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第一章 黒瑪瑙の陰陽師

《十》

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 ……あれ?

 舞台の上で美しく奏でられる笙の音色。
 これから披露される『斉天』の舞、その始まりを告げる合図になるはずだった。
「……」
 猿面を付けた少年は高さ十五メートルの舞台から下を見下ろす。
 正四角柱の舞台を囲うように用意された客席。
 その側で、不気味に光る白い門がこの場にいる全ての人間を恐怖に包み込む。

 ぎゃあぎゃあ、と響く怨嗟の音。
 ワニの形をした妖魔が雪崩となって人々に襲いかかっていた。

「……ぇ」
 
 か細く小さく漏れ出る声。
 絶望が広がる光景に、春明はただ目を疑った。
 配属された検非違使たちも観客の誘導をするが、対処が間に合わない。
 下手に動けば、春明も巻き添えを喰らう。

「……」

 どうする?
 不協和音が響く中、春明は無言で辺りを見渡す。

 すると、舞台側に一番近い客席に、十代と思わしき少女が二人。
 LOVE MEL! と、団扇を持った観客が取り残されている。

「……っ!」

 総勢二百名の観客を避難をするにも一筋縄ではいかない。
 彼女たちは足を挫き、検非違使たちの視界の外になっていた。

 自分には関係のない、都塚メルのファン。
 だが、少年は衝動に駆られ猿面の紐を勢いよく外す。

「風間ぁ!」

 混沌の中、春明の力強い声が木霊する。
 それに呼応し、舞台に描かれた紫の星から風間が現れた。

「坊ちゃん! ご無事ですか!? お怪我はございませぬか!?」
 舞台に現れてすぐさま、風間は春明に怪我が無いか確認する。
 肩や腕、腰から足にかけて、春明に異様なまでに触っていた。
ぇっての! それより風間、今すぐやって欲しいことがある!」
 春明は風間の手をやんわりと払いのけて、眼差しを向ける。

「はい、何なりとご指示を」
 迷いの無い真っ直ぐな眼差しに、風間も背筋を伸ばす。
 きっと、自分を逃して欲しい、と。
 そう命令が下ると考え、主君を守ろうと姿勢を構えた。

 だが、

「今すぐ観客の避難を手伝え! 式神使って、手数増やして……そういうの得意だろ!?」

 ことごとく、予想は裏切られる。

「坊ちゃん……?」
 疑問に目を見開く風間を、春明は舞台の端までつれてその光景を見せる。
 そこには取り残された観客たち。
 検非違使の誘導に間に合わず、散り散りとなりつつあった。

「都柄メルついでに偶然観た客がほとんどだろうな。けどよ、どんな理由であれ、オレの舞台をわざわざ見に来てくれた客だ。無事に帰さないで舞師を務められるか!」

 強気に言い放ち、恐怖じぶんより観客の命を優先する。
 手を振るわせ意地を張る主人に、風間は複雑な表情を見せた。

「大変ご立派です。歴代の阿部家御当主様たちはさぞお喜びになられるでしょう。けれど、当主様が居らしたら、現状を嘆きお叱りになられたでしょう」
 舞にすべてを投げ出さなくとも良い、と。
 春明の父、阿部家の当主の言葉を風間は思い返した。

「まずは御身の安全を確保してから、それからです」
 まだ十六歳の少年が、ここまで危険に身を置かす必要はない。

 子供に言い聞かせるよう。
 風間は春明の腕を掴もうと手を伸ばす。
 しかし、その手はバチンと渇いた音と共に払い除けられた。

「嫌だ! まずは観客が先だ! 席にまだ客が残っているのに、舞師が先に舞台を降りてどうするんだ!」
「いい加減になさい! 見なさい。坊ちゃんが身を案じて下さっているのに誰も気がついていない。先に身を退いても誰も咎める人は居ません」

 風間は駄々をこねる少年に厳しく言い放つ。
 下を見れば、誰もが自分のことで精一杯。
 春明の存在すら、忘れ去られている。
 とても悲しい現実に、風間は声を荒げた。

「今ここで、死にたいんですか!?」

 風間の訴えに、春明はハッとなった。
 けれどそれは、彼の考えを改めたからではない。

「ふざけるな、ふざけるな、ふざけるなぁ!」
 どこか現状が。
 聖人としての斉天大聖に似通っていた。

 少年は何度も自分は斉天大聖ではないと叫び続ける。
 彼が観客を先に逃がしたいのは、断じて、世の為、人の為ではない。
 観客がいればそこが必ず舞台になるからだ。
 見ているかどうかは関係ない。
 座席に客がいれば、彼の舞師として舞台に立ち続ける願望。
 自分の実力不足、舞台から降りるのであれば彼は渋々ながら腑に落ちる。
 公演が突然中止になるってこともあるだろう。

 だが、観客を妖魔の群れに残して舞台を降りることは彼の心が許さない。


「オレは舞師だ! だからこそ、舞台の上で死ねるなら本望だ!」


 緋色になびく髪の色が、自身の魂の色を物語る。
 少年の手は未だ震えたままだった。
「……」
 真っ直ぐに射貫く琥珀色の瞳に、風間は言葉を返せなかった。
 ただ、無言で人型の札を二枚取り出し、宙に向かって投げる。
 現れた二体の式神は武装を纏い、春明を守るように両側に立つ。

「今、手持ちの式神の中で最も霊力が安定しているものです……が、この状況、下で何体か式神を出せば、こちらの式神にも影響が出るでしょう」
「……影響って、なんだよ」
「式神の数は霊力に比例する霊術です。この場合霊力は霊術者、つまり俺の霊力。式神を出す数が多いほど、個々の実力は劣ってしまうのです」

 申し訳ありません、と風間は項垂れる。
 それを見て、少し冷静になって春明は口を尖らせた。

「別に謝ることじゃねーだろ。今は質より量が優先だ。さっさと客を避難させて、オレらもヅラかろうぜ」
 式神の欠点に非難することなく、春明は素っ気なく言い放つ。
 飾り気のない堂々とした立ち振る舞い。
 風間は嬉しさがこみ上げる、と同時に。

「……坊ちゃん、『ヅラかろう』というお言葉は聞き捨てなりません。もっと丁寧な言葉遣いをされて下さい」
「はいはい、そうでした。とんずらしようぜって言った方が良かったか?」
「言い方!」

 風間の説教にいつもの彼の態度が戻りつつあった。
 春明は密かにホッと胸を撫で下ろす。
 すると、風間は軽く咳払いをし、再び真剣な眼差しを向ける。

「では、しばしのご辛抱を。基本、その二体を中心に霊力を回しているので、いきなり弱体化することはありませんが……、坊ちゃんが危険な状況に置かれていることには代わりありません。すぐに済まして参ります」
「おう」

 春明は短い返事で返す。
 それを合図に、風間は十五メートルの高さから飛び降り式神を召喚した。

「助太刀する! 早く観客を一人残らず誘導しろ!」
 辺りの検非違使たちに激昂し、残された観客の少女たちを避難の列に誘導する。
 放たれた式神たちは空中を滑空し、ワニの妖魔に巻きつき捕らえていく。

「……アイツやるじゃん」
 流石は元検非違使であり、大戦の動乱を駆け抜けた実力を併せ持つ。
 風間の介入により、検非違使も戦況を取り戻す。
 攻防を繰り広げながら、観客たちが出口に誘導される。
「坊ちゃん、今向かいますからぁ!」
「いいから早く来い!」
 避難誘導がひと段落し、風間は舞台に向かって叫ぶ。
 春明は恥ずかしさに赤面するが、彼の式神術の実力に誇らしさがあった。

 ただ、一つ。
 春明に気掛かりがあるとすれば。
「……」
 あの青い目をした、検非違使の行方。
 彼が今どこで何をしているか。
 春明は全く検討もつかず、眉間に皺を寄せる。

「……いいじゃねぇか、あんな楽観適当バカ」
 こんな殺伐としたところ、絶対に似合わないじゃん。
 そう自身に言い聞かせ、少年は風間の到着を舞台の上から待ち続けた。

「……ん?」
 視界の隅に映った、白い門。
 少年の疑問に振り向いた途端、雷の如く門が開く。

 ドン、と。

 衝撃と共に生み下ろされた、黒い獣。
 ソレは今までの妖魔ワニとはまるで違う。
 紫の光が放たれた途端、一目散に春明のいる舞台に駆け上がる。

「……っ!」

 ギョロリと光る、黄色い目玉。
 十五メートルの高さを難なく跳躍し、その妖魔は春明の前に現れる。
 尖った大きな耳と、全長二メートルの虎の巨体。
 しかし、顔は猿と訳の分からない構造。

 妖魔の中でも、帝魔ていまと呼ばれるソレは春明に殺意を向けていた。

「坊ちゃん!」
 風間の叫びと共に、春明の横から二体の式神が現れ出でる。
 ぐるぐる、と。
 紙の肢体は帝魔に絡みつき、身柄を拘束する。

「今のうちに後方の階段よりお逃げ下さい!」
 式神で動きを抑えながら、風間は上に向けて必死に叫ぶ。

 だが、彼の声は届かない。
 帝魔の殺意を孕んだ瞳に、少年は恐怖で身体が動かない。

「坊ちゃん!」
 再度声を荒げるも、虚しく終わる。
 身動きが取れない春明の様子に、風間は焦りを露わにさせた。
「何故、帝魔級あんなものがここにいるんだっ」
 ビリビリと破けていく式神に、また新たに式神を出現させる。
 その場しのぎの、時間稼ぎ。
 風間には帝魔のような強力な妖魔を倒せる火力こうげきを持ち合わせていない。
 いかに早く舞台まで辿り着く、それ以外春明を助ける方法は無かった。

「くっそ!」
 手持ちの札はあと僅か。
 けれどもう少しで、舞台の麓まで辿り着く。
 自分の脚力を最大限に奮い立たせ、駆け上る階段に差し掛かろうとした。

 希望が見え始めた、その時。
 ギィァア、と。
 帝魔の雄叫びが全てを打ち壊す。

「なっ!」
 風間の行く手を阻む、妖魔の群れ。
 帝魔は散らばったワニの妖魔たちを統率し壁を気づき上げる。
 一体一体、ワニが重なりそれはまるでハシゴのように。
 積みあがった高さは舞台を越えて、ワニが数体、舞台に這い上がる。

 ビリビリ、バリバリ。
 ワニは帝魔に纏わり付く式神を食いちぎり、残骸が紙吹雪となって舞っていく。
「……」
 もはや、人生みちのりを振り向く間もない。
 叫ぶ風間の声も届かない。
 訪れた虚無の狭間。
 少年は命乞いも、感じる心もない。何もしない。
 ただ、振りかざされる帝魔の爪を、少年はただ見ているしかなかった。

 けれど、
「春明!!」
 一つの声が、少年の魂に響き渡る。

 彼は逃げ出してなどいない。
 大地の加護が宿った刃の武器を構え、少年を守るため舞台の上に降り立った。


Fuckin' baby!僕の友達に触るな!


 見開かれた青い瞳は殺意に満ちあふる。

 やってくる帝魔の爪、そして周りにいたワニ。
 それらを凝視し、一重に断つ。
 ギャア、と響く帝魔の雄叫び。
 霧散するワニの妖魔。

「……シリウス」
 右手を斬られ、もだえ苦しむ帝魔が舞台に響いている。
 異国からやってきた青い目の武者に、春明は目を丸くさせていた。
「……」
 春明の肌で感じる武者の気迫。
 あの楽観的で陽気な彼の態度とは明らかに違っていた。
 刀にべっとりとついた血を振り払い、シリウスは後ろを振り返る。

「春明! 無事!?」
 シリウスは春明に詰め寄り肩をがっしり掴んだ。

「ケガ、ノッシング!?」
「無ぇって、おい無ぇからそんな掴みかかるな! 力強えって!」
「良かったァ! ほんっと、遅くなってゴメン!」

 春明の無事にシリウスは子供のように喜んだ。
 そのまま掴んでいた春明の肩を揺らしてままならない。

「後ろ、後ろ!」
 春明は、喜ぶ彼の背後を見て叫んだ。
 そこには、妖魔は怨恨の籠もった黄色い瞳。
 右の手は斬られ深手を負っているものの、すでに出血の勢いは収まっている。

 ががが、と。
 人の声帯では決して出せない声を上げながら突進してきた。

「春明、あまり喋らないでね」
「おい、ちょっ……!」

 春明の返答を待つ暇は無かった。
 シリウスは、ひょいっと春明の腰に手を回し、軽々と持ち上げる。

「ふざけんなっ、」
 下ろせ、と言う前に彼は顔を上に向ける。
 そこで、言葉が詰まった。

Be quiet.舌、噛むよ?

 青い瞳は、次にやってくる攻撃を見定めていた。
 今、シリウスの邪魔をしてはならない。
 春明は彼の武者としての気迫に、ぐっと唇を結んだ。
「……」
 その間にも、シリウスは帝魔の動きを読み的確に躱していく。
 帝魔の跳躍、長い尾が回転しながら振りかざされる。
 鞭の如く打たれた尾は、そのまま二人の頭上に降り注ぐ。

 乱暴、不規則、無造作。

 横暴に振われるそれらすべての攻撃を、シリウスはすべて見極めていた。
 そして、横に抱えられた春明は、上下が回転する世界に目を回す。

「尾は速いなぁ。これじゃあ、打ち返せても、斬るタイミングが見えない」
 シリウスはもう片方の手で握る愛刀に力を入れ直すも、決定的な攻撃を与える機会を待つしかない。
 息つくことは許されない、容赦の無い決定打。
 その中で、シリウスの耳に取り付けられた無線が通知音を鳴らす。

Hello?もしもし?
 回避する歩みを止めることはなく、素早く無線を繋げる。
『シリウス、聞こえるか』
 落ち着いた男性口調。
 しかし、声色は女性のものだった。
「キャプテン櫂、ドーゾー」
『状況は?』
「トゥーバーッッツ! 最悪ですね、これ!」
『もっと、具体的に、かつ要点言え!』
 無線先の櫂は声を荒げた。
 いつもと変わらない怒った声、にシリウスは安心しながら状況を伝える。

「現在舞殿ステージ上、テムイから妖魔が大量発生、配置された検非違使とミスター風間が観客の避難誘導を進めてくれています」
 風間の名前に櫂は少し驚くも、追及することなかった。
『阿部春明様は?』
「無事です。ちゃんとここに居ます」
 シリウスは激しい動きに目を回している春明を抱え直し、力強く答える。
 櫂も一番重要な人物の無事が分かり安堵をするも、それでも緊迫している状況が続いていると無線越しに雰囲気が充ち満ちる。

『そうか……やはり、そちらもか。いいか、よく聞け。大結界付近に設置されたテムイも同じように妖魔が発生している。原因は不明だ。今、検非違使衆の各部隊に妖魔の討伐および避難誘導を進めている。お前もそこから速く退避し東門に向かえ。避難誘導が完了次第、四門すべて閉鎖されるぞ!』

 聞かされた情報に、シリウスの額に冷や汗が伝った。

「ソーリィー。間に合わないかも」
『なに?』

 避難誘導が完了次第、大結界の四門、即ちすべての出口が封鎖される。
 避難誘導の間に合うか、シリウスの見解が揺らいだ。

「キャプテン櫂、春明のことは絶対守り通します」
『おい、それはどういう……』
「一旦切ります」

 無線を切った瞬間、黒々とした長い尾が迫ってくる。
 だが、ほんの少しだけ速さが衰えていた。
 微々たる体力切れ。

Yeah!そこだ!
 瞬間を見切り、身を躱した刹那、刃が尾を切り刻む。
 肉を斬る感触は、刀身、柄を通してたしかにシリウスの感触に残る。
「……ウップス、かすり傷ぐらいか」
 尾を切断するまでには届かなかった。
 それでも確実なダメージにはなっている。
 帝魔は切られた痛みに怯み、一時後退。
 通った跡には尾から伝う赤い斑点が地面を汚していく。
 シリウスは息を整えながら、帝魔に視線を向ける。
 帝魔の後方、その奥ではワニがまた複数這い上がっていた。

「ミスター風間ァ!!」
 これがベストと判断した時には、すでに彼は行動を起こす
 シリウスの呼び声は、ステージ下にいる風間の耳に充分過ぎるほどに届いた。
「何だ! 検非違使!」
「観客の避難と一緒に、君は先に外に出て!」
 シリウスは風間に指示を出す。
 もちろん、怒りを買うことは想定の上だった。
「ふざけるなぁ! 坊ちゃんを見捨てろと言うのか!」

 春明を置いて先に逃げる。
 それも、つい今日出会ったばかりの検非違使
からの命令。
 風間には耐えがたい屈辱だった。
 彼は意地でも妖魔たちの群れの中に飛び込みステージに向かおうとしている。
 命の危険と主を守る従者のプライド

「……ッ」
 風間の行動を止める言葉が見つからず、シリウスはグッと唇を噛む。
 その傍ら、緋色の髪の少年は眉間の皺を寄せて言い放った。

「風間、お前はそのまま観客を先導して行け!」
 春明の言葉に風間は踏みとどまった。
 だが、それでも納得いかず声を荒げ続ける。

「何故です!? 坊ちゃんを置いては行けません!」
「外にもあんなのがウジャウジャいるんだろ?」
 春明はシリウスに抱えられながらも腕を伸ばし、妖魔の群れの先にいる風間に指を指す。
「いいか、こうなったら観客を出口まで送り届けろ」
 舞台に上がるのは危険だ。
 春明は風間に来て欲しい気持ちをぐっと堪え、指示を出す。
 戦いに慣れていない春明から見ても、ワニに壁をよじ登るなど危険と目に見えて分かっていた。

「……っ」
 先ほど帝魔を拘束した術ですでに式神は使い切ってしまっていた。
 その状態で妖魔が集中している、舞台に近づくことはあまりにも無謀。
 逆に言えば、客席側にいる風間は今なら観客たちと一緒にこの場を離れることが出来る。
 そんなこと、風間自身が一番分かっていた。
 式神を使い切ってしまった自分が向かったとしても、春明にとって重荷にしかならない。

「検非違使!」

 風間は歯を食いしばり、舞台を睨み付ける。
 舞台の上では、青い瞳の検非違使は真っ直ぐに見続けていた。

「坊ちゃんの御身を、任せた」
Of course.承った。

 深々と頭を下げる風間に、シリウスは彼の心からの敬意を表した。

「……生意気な」
 敬礼を取る検非違使に、風間は悪態をつく。
 彼自身、春明にかけたい言葉は山ほどある。
 今すぐにでも、舞台の上から救出したい気持ちは変わらない。
 けれど、主人が観客たちの無事を自分に託している。
 震えながらも真っ直ぐに、春明は風間にを見つめていた。
「……」
 一秒でも早く、主人の命令を遂行せねば。
 その衝動が、風間を駆り立てる。
 検非違使衆と合流するとすぐさま残った観客たちをかき集め、そのまま出口へ去っていった。

「怖くないの?」

 残された彼ら二人。
 シリウスは舞台を出た従者を見届けた春明に問いかける。

「ばっか、こえーに決まっているだろ。オレは検非違使でもびっくり人間でもないんだぞ」
「でも、あんな堂々としていて。こんなに妖魔が集まっている中、検非違使衆の中でもそんな図太い人なかなかいないよ?」
「お前に図太いって言われたくねーよ」

 春明はじろりと目つきを鋭く睨め付けても、シリウスは不思議にそうに見つめるだけ。

「どうして、そこまで頑張れるの?」

 自分の身が危険にさらされる中、観客の安否を徹底させる。
 春明には風間のような式神もシリウスのような剣術も持ち合わせていない。
 けれど、それでもまだこの舞台に立ち続けようとする。
 守るすべがなく命を落とすかもしれない。
 ほかの検非違使も来ない中、誰よりも逃げたいはず。

 そのはず、だが。

「……悔しいから。こんな滅茶苦茶にされて。それじゃ駄目か?」

 震えた唇を噛みしめながら、少年は自信なく言葉を漏らした。
 舞台に立ちたい。
 たった一握りの想いが、春明の全てだった。

「……ッ」

 シリウスはすぐに踵を返す。
 向かう先は後方、ステージを降りる通路を勢いよく駆け下りる。
 後ろから帝魔が追ってくる気配はない。
 シリウスが与えたキズが、帝魔を痛みに怯ませている。

「おい、動くなら一言くらい言え!」
「僕だって悔しいよ!」

 後ろでは、まだふてぶてしく帝魔が鎮座する。
 春明の舞台を横取りした怪物に、シリウスは怒りに震えていた。

「せっかくの斉天祭なのにさ! 本当は楽しい日のはずだよ。春明が頑張る日でもあったはずだ。なのに……なんでこんな奴らに邪魔されなきゃならないんだ!!」
 やりきれない想いがシリウスの駆ける足に力を与える。
 このまま立ち向かって、あの怪物をぶった斬ってやりたい。
「……ッ!」
 けれど、このまま戦っては春明を巻き込みかねない。
 まずは春明を安全な場所に。
 優先するべきことを、青い瞳は違えるはずがない。
 一方で、帝魔は何食わぬ顔で視線を横に逸らす。

 がらがら、と。
 視線の先ではワニが積み重なり、這って舞台をよじ登ろうとしている。
 その上から、帝魔は容赦なく手を突っ込み、ワニを貪り食ら始めた。

「何やってるんだ、アレ……」
 春明はシリウスに抱えられながら、舞台にいる妖魔の行動を目の当たりにする。
 肉食獣であるワニが捕食される奇っ怪な光景。
 その最中、妖魔の尾に変化が訪れる。

 メキメキ、と。
 尾は黒い鱗をまとい、重量は何倍にも増していく。
 振り回される尾は、速さに加え強固な鎧が覆われる。
 当たれば致命傷、刃が通せる余地が無くなった。

「……逃げて正解だった」
 それを見越していたのか、はたまたただの勘か。
 どちらにしても、シリウスは適わない材料を持ち合わせた敵の前に立つことは無かった。

 もうじき舞台を降りる通路の最後。
 ふと、シリウスが視線を落とす。
 そこには、硬く拳を握りしめる少年の姿があった。

「絶対リベンジしよう。その時は聖人としてじゃない、春明が見つけた本当の『斉天』の舞を見せてやるんだ」
 
 向かう先は、スタッフ用に設けられた裏方通路。
 非常事態で通路の電気が所々落ちている。
 薄明かりが並ぶも、遠くの方は暗くてよく見えない。

「当たり前だ。オレを誰だと思っている」
 先の見えない状況。
 だが少年は、煮えたぎる野望を抱きながら笑みを浮かべた。
「……そうこなくっちゃね」
 検非違使は舞師の少年の決意に頷き、一度だけ振り返る。
 帝魔は未だ、食事を続けている。
 追ってくる様子はないと判断すると、シリウスは刀を鞘に収め無線を繋げた。

「キャプテン櫂、キャプテン櫂。こちら、シリウス。応答して下さい」
『……シ、……ウ』
 通信は途切れ、つぎはぎだらけ。
 それでも、シリウスは無線から出る櫂の声に耳を傾ける。
「キャプテン櫂、聞こえますか?」
『……シリ……、無事、か……?』
「これから春明と一緒に舞殿を脱出します。その後は……外の状況次第ですが、妖魔がより少ないルートで大結界側に向かいます」
『そ……くれ、ぐれも……、』
「やだなぁ、そんなに心配ですか? 無事この局面ステージを乗り越える。僕にとっては、どうってこと無いですよ」
 聞き慣れた陽気な口調。
 櫂は途切れ途切れの無線の中でも、シリウスの明るさにため息を漏らした。

『は……、お前は、いつも、勝手気ままな……、』
 その瞬間。
 ガシャン、と。
 巨大な破壊音が、櫂の無線を遮った。

大尉キャプテン! 応答を!」
『……、くっそ、多い……な……』
 一瞬、櫂の音声を捕らえた。
 だがすぐにノイズの嵐に飲まれ、その後無線から櫂の声が聞こえることはなかった。

「おい、何かあったのか?」
 声を荒げるシリウスの反応に、春明は眉間に皺を寄せる。
 シリウスは動揺する自分を正すように春明を担ぎ直した。
「大丈夫、春明のことは僕が責任を持って護衛するから安心して」
「……けど、間に合わないってさっき言ったよな。あれどういう意味だ?」

 下から春明の視線の圧を感じる。
 シリウスは少し考え込み、伝える言葉を選びながらやがて口に出した。

「観客の誘導が完了次第、妖魔が外に出ないようにするため大結界を一時閉鎖するみたい」
「じゃあ、速く行かねえと」
「それだけどね、春明。今、走っている道順ルート。スーパー遠回りなんだ」
「あ!?」

 シリウスの言葉に春明は思わず怪訝な様子で声を上げる。
 理由もなく遠回しのルートを選択された、と。
 苛立つ春明にシリウスは補足していく。

「このままずっと走ると、ロビーを横断して、出口に向かう流れになってくる。けどこの通路、結構長くてね。さっきのVIPフロアから走って舞台に来るまで大分かかっちゃったんだ。本当に遅れてゴメン」
「……間に合ったんだからそれでいい。けど、なんでわざわざ遠回りしなきゃならない」
「あのままあそこを無理して突破したら、勝ち目が無かったからね。あの化け物妖魔、最後に周りの妖魔を食べて尻尾が硬質化していた。あの速さの上、硬さが加わったら、千鳥ちどりだけで太刀打ちは難しい。それに周りのワニが全部僕らの方を見ていた。絶対に悪戦苦闘していたし、運良く突破出来ても時間オーバー。ボロ雑巾になりながら、大結界の中で取り残されていたよ」
「千鳥って、その刀のことか?」

 春明は金箔の装飾が施された白い拵えを見つめる。

「そうだよ。雷切千鳥らいきりちどり、僕の自慢の相棒さ。だから、無駄に突貫して折るわけにはいかなかったし、それよりも春明を何としてでも危ない場所から遠ざけたかった」
「……」
「僕、強めのこと言ってる割に、やってることは格好良くないんだ」
「いや……、」

 舞台を去る直前に見た、帝魔が妖魔を捕食する光景。

 あんなところを、無理に走って命を落とすことの方が、よっぽど嫌に決まっている。
 近道であっても走り抜けることをせず、現状を見極め遠回りであっても最善のルートを見つけ出す。
 シリウスの判断に、やっと春明も納得がついた。

「お前の言い分は分かった。けどよ、大結界の門が封鎖されたら、どの道行く場所無くて危険なことには変わりないじゃねーか」
 舞殿の外も危険なことに変わりない。
 どの道、自分たちが妖魔に襲われてしまう結果が待ち受けているに違いない。
 だが、春明の考えとは反してシリウスは得意げな表情を浮かべた。
「そこは安心して、考えがある」
「なんだよ、考えって」
「まずは東門に向かう。けど、もし門が閉まっていていたら鬼門に行こう」
「鬼門って、大結界の中枢の場所か」

 大結界には東門と北門の間に、鬼門と呼ばれる場所がある。
 そこは門と呼ばれてはいるものの、外と内で出入りをする扉は存在しない。
 北、南、東、西、それら四門の中枢を担い、霊力の配分、配線を巡らせる司令塔に当たる。
 そして、鬼門の場所ならではの特色をシリウスは把握していた。

「鬼門って、担当する結界整備師の実力が凄ければ凄いほど、妖魔を寄せ付けないみたいだよ。あ、これキャプテン櫂の受け売り。春明、知ってた?」
 いや、知らねぇよと。
 妙に得意げになるシリウスに春明は別の意味で苛立つが、黙って話しを聞き続ける。
「鬼門に入れればいいけど……多分無理かな、鍵かかってるかもしれないし。でも、近くにいるだけでも安全だから救助が来るまでじっと待つ……が、僕の考え。すぐにキャプテン櫂が隊を編成し直して来るはず」
「……、そうかよ……」

 シリウスの案を聞いた春明は、黙って眉間に皺を寄せていた。
 タタタ、と。
 薄暗い通路にシリウスの走る足音だけが響き渡る。

「春明、やっぱりこんな不安な思いさせてゴメン」
 沈黙に耐えきれず、シリウスが謝罪を口に出す。
 少年は変わらず厳しく彼を睨むも、首を横に振り否定を露わにさせる。

「お前が本気ガチで考えた最善策なんだろ。だったら、オレも我慢する」
「春明……」
「だから、そんな情けない顔するな」
「……うん、分かった」

 一八〇センチを越える大きな背丈が、情けなく丸まっていく。
 そんな彼の背中を思いっきり、

「ほら、さっさと行け」
 バシン、と。
 大きく一発、少年は叩く。
「痛った! なんで、今叩いたの!」
「ほら、ペース落ちているぞ。走れ、走れ!」
「あだだ、春明、乱暴!」

 馬の手綱を振うような感覚で。
 春明は担がれながらシリウスの背中を叩き続ける。
 まるで、励ますように。
 自分を護衛する者を信じ、道筋を彼に託した。

「……ッ」

 そして、叩かれ続けながら。
 彼の意志に応えようと青い瞳に光りを宿す。
 彼ら二人は、長い長い通路の先にある最善の可能性に近づいていた。
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