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26 これは単なる横領事件ではない

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 会社の帰り、週末にできなかった日常の買い物をするために、ケンジントンのスーパーに寄った。

 日用品を買い、夕飯にテイクアウトのパスタと野菜と魚介のマリネを買った。

 歩道脇に停めておいたZ4の助手席に買った物の袋をドサッと置き、運転席に乗り込むと、胸ポケットのブラックベリーの電話が鳴った。

 会社からの電話だった。

 二十階の連中なら番号が登録されているので名前が出る。

 登録していない内線番号だった。

「キャンベルです」

 数秒間、間があった。息をつくような音が聞こえた。

「あの、私です」

「ハル?」腕時計が九時近くを指していた。

「まだ会社にいるの?」

「私、大変な事を……」

「どこからかけてるの?」ホークはドアをロックしシートベルトを締めた。

「人事部の会議室です」例の小部屋のことらしかった。

「残業してるの?」

「いえ、そうじゃなくて。フィッシャーさんのファイルを、皆が帰った後に見ようと思って……」

「それで遅くなったんだ。僕のせいで悪かったね」

「いいえ。でも私、大変な間違いをしてしまったんです」

 スタートボタンを押してエンジンをかけ、ステアリングに手を置いた。

「間違い?」

「フィッシャーさんは、最初から生命保険に加入しない方を選んでいたんです」

 ホークが「異議なし」にサインしたあの書類。ロニーは「異議あり」にサインしたのか。

「フィッシャーさんは、保険に入らないって意思表示をしていたんです。だから加入していませんでした。なのに、間違って支払い請求を出してしまって……」

 ホークは反対車線の混み具合に目をやった。

 帰宅ラッシュは過ぎているが、夜のこの時間、決してすいているとは言えない。

 シティまで、下手すると三十分近くかかるかもしれない。

「ハル、落ち着いて。間違って支払い請求したって、加入していない人物の保険金が支払われることはないよ。保険会社は馬鹿じゃない」

「え……」

「だから、ロニーは生命保険に間違って加入させられていたんだ。君に支払い請求をしろと命じたのは誰なんだ」

「それは自動的に……毎月入社・退職者連絡を送る時に、死亡した社員としてリストに載せたんです。そしたら支払い請求書類が送られてきて……」

 ロニーが加入者だったからだ。

「ハル、そこまだ誰か他にいるの?」

「いいえ、もう人事部は私が最後です」

「夕飯は?」

「まだ……」

「ロニーのファイルを持って正面玄関に出ていてくれ。十五分で迎えに行く」

「え、個人ファイルは持ち出し禁止です!」

「いいから今日だけ持ってきてくれ」電話を切ると同時に発進した。

 シティの社屋はどこもそうだが、オフィスが停電する時でもない限り、誰もいなくなることはまずない。

 どこの証券会社にも、終業することのない部署がいくつかある。

 慢性的に二十四時間稼働している投資銀行本部とか、二十四時間体制でローテーションを組んでいる為替デスクとか。

 十七分後、社屋の正面玄関に到着した。

 ハザードランプを点けて外へ出ると、紙袋を下げたハルが柱の陰の暗がりから顔を出した。

「乗ってくれ、ハル」助手席のドアを開ける。

 パスタは捨てることになりそうだ。買い物の袋はトランクに入れた。

「あの、どこへ……」走り出すとハルが訊いた。

 ファイルの入った紙袋は足元に置かれている。

 スカートの裾から、骨ばった膝小僧が顔を出している。

「どこへでも。家まで送るよ」

 顔を見ると不安そうな感じだ。

「その前に、何か食べよう」

 ハルが友達とシェアして借りている部屋は、地下鉄のハマースミス駅の近くだと言う。

 ホークのフラットのあるベイズウォーターを通り越して西へ向かう方向だ。

 ケンジントンまで来て、夜でも明るいテラスがあるトラットリアに二人で入った。

 木製の正方形のテーブルに、赤と白のチェックのテーブルクロス。椅子も木製、床はテラコッタだ。

 小さなキャンドルがどの席にも灯っている。

 数組の客がいたので、窓際の、どの席からも離れたテーブルにした。

「結局、受け取り人は誰なんだ?」

 グラスにピッチャーの水を注いで飲むと、ホークはハルが持ってきたファイルを開いた。

 パラパラと閉じられている様々な書類をめくるが、生命保険に関するものは見つからない。

「それはたぶん、生命保険関係のファイルの方に入っているのだと思います」

「ハル、君、エディの所へ来たよね。受け取り人は誰になっていたの?」

「確か……NPOの代表の人の口座でした」

 とすると “ヤドリギの会” そのものではないのか。

「施設自体の口座ではなかったの?」

「……個人名でした。私、なんでNPOの人だと思ったんだっけ……」

 ウェイターがパンを持ってきて、手早く赤い紙ナプキンに包まれたカトラリーを置いて行った。

「ハル、君は誰からロニーの生命保険の受け取り人が施設になったって聞いたんだ?」

 ロニーの個人ファイルは水色の紙ばさみで、殆ど厚みがない。

 簡単に輪ゴムで綴じてあるだけの簡易ファイルだ。

 履歴書、健康診断書、英国での就労ビザのコピー、パスポートのコピー、大学の卒業証明書、バックグラウンド・チェックの報告書、雇用契約書、誓約書、業績賞与の通知書、自社株の残高証明書……。

「聞いたんじゃなくて、封筒に入っていた手紙と言うか、メモです。保険会社からの……」

 しかし、そのメモと封筒はロニーのファイルに入っていない。

 誰がその変更を保険会社に伝えたんだ?

「ハル、君はロニーの件をどこからどこまで担当した?」

「入社された時は私はまだ東京にいましたから、途中から……退職、いえ、亡くなるまでです」

「君の前は?」

「マーガレットです」

「生命保険は?」

「加入・脱退の連絡は福利厚生の係がやります」

 ウェイターが、ハルのサーモン・クリームパスタを持ってきた。

 飲み物は水でいいと言ったが、ホークがハルのためにサングリアを頼んだ。

「それに、個人的な変更依頼は、社員が自分で福利厚生のメールボックスに依頼するんです。たぶんフィッシャーさんも自分で」

 本人が自分のメールアカウントから変更依頼を出さないと、何事も人事部では受け付けないという。

「本当に本人が依頼したのかな」ホークは白身魚の香草焼きにレモンを絞ってかける。

「他人がやることはできる?」

「パスワードを知っていれば、できますけど……あと、人事部の係りはマスター・ユーザーなので、誰のアカウントにも入れます」

 ホークが目を上げた。

「でもそれは社内規則違反です」

「君はマスター・ユーザーじゃないの?」

 ハルは「いいえ」と首を振った。じゃあ誰が? と訊くと、

「福利厚生係りは全員です。あと人事部長と」

 コーヒーを飲みながら、ホークは再びファイルを開いた。

「これ、なんだかわかる?」

 業績賞与通知書の後ろに貼り付けてある一枚の紙に、細かい数字が列になって並んでいる。

 年号と金額らしきものだということはわかる。

「ストック・プランの残高証明書です。

 フィッシャーさんの賞与は金額が大きくて、一度に全部支払われませんでした。

 賞与の一部を、自社株を買う権利と、繰り延べキャッシュに組み入れられたので、

 将来の支払予定と取得する権利のある株数、だと思います」

 向こう三年間、まだ行使されていない株の権利と賞与の一部として繰り延べされたキャッシュの支払いがある。

 二〇一三年三月十八日、二〇一四年三月、二〇一五年三月。

「株を取得する権利だなんて、会社の株が暴落したらどうなるんだ」

「その時の時価ですから、それはなんとも……」

「ひどい話だな」

「キャッシュはそのままの金額ですけど、ただ支払日までに会社を辞めるとか、既に辞めているとかすると、権利がなくなります」

「払われないの?」

「はい」ハルが頷く。

「ひでえな。転職する方が多いんだから、殆ど失うだろう」

「でも、キャンベルさんもあったじゃないですか、買い取りが」

 え? とホークは目を上げた。しまった、つい、自分の金じゃないから忘れていた。

「ああ……前の会社の分ね」

 転職する者は、前の会社の繰り延べされた賞与のうち、権利を失う予定の分を、転職先に保証してもらう交渉をすることが多い。

 入社する前から、次の会社で出る賞与の金額が一部決まっているのだ。

「ロニーの分はどうなるんだ」

「フィッシャーさんの場合は……支払われます」

「なに?」

 金額にして、向こう三年間でキャッシュだけでも十万ポンド以上ある。株を全部現金化したらその倍以上になりそうだ。

「いつ支払われるんだ」

「その期日通りです。権利失効していないので」

「死んでいるんだぞ」

「でも、遺族に……」

 二人は、はたと目を合わせた。どこに払うんだ?

 一番近い支払いは二〇一三年三月だった。それまでに、支払口座と受け取り人の現住所、存命などを確認するはずだ。

「ハル、来年三月の支払いも、たぶん生命保険と同じ受け取り人に払われるはずだ。それが誰か調べるんだ」

「でも、受取人の住所の確認は、信託先から直接やっているんです。住所変更手続きなんかも本人からの申し出しか、受け付けません」

「だったら尚更、信託先に誰が申し出たのか知りたくないか」

 ハルはじーっとホークの目を見た。

「……わかったら、警察に言うんですか」

「女王陛下の臣民の、はしくれだからね」

「もしかしてこれって」ハルは赤白のチェックのテーブルクロスに目を落とした。

「内部告発ですよね。それだと窓口は人事部長だったような……」

「だめだ。人事部内に犯人がいるかもしれない。もっと証拠を固めてからだ」

「私たちでやるんですか?」目を上げた。大きな黒い目だ。光によってはヘーゼルかもしれない。

「そう、君と僕で」ホークはブラウスの上からハルの細い腕に手を乗せた。

「大丈夫だよ。君は僕が言う通りに動けばいい」

 行こう、とハルを促した。明日の朝も早い。

「このファイル、一晩貸してくれ。明日必ず返す」

 ハマースミスに着く頃は十二時近かった。

 人通りのない煉瓦塀の続く、あまり治安のよさそうでない町並みだった。

 街灯に照らされていてもなんとなく暗い。

 古い舗装の歩道に寄せてZ4を停めた。

 ホーリー・クレッセントという名の一角で、いくつか並んでいる古そうなアパートメントの一つにハルの部屋がある。

「本当は絶対にいけないんです。個人ファイルは本人にも見せないんです」車を降りる前にハルが言った。

「わかってるよ」ホークは微笑した。

 ドアを開けかけて、あの、とまた言った。

「キャンベルさんの法定相続人の相続放棄、手続きとか、やるんですか?」

 すっかり忘れていた。

 そう言えば昼、その用事でハルを呼んだのだった。

 法定相続人がいる場合は相続放棄の書類が必要で、受け取り人の変更はそのあとできるという。

「いやー、無理だな。あのがめつい養父母が相続を放棄するとも思えない。僕が死んで金がもらえたら、大喜びだろう。それに僕、死ぬ予定ないし」

 

 自分のフラットに帰ると、ロニーのファイルの中身を全部スキャンしてカルロに送った。

 これは単なる横領事件ではない、とホークの勘が告げていた。

 横領されたのが、米国歳入庁特別捜査官ロニー・フィッシャーの生命保険だったからだ。

 翌日、ファイルはパメラの名前を使って社内便でハル宛てに送った。
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