寝癖と塩と金平糖

三冬月マヨ

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幼馴染み

【完】冷やし中華

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「…う、あ…?」

 自分の腰の脇に置かれた優士ゆうじの足を瑞樹みずきはそろそろと見た。

(え、何でこいつ、こんな怒ってるんだ?)

「…は瑞樹の母親では無い」

「は?」

(あれ? 僕って、今言ったのか? いや、それよりも…)

「…母親って何…」

 そりゃ、毎朝寝癖を注意されてるけれど、それに対して母みたいだと口にした事があったか? と、瑞樹は後頭部に手を回して、寝癖の有無を確認しながら首を捻る。それよりも、今、そんな話をしてたか? と、更に首を捻った。異動の話をしていた筈なのに、何処をどうしてこうなったのか、瑞樹にはもう解らなかった。ただ解るのは、優士が怒っていると云う事、それだけだ。しかし、何に対して怒っているのかも、瑞樹には解らなかった。

「…まだ瑞樹がぼんやりしてた頃、気持ち悪いと言われた事があった。僕は気にしなかったが、瑞樹がそれに反応した事に傷付いた」

 下げた視線の先にある瑞樹の手の下に隠された寝癖を見ながら、優士は淡々と告げた。

「…え…?」

 捻っていた首を元に戻して優士を見上げれば、そこには何処か泣きそうな優士の顔があった。
 その声は何時も通りに感情を乗せずに淡々としているのに、何故? と、瑞樹の頭の中で疑問が広がる。

「瑞樹の母の様だと言われて、嫌だと思った。瑞樹に気持ち悪いと思われていても、傍に居たかった。僕は瑞樹の母では無い。母になんかなりたくない。母の様だと思われたくない。そう思って、言葉遣いも変えようと努力した。僕はただ、傷付いた瑞樹を放って置けなくて、瑞樹を守りたくて、もう瑞樹に辛い思いをして欲しくなくて…また元気に笑って欲しくて…また…僕を見て笑って欲しくて…。…そう思っていた…」

 今にも泣き出しそうに、眉を下げて目を伏せて、きつく優士は唇を噛むが、依然として右足は瑞樹の脇に置かれたままだ。それは、まるで瑞樹を逃さないかの様に。

「…いや…気持ち悪いって…何?」

(誰が誰を気持ち悪いって思ってるって?)

 何がどうして、そんな思いに至ったのだと、瑞樹は眉を寄せて、後頭部に回していた手を拳にして顎へとあてた。

「…気持ち悪いと言われて、ぼんやりしてた意識が覚醒したんだろ?」

「え?」

 淡々としていた筈の優士の声に、苦さが混じった気がして瑞樹は軽く目を見開く。

「確かに僕は、あの日蝕の日から何時も以上に瑞樹の傍に居たし、色々と世話を焼いていたから…あいつがべったりと言ったのも解る…」

 確かにその言葉がきっかけで、夢現の状態から現実へと戻って来たけれど。だけど。
 だけど、と、瑞樹は一度唇を強く噛んでから、口を開いた。

「違う! 優士を気持ち悪いなんて思った事は一度も無い! 俺はただ、お前が気持ち悪いって言われた事が嫌だったんだ!」

 そんな誤解はあんまりだと、瑞樹は思った。
 ずっと、それを言われた時から優士はそう思っていたのかと思うと、泣きたくなった。
 それでも、そう思われていると思いながらも、傍に居てくれたのだとも思うと、堪らなく嬉しくもなった。

「…瑞樹…?」

「俺があんなだったから、気持ち悪いなんて言われたんだろ! そんな事無いのに、俺が情けないから…俺のせいで…っ…! だから、だから…っ…、ちゃんとしなきゃって…ぐるぐる頭の中で、それが回ってて…で、父さんのあの料理で…味付けの酷さで…目が覚めたんだ…」

 目を瞬かせる優士の目を睨みながら、瑞樹は叫ぶ様に言い切った。ちょっとだけ、心の隅で父にごめんと謝りながら。

「…は…」

 何とも間の抜けた声が優士の口から漏れた。
 目を何度も瞬かせている。
 右足はまだそのままだが、その身体からは力が抜けている様に見えた。

「でっ!? お前は何怒ってんだよ!?」

 勢いのままに瑞樹は、脇に置かれたままの優士の右足を指差した。

「あ、ああ…。それはお前が結婚だなんて言うから…」

 右足をベンチから下ろしながら、何処か罰が悪そうな顔で優士が言った言葉に、瑞樹は何度目かは解らないが首を傾げた。

「何でそれで怒るんだ? だって、何時かはするんだろ? 奥さんが居るのに、俺がお前の飯を作る訳にはいかないだろ? だか」

 だから、それまでの間だよな。と、瑞樹が言い切る前に、再び優士の足が勢い良くベンチの角に押し付けられた。きっと、この下駄の寿命は短いだろう。

「って、何なんだよ!? だから、何で怒るんだよ!?」

 本当に訳が解らないと叫ぶ瑞樹に、優士は片手で眉間によった皺を解す。

「…本当に馬鹿だな。馬鹿過ぎて泣けて来る」

「だから、馬鹿馬鹿言うなよ!」

「馬鹿だから馬鹿だと言っているだけだ。本当にこれまでの流れで何も解っていないのか? どうしようも無く救いの無い馬鹿だな」

「だからっ! 何で結婚って言って怒るんだよ!?」

「いいか、良く聞け。耳まで馬鹿になっていない事を祈るが。僕が結婚するとしたら、その相手はお前だけだ。覚えて置け」

「……………………………………………………………………は…?」

 長い沈黙の後に瑞樹はただそれだけを口にした。
 目を見開き、口はぽっかりと開いたままで。
 "結婚する"と云う言葉が聞こえた気がする。しかも、その相手は自分だけだと云う謎の言葉もしっかりと、瑞樹の耳は捉えていた。捉えてはいたが、果たして今のこの状況は、そんな色のある物だっただろうか?
 とにかく、瑞樹は困惑するしか無かった。
 そんな瑞樹を他所に、優士は真っ直ぐと瑞樹の目を見据えて淡々と言葉を紡いで行く。

「…羨ましいと思った。高梨隊長と雪緒ゆきおさんが…。二人の様に、瑞樹とごく自然に寄り添えたら良いと思った。周りの誰もが自然に二人を受け入れていて…そうなりたいと思った。…お前は…? 僕を気持ち悪いと思っていないのなら、どう思っているんだ?」

「…どう、って…」

 湿った風が二人の間を通り抜けて行く。
 瑞樹はベンチに座り、瞳を揺らしながら優士を見上げている。
 優士はそんな瑞樹の腰の脇に僅かに身を屈め右足を置き、更にはその脚の上に右腕を置いているし、その顔は無表情と言って良いぐらいの塩だ。
 二人の間には甘さの欠片も無く、これで優士が瑞樹の胸倉を掴んでいれば、立派な恐喝現場だろう。

「…優士は…俺の大切な幼馴染みだ…」

「それだけか?」

 それだけかと問われれば、それだけではないと、瑞樹は首を横に振る。
 優士が大切な幼馴染みであるのは間違いない。
 だけど。きっと、ただそれだけなら、遠征の時に、一人取り残されて寂しいだなんて思わなかったのかも知れない。気遣う様な視線だけを残して去って行く優士の背中を見送って、何故か泣きたくなっただなんて、そんな事を。

「…俺が作った飯を食べてくれるのは…嬉しい…。…あれが食べたいとか、これが食べたいとか…言ってくれるの…本当はすっげー嬉しい…」

 と、そこまで口にして、瑞樹はとある日の事を思い出した。
『簡単』だと優士が口にしたとある日の事を。

「うん、それで?」

 瑞樹の言葉は十分に嬉しい物だったが、優士はそれだけでは満足出来なかった。
 もっと、その先の言葉が欲しい。もっと、一歩も二歩も踏み込んだ言葉が。
 ただの幼馴染みでは無い言葉が。
 先の求婚にも似た言葉に対する明確な答えが欲しい。
 そう思いながら、僅かに目を細めて先を促す優士だったが。

「…けどな…。冷やし中華を簡単って言うな!」

「………は?」

 瑞樹からの思わぬ反撃に優士は目を瞬かせた。

「きゅうり切るのも、ハム切るのも、錦糸卵を作るのも大変なんだぞ! ゆで卵を切るのも! ただのゆで卵にしたらお前煮卵が良いとか言い出すしっ! そうだ! 料理出来るって言うなら、今度冷やし中華を作れ! お前が冷やし中華を作るまで、飯は作らないからな!」

 優士の胸に指を突き付け、睨みながら瑞樹はそれを言った。

「…僕が冷やし中華を作ったら、飯を作ってくれるのか? ずっと?」

 僅かに赤みが増した瑞樹の目元を見下ろし、己の胸にある瑞樹の指をそっと掴んで優士が問えば。

「…おお…」

 と、ふいっと顔を逸らして瑞樹は頬を膨らませ唇を尖らせた。
 色気もへったくれも無いが、これは先の求婚もどきに対する返事で良いのだろうか?
 包んでいた指に力を籠めれば、僅かに瑞樹の肩が震えたが逃げる気配は無い。
 ふっと、優士は軽く息を吐いて笑った。
 これが答えで良いのではないかと、優士は思った。
 逃げないのなら、それで良いと。
 何時かは明確な答えが欲しいが、今、それを口にしたら瑞樹は『しつこい』と、臍を曲げてしまうかも知れない。 それなら、今はここで妥協して置こうと。

「…じゃあ、向こうに戻ったら冷やし中華作るから食べてくれ」

「…ん…」

 ベンチから足を下ろし、掴んだままだった瑞樹の指を引けば、瑞樹は素直に立ち上がって小さく頷いた。
 吹く風は僅かに強さを増して、空に重い雲を運んで来ていた。
 空を見上げ『降り出す前に帰ろう』と優士が言えば『じゃあ、競争な!』と、瑞樹が笑い、優士の手に掴まれたままだった指をするりと抜いて走り出した。
 優士に掴まれていた指先が熱くて、瑞樹は走りながら、今すぐにでも雨が降れば良いのにと思った。
 先に走り出した瑞樹に『卑怯だ』と声を掛けて優士も走り出す。甚平と着物。圧倒的に甚平姿の瑞樹の方が有利だ。だけど、と優士は小さく呟く。逃がさない、と。
 差し当たっては帰ったら、母に簡単では無い冷やし中華の作り方を教えて貰おうと優士は思うのだった。

 走りながら空を見上げ、今年の夏は暑く、処暑を過ぎてもこの熱は去らないのだろうと、優士は目を細めて口元を緩めた。
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