追って、右手を掴んで阻止した。
その姿に、少なからずホッとする。
サヤに触れられる……そして、レイは逃げなかった……。良かった、手当てが出来る。
俺は、使用人が持ってきた治療用具を受け取り、長椅子前の小机に広げた。
次に水差しと盥が運び込まれる。
長椅子までサヤを引っ張ってきたレイが、無理やり座らせてから、血に濡れた袖を、治療用具の中にあった鋏で切る。傷を押さえているらしい手拭いも毟り取った。
その間に俺は、無用な使用人を遠去ける。ワドに、外のことを任せると告げると、ワドは静かに一礼してから、退室した。
そしてサヤを見る。
「お前……」
つい、呻いてしまった。
刃物の傷だ。十数糎の、長い傷が、腕を縦に切り裂いていた。
それを見てようやっと、さっきの言葉の意味を知る。
刃物の相手ができましたってことかよ……この状態で、よくそんなことを口にできるな。
まだ血すら止まっていない……どくどくとまではいかないが、じわりじわりと滲み出る血が、肘の方に伝っていく。
痛みがない筈がない……。なのにこいつは、泣き言も、呻き声一つすら、あげていない……。
その根性には感服するが、逆に痛々しい。泣けよ。痛いって言え。そんなもんまで堪えてんじゃねぇ。
「縫うほどでは無いようですね……。サヤ、事情を説明してください」
「それは後だ‼︎ ハイン、手拭いを塗らせ」
やって来たハインが、冷静に傷を見て言ったが、レイがそれを、声を荒げて制止した。
サヤがビクリと反応し、身を竦ませる。
レイはサヤの手当てのやり取りを、おろおろと見守っていたルーシーを見つけ、こちらに呼んだ。こいつはワドに引っ張り出されなかったらしい……。静かだから、全然気付かなかった。
「ルーシー、お願いがある……サヤに触れられるのが、今、君しかいないから……。
サヤの腕を、動かないよう持っていてもらえる?傷口を洗うから……サヤも、浸みるけれど、我慢するんだよ。すぐに済むから……」
冷静な、落ち着いた声音だった。レイの顔を見ると、瞳に先程までの不安定さは伺えない。
一時的なものであるかもしれないが、サヤの血で冷静さを取り戻せたらしい。
ルーシーがやって来て、固まった血で斑らになっているサヤの手首を、両手で握り締めた。
腕を横に伸ばして、下に盥を置く。濡らした手拭いで、傷口回りの固まった血を丹念に拭き取り浄めてから、その上で水差しの水を腕に掛ける。
血の流された腕に、また血が滲むが、手拭いでさっと拭ってから、レイは傷口を開くようにして中を確かめた。
「んっ…………」
そこで初めて、サヤが呻いた。
傷口を開かれるのだから痛いに決まっている。若干癒着しかけてたのが剥がされ、また血の量が増えた。
水を掛けられたのも痛かったと思うが、それは耐えるのだから……サヤは見た目に反し、かなり我慢強い。たまに男でも泣くからな。
サヤの呻き声に、レイは辛そうに顔を歪める。しかし手は緩めない。傷口の中に異物が残っていれば、今以上に酷い結果が待っているのだから、妥協はできないのだ。
だが見ただけでは安心できないらしい。ルーシーに状況を確認する。
「……傷口に、汚れが入るような可能性は、あった?」
「い、いえ……無いと、思います。室内でしたし……」
サヤの傷口を開くレイに、ルーシーの方が青い顔になっていたが、気合いで返事をしていた。
それにレイも頷く。
「うん、見た感じも、汚れは無いか、流れたように見える……。なら、次は包帯を巻くから」
傷を開くのを止め、今度は腕を鷲掴みするようにして傷口を合わせ、上に油紙を当てる。
更にその上から包帯で、きつめに縛っていく。
サヤは悲鳴を上げない。痛いに違いないのに……拳をぎゅっと握りしめて耐えていた。
額に汗を浮かべ、歯を食いしばり、呻き声を飲み込むように、唾を嚥下している。
一通りが終わると、さすがにぐったりとしていた。というか、今までよくもまあ、という感じだ。声を漏らしたのは一度きりだ。驚嘆に値する。
俺も肩の力がやっと抜けた。ああもう……流血沙汰とか最悪だ……。でも、良かった。あの程度の傷で済んで。命に関わる様なものでなくて……。後は傷が、残らなければ良いんだがな……。
ルーシーがそっと、腕を離す。
「サヤさん……」と、心配そうに声を掛けると、長椅子の背凭れにしなだれかかったままではあったが「大丈夫ですから」と答え、うっすら微笑んだ。
と、そのサヤの頭が、唐突に傾ぐ。
レイだった。
サヤを、胸に押し付ける様にして抱きすくめていた。
一瞬呆気にとられていたサヤが、次の瞬間真っ赤になる。
「いえっ、あの! み、見た目ほど痛くは無いです。
流石に、水を掛けたり縛ったりは痛かったですけど、痛みには慣れているというか、ズキズキする程度で、そんな大したものでは……!」
「動かさない!」
レイに怒られ、またピタリと止まった。
だが、怯えた様子では、ない。
俺は、ちょいちょいとルーシーを手招いた。
ルーシーも、音を立てない様にそっと、サヤの横を離れ、こっちにやって来る。
「報告は、サヤから聞く。出てろ」
「…………はぁぃ……」
流石に、察することはできた様だ。
ルーシーが退室した後も、レイはサヤを離さなかった。
少しでも力を緩めてしまったら、サヤが居なくなってしまうとでも思っているのか、両手でがっちりと抱え込んでいる。
今更怖くなってきたのか、サヤの頭を抱くレイの手は、震えていた。引き結ばれた唇も震えていた。そしてただひたすらに、サヤに縋り付くかのように、抱き締め続けていた。
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