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25 ロニーはどこに寄付すると書いたんだ?

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 中国関連の商品をロマネスクに買わせる件をカルロに知らせた。

「うまく乗って来るといいが」

 損失があっても他の取引があるので十分取り返せる範囲だ、と付け加えておいた。

「例の三十一万ポンドだが、施設を経営するNPOには振り込まれていないぞ」カルロが言った。

「振り込まれていないって、どういうことだ?」

「その施設の口座には振り込まれていない」

「確か、『ヤドリギの会』っていう団体だったよな。全米の支部の口座全部調べたのか」

「当たり前だ。とにかくその団体には渡っていない。別の慈善団体なんじゃないのか」

「保険会社からは支払われたのか?」

「保険会社側の支払い指示までは調べていない。単に振込先が違ったんだろう。ロニーはどこに寄付すると書いたんだ?」

 ハルは何と言っていた?

「アメリカのNPO」

 カルロが鼻で笑った。

「名称はなんだ? そもそも保険会社の審査は厳正だぞ。不正な支払いの可能性は低い」

 ハルに訊かないとわからない。

「カルロ、この作戦では、LB証券からもらう一切の報酬は、捜査局指定の口座に振り込まれるように届けることになっていたよな」

「その通りだ」

「だったら、ロニーが保険金の受取人として施設を指定するはずないと思わないか」

「ふむ……。すると誰かが改竄かいざんしたか」

「とりあえず調べてみるよ」


 ロニーの生命保険。

 受け取り人を改竄できるのは誰だ。

 入社関連書類の中にあった一枚の紙を思い出そうとしていた。

 ろくに内容を読まなかったが、異議あるかどうかという質問で、ない、とサインしたことを覚えている。

 しかし、支払先など書く場所があっただろうか?

 ホークはデスクフォンで人事部に電話した。

「ハル?」

「あ、あの……」ハルの声は小さかった。

「私、担当替わったんです」

「え、なに? 聞こえないよ」

 マーケットが始まったので本当に周囲がうるさい。

 おまけにクライアント・ラインの登録番号1から4まで、同時に点滅している。

「今日、ランチに行こう。十一時二十分に一階で待ち合わせ、いいね?」それだけ言って切った。

 十一時二十分にホークが一階に降りた時、まだハルは来ていなかった。

 受付の電話を借りてハルの席にかけた。

 ここの受付は、九時から五時までは派遣の受付嬢だ。

 今日はボーイッシュな金髪のショートヘアで、睫毛のエクステンションが蝶の触角くらい長かった。

「ハル?」

「どなた?」

 まず自分が誰か言ったらどうだ。

「ハルはいますか? 営業のキャンベルです」

「ハルは今席を立っております」

 声の調子で、いつだったか人事部の入り口で立ちはだかった太り気味の女だ、とわかった。

「ハルと話したいんだけど」

「かけ直すようにいいましょうか?」

 ホークは腕時計を見た。既に十一時二十五分。待っていられるか。

「そっちに行くよ」ホークが電話を置こうとすると、

「あ、今戻りました」電話が転送されて、ハルが出た。

「あのすみません、私遅番になったので、この時間にはランチ行けないんです。それに担当も替わって、今度バックオフィスの方の……」

「頼むから一階に来てくれないか、今すぐ。十分でいい」返事を待たずに切った。

 受付嬢にはにっこり笑って「サンキュー」と言っておいた。

 ハルは、エレベーターから降りる大勢の乗客の後ろから、小走りで出てきた。

「あの、キャンベルさん、私……」

 ホークは彼女の長袖ブラウスの袖から出た華奢な白い手を握って、ぐいと引っ張った。

「行こう」

「あの、私お財布持ってません……」

 九月のよく晴れた昼だったが、空気はひんやりしていた。

 ハルの手を引いたまま細い裏道を通って行く。

 歩道が狭いので、他の通行人とすれ違うたびに、壁に張り付くように立ち止まらなければならない。

 時々意地悪な風が吹き抜けて、道端のゴミを吹き付けると同時に、ハルの短いフレアスカートを巻き上げた。

 交差するアーケードを横切り、古い煉瓦の壁が尽きると、ちょうどビルとビルの狭間に出た。

 狭い四角いスペースがちょっとした広場になっている。

 中心の花壇の周囲にベンチがいくつかある。

 花束を売る屋台と軽食を売るバンが駐車している。

 ベンチの一つには、犬を繋いだまま新聞を読んでいる、白髪の男性が座っていた。

 軽食屋のバンでホットコーヒーとベーグルサンドを二人分包んでもらい、一つをハルに渡した。

「僕は今食べるよ」

 ハルは寒そうに両手でコーヒーのカップを持ち、ありがとうございます、と言った。

 ホークはシャツ一枚でもなんともないが、ハルは上着なしでは風が冷たかったようだ。

「どうして担当替えになったの?」

「……ただの、ローテーションです」

「で、君がバックオフィスの担当? 二十階は誰が担当になったの?」

「マーガレットです」

 それは、例の眼鏡をかけた太り気味の女だ。

 ホークは腕を伸ばしてハルの肩を抱き寄せようとした。

「え?」ビクッと振り向いた。

「寒そうだから。もっと近寄れば」急いでベーグルを食べる。

 ハルが振りほどかないので、そっちの腕はそのままにしておいた。

「本当は、二十階から文句を言われたんだろう」ベーグルの最後の一口を食べ終わった。ハルが無言で顔だけこっちに向けている。

「余計なことする奴がいるよな」

「あの、でも、ローテーションは普通で……」

「あのさ、僕入社の時、生命保険の何かにサインしたっけ?」

 ハルは目を見開いた。

「しましたよ。ちゃんとチェックしました」

「受け取り人、誰にしたかな」

「普通、何も書かなければ法定相続人です」

「何も書かなかったんだ」

「普通、書きませんけど」

「じゃ、他の人に変えられるの?」

 ハルはまじまじとホークを見た。

「誰にするんですか?」

 ホークは唇で微笑んだ。

「婚約者」

「できるかどうか、訊いてみないと……」

 ハルがコーヒーのカップをくるりと持ち替えた。

「調べてくれる?」

「はい……」ハルは頷いたが、心もとなさそうだった。

「たぶん、色々な書類が必要になるかもしれません」

 ホークは飲み終わったコーヒーのカップの中にベーグルの包み紙を丸めて入れた。

「僕、親兄弟はいないから。法定相続人は養父母だけど、もう十年以上顔も見ていない。それより一番親しい婚約者の方が、リーズナブルだと思うから」

「保険会社に問い合わせて訊いてみますけど、私担当じゃないから……」

 ホークは立って花束の屋台の側のゴミ箱にカップを捨てに行った。

 白髪の男性の脚元に黒いフレンチ・ブルドッグがおとなしく座っている。

 尻尾を振りながらホークを見ていた。

 ベンチに戻り、またハルの肩を抱いた。

「担当者じゃなきゃいけないの?」

 心もとない顔をしている。

「訊かなくても似たような例があるじゃないか。そいつのファイルを見てみなよ」

 ハルは顔を上げた。

「フィッシャーさんですか」

「ロニーと僕って、似てると思わない? 親がいなくて途中まで施設で育ったとか」

 ホークの偽装の身分はそうなっており、養父母は南イングランド在住と記録されている。

「フィッシャーさんの件を聞いて、受取人を変更しようと思ったんですか」

「君が教えてくれたから」

 ホークがベンチから立ち上がると、さっきからずっとこっちを見ていたフレンチ・ブルドッグが、タッタッタッとリードいっぱいまで近寄ってきた。

 飼い主の男性が気づいて、新聞をよけ、リードを引き戻そうとする。

「かわいいですね」

 ホークはしゃがんで犬の顎の下をくすぐった。

 犬が立ち上がって前足を出す。拳を丸めて鼻先で「つかまえてごらん」とからかった。

「犬が好きなんだね」と飼い主の男性が笑う。

 犬は何度も跳び上がった。前足がホークの手を引っ掻いたところでやめにした。

「犬の方もキャンベルさんが好きみたい」ハルが言った。

 手の甲に赤く筋がついていた。

「動物と子供にもてるんだ」

 ハルが笑っている。さっきまでとは違うリラックスした感じだった。

「婚約者って、どういう人なんですか?」

「幼なじみ。実は養父母の家では兄妹だったんだけどね」

 ふうーん、とハルは言った。幼なじみ……。

「君の家族は?」

「大学生の妹と両親がいます」

「好きな人は?」

 ハルが笑った。

「いないです……」

「妹は彼氏いる?」

 ハルは笑って取り合わなかった。

 十二時十分頃二十階の席に戻ると、離席中の電話を取ったメモを持って、パメラがやってきた。

「ありがとう」

「どうしたの、それ?」とパメラが言った。

 パメラがホークの手を見ていた。

「ああこれ、さっき犬と遊んでたら、引っ掻かれて」

「犬? 外に出たの?」

 思いがけずパメラの声が大きかったので、ホークは振り向いた。

 目の高さに深いVネックから見える胸の谷間があった。

 隣のイーサンがしきりにサインを送っている。

 なんだ? 何か食べるジェスチャーをしている。

 まさか……

 スクリーンの端に、アウトルックの “予定のアラーム” が出ていた。

 カレンダー上に何か予定があると十五分前に自動的に知らせる仕組みだ。

 目の端でそれを見ると『ランチ・キングス・アームス、パメラ』と出ていた。

「ごめん、本当にごめん、忘れたって言うか、いや忘れてないんだけど、何かその前に、何かあって、つい……」

 マスカラびっしりの目蓋が半分閉じて、ホークを見下ろしている。

「本当に悪かった、おれが悪い。明日、行こう」

「明日は、予定入っているの」

「じゃ、いつでも君の都合がいい時」

「うん、じゃあまあ、どこか空いてる日があったら、入れとくわ」

 パメラはそう言って、くるりと向こうを向いた。ミニスカートの丸い尻が遠ざかって行く。

 思わずネクタイを緩めたホークを見て、左右のイーサンとアダムが笑っていた。
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