寝癖と塩と金平糖

三冬月マヨ

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僕から君へ

贈り物【九】※

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 線香の匂いと、リィンとした高く澄んだ音が室内に響く。
 雪緒ゆきおに案内されて二人が来たのは仏間だった。
 線香の煙が漂う先には、綺麗と云うよりは可愛らしい容姿の女性が描かれた肖像画がある。
 ふわふわとくるくるとした髪に、黒目がちな大き目の瞳。向日葵を背景に日傘を差し、穏やかに微笑んでいる。
 それが、杜川に脅迫、もとい、紹介されて出逢った高梨の亡き妻、鞠子まりこだ。
 意外だな、と二人は思った。
 こんな可愛らしい人が、あの不愛想な高梨と結婚していたのか、と。
 利害の一致から結婚をしたとの話だったが、本当なのだろうかと。
 こんなに可愛らしく大人しそうな人が?
 と、二人は思ったが、それは鞠子を知らないからだ。
 馬鹿正直に高梨が津山との関係を明かした時に『あらあら。そう云うお相手がいらして良かったですわ。実は本当に不能なのかしらと心配に思っていた処でしたの』と、コロコロと笑って高梨に頭を抱えさせた事等、二人は知らない。

「奥様。ご紹介致しますね。新しい御友人の橘瑞樹みずき様と楠優士ゆうじ様です」

「え」

「あ」

 仏壇の前で手を合わせてにこやかに笑う雪緒に、瑞樹と優士は声をあげた。

「ああ、申し訳ございません。未だお返事を戴いていませんでしたね。…僕とえにしを結ぶのはお嫌でしょうか?」

 僅かに寂しそうに目を伏せて、首を軽く傾げる雪緒に、否と言えようか?
 さては意外と押しが強いな? と、思いながらも二人は『喜んで』と返事を返したのだった。

「ありがとうございます。では、これからは瑞樹様、優士様とお呼びさせて戴きますね。そうです! お二人に是非お見せしたい物があるのです」

 仏間から出て行こうとする雪緒を優士が慌てて止めた。

「俺達も、線香を上げても?」

「はい、是非! 奥様もお喜びになります!」

 朗らかに笑う雪緒に、優士は軽く肩を竦め、瑞樹は釣られてへにゃりと笑ってから、鞠子に線香を上げて手を合わせた。

 ◇

 連れて来られたのは雪緒の部屋で、飾り気の無い整然とした物だった。

「こちらです」

 そんな部屋の一角にある箪笥の上から、雪緒がそれを手に取り二人に見せた。
 豆電球が灯る部屋で、開け放たれた障子から差し込む月の光がやけに白く輝いて見えた。
 雪緒が両手で包み込む様に持つ物は、青い箱だった。空の様な青。そこには、何処か歪な形の金色の星が散りばめられていた。決して綺麗だとは言い難い物だ。だが、何故か目が離せない、そんな気がした。
 それに。
 その箱は、何処か温かくて。ぽかぽかとした物が、心の奥に沁みて来ていて。

「僕がこちらに来た時に、奥様から戴いた物なのです。チョコ…ちょこれいとの入っていた箱なのですけど、初めてのお味に感動していましたら、奥様がこれを下さったのです。僕の宝物なのです。…一度壊れてしまったのですけど、ゆかり様が直して下さいました。それから、こちらのお星様が剥がれる度、お空の青が褪せて来る度に、紫様が直して下さるのです…僕の…大切な宝物なのです…」

 そっと箱の上蓋を撫でながら笑う雪緒は、あどけない少年の様に見えた。
 雪緒が高梨家に来てから、ゆうに十年を超えている。その間、ずっとこの箱はここにあった。雪緒と共に。雪緒の想いと共に。いや、雪緒達の想いと共に。大切な大切な想いが宿る箱。知らぬ物が見れば、それはただの草臥れた箱なのだろうが。雪緒には、いや、高梨にとっても、これは掛け替えの無い物なのだ。二人の想いが詰まった物なのだ。

「あ、の、触っても…?」

 恐る恐ると瑞樹が聞けば、雪緒は『ええ、どうぞ』と、箱を両掌へと乗せて二人の前へと差し出した。 
 そっと蓋を撫でれば、何故か胸がぽかぽかとした。

「…何かぽかぽかする…」

 瑞樹が目を細め、頬を綻ばせれば、優士も僅かに目を細めて『ああ…』と頷いた。

「それは良かったです。せい様はこの箱の事を"ぽかぽかの箱"とお呼びしているのですよ。そんな星様を見る度に、僕もぽかぽかとしてしまうのです。星様は本当に、太陽の様に明るいお方ですから、ぽかぽかしてしまうのも仕方がありませんよね」

 いや。
 と、二人は内心で激しく首を横に振った。
 雪緒に星はどの様に見えているのだろうか?
 少なくとも、星はぽかぽかの太陽じゃない、ギラギラとした真夏の太陽だ。

「…あ、の…雪緒さんは…強さとは何だと思いますか…?」

 箱に触れていた手を離し、瑞樹が襟巻きをきゅっと握りながら、目の前に立つ雪緒を見た。
 箱に触れていた手を離して、優士が隣に立つ瑞樹の横顔を見る。
 その横顔は、その瞳は、何処か不安そうに揺れていた。

「…強さ、ですか…? うぅん…紫様も何故か強いとか口にされていましたが…」

 人差し指を顎にあてて、軽く首を捻ってから、雪緒はぽつぽつと語り出した。

「…こちらに来てから、僕は本当に沢山の物を戴きましたし、沢山の事を覚えました…笑う事も、怒る事も、泣く事も、拗ねる事も…本当に、沢山…。底の減っていない草履ですとか、裾や袖の切れていないお着物、穴の空いていない真っ白な足袋、穴の空いていない毛布や、綿のはみ出ていないお布団に感動をしたりもしました。雨漏りや隙間風の無いお部屋ですとか、温かいお風呂にお食事、冷たい甘味の贅沢、罅やあかぎれの無い手指、お買い物に出まして、お妙さんと、出来立てのコロッケを嗜むと云う贅沢…」

 お願い、止めてと二人は思ったが、口を出すのは憚られたので、ぐっと堪えて、口をきつく結んだ。

「…それらも、やはり僕の大切な想い出で、宝物なのです。そうした物は、失くしてはいけない物なのだと僕は思います。それを失くしたくない、失くさない心。…それが、強さなのだと僕は思います。…ああ…そうですね…僕は、嘘は吐きたくは無いと思っています。それは、僕自身に対しても。それはとても辛く悲しい物ですから…」

 ふっと、視線を下に落とした雪緒は、ここに来る前の事を思い出しているのだろうか?
 自分の心を騙していた頃の事を?
 きつい折檻を躾と誤魔化していた頃の事を?

「…雪緒さん…」

 痛ましげな瑞樹の呼び掛けに、雪緒が静かに目を閉じて軽く頭を振る。
 そして、その目を開いた雪緒は、ただ、穏やかに微笑んでいた。

「…瑞樹様。瑞樹様の記憶の中で、瑞樹様のお母様は笑顔でいらっしゃいますか?」

「え?」

 雪緒の問いに、瑞樹の身体が強張る。
 そんな瑞樹の様子に、優士が軽く雪緒を睨んだ。
 しかし、雪緒は穏やかな笑顔を浮かべたままだ。

「…もう顔もはっきりとは思い出せないのですが、僕の記憶の中で、僕の亡き両親は何時も笑顔でいます。思い出すのは笑顔の両親だけです。瑞樹様のお母様は、瑞樹様を守って下さったのです。瑞樹様にはお辛い事でしたでしょうけれど…どうか、思い出すのは、記憶に残すのは、笑顔のお母様にしましょう? そうしましたら、ほら、ここがぽかぽかとして来ますから」

 胸に右手をあてて、雪緒が何もかもを包み込む様に笑う。それは空から降る雪の様にふわふわと。けれど、それは冷たくは無い。温もりのある真白ましろの雪だ。穢れの無い、穢され様の無い、真白の雪だ。
 その雪が、瑞樹の胸の中に降り、ゆっくりとゆっくりと重なってゆく。

 ぽたりと、首に巻いている襟巻きに雫が落ちた。
 ぽたりぽたりと、それが広がって行く。

「……………母さん……………」

 何時だって母の事を思い出すのは、あの夏の日。
 苦しんで苦しんで逝った母の姿。
 だけど。
 母を思う度に苦しむのは。
 そんな風に何度も何度も苦しめられているのは。
 瑞樹では無くて、瑞樹の母だ。
 父が言っていたではないか。
 母は立派だったと。
 そんな母を何度も何度も苦しめているのは誰だ?

「…今直ぐにとは言いません。何時か、夢で笑顔のお母様と出逢えます様に、僕も祈っています」

「…は、い…」

 はらはらと頬に流れる涙を瑞樹が袖で拭う。

「…ああ、そうです! お二人に夢はありますか?」

 先程までの静かな声とは一転して、明るい声を出す雪緒に二人は目を瞬かせる。
 しんみりとしてしまった空気を変えようと云うのだろうか。

「夢があるのは素晴らしいですよ」

 朗らかに笑う雪緒だが、その頬は僅かに色付いていた。高梨が居れば、間違い無く、確実に雪緒を止めただろう。その高梨は、中々戻って来ない三人の様子を見に行こうと、座布団から腰を浮かせた処だった。

「僕の夢はですね、将来足腰の弱りました紫様のおむつを替える事なのです!」

 ―――――――――――――――…何て…?

「鍛えてらっしゃいます紫様ですから、その様な事は無いと思うのですが…ですが、万が一と云う事もありますからね」
 
 時を止めてしまった二人に気付かずに、雪緒は夢を見る様に頬に片手をあててつらつらと話して行く。

「紫様のおむつの交換が本当に今から楽しみで仕方が無いのです。紙おむつの新作が出ます度に購入していまして、紫様に見つかりません様にと、仏間の押し入れに隠してあるのですが、そろそろはちきれそうです。本当に、その時はどの様な可愛らしいお姿を見せて下さるのか…ああ、気が付いていましたか? 紫様の謝りますお姿は本当に可愛らしくて…」

「…雪緒…」

 それは、低い低い、本当に地の底から響く様な声だった。
 開け放たれたままの障子の向こうを見れば、廊下に両手と両膝を付いた高梨が、思い切り項垂れていた。

「あ、や…っ…!」

「紫様、どうされました? 何処かお加減でも?」

 まずい、ヤバい、話を聞かれたと瑞樹は思ったが、雪緒はそうは思わなかった様で、青い箱を手にしたまま、高梨の傍へと近付いて行く。

「…………おむつ…しているんですか…?」

 それは、優士なりの冗談だったのだが。

「帰れ―――――――――――――――――っ!!」

 しかし、そんな塩な冗談に笑える筈も無く、高梨は顔を赤くして、それはそれは力の限りに叫んだのだった。
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