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第6章

39 特異なポジション ② ⚠

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 ややあって、凌遅がキッチンから戻ってきた。片手にはティーカップ、負傷した方の脇には牛乳パックを挟んでいる。

 彼は湯気の立つ紅茶を紙袋のそばに置き、

「これ、ヴィネのだろう。可愛がっていた君が消費すれば、彼女も少しは浮かばれるんじゃないか」と言った。

 相変わらず、デリカシーのない男だ。だが、先のショックに比べたらどうということはなく、特に怒りも湧かなかった。

「なんで、こんなことになるの……」

 私のつぶやきに、凌遅が足を止める。

「理由がわからない……」

「彼女、別れ際に、君に関する情報を調べると言っていたよな」 

 凌遅はパソコンチェアに腰を下ろすと、牛乳をテーブルの上に置き、私の足元の紙袋に目を遣る。

「おそらく、その時に見るべきでないデータを見た。それがベルフェゴールにバレ、間接的に口を塞がれた。あるいは……」

「何ですか」

 先を促すが、凌遅は少し考えて頭を振った。

 私は拳を握り締める。猫のリングが皮膚に食い込んだ。

「ますますせない。なんで、私のデータなんかが……」

 すると、凌遅が平淡な声でく。

「君は、自分のHNハンドルネームについて考えたことがあるか」

 どういう意味か問うと、彼は順を追って説明しだした。

 もともと処刑人は、HNを自ら選ぶのが習わしだという。本部が用意した「処刑具・拷問具の一覧票」から、自分の特性や嗜好、能力に合ったものをチョイスするのだそうだ。

 過去に一度、バエルが命名することにしたところ、適性のないものを宛がわれた処刑人の士気が明らかに下がったため、以降は選択制を取っている。
 大抵は早い者勝ちだが、何らかの事情で決められない場合や、自分に合うものが見つからない場合のみ、本部の人間が割り当てることになっているらしい。

「その本部構成員のHNは、未だにバエルが決めている。彼らはHNの好みと意欲の向上が直結しない連中だからな。ちなみに彼は、気に入った会員には、自分のHNに関連した名前を与えることにしているようだ。例えばベルフェゴール、ベリト、ベルゼビュート、ベリアルといった具合にな。これらはすべて“バアル(バエル)”から派生した悪魔達だ」

「それが、私と関係あるんですか」

「ああ」

 凌遅はパソコン画面にLR×Dのウェブサイトを表示し、いつぞや私に見せたことのある“会員名簿”をクリックする。

「もちろん処刑人の中にも、彼のお気に入りはいる。だが、さっき言ったように処刑人のHNはそれぞれが決めることになっているし、そもそも処刑具や拷問具由来だから、派生する悪魔の名を当てるわけにはいかない。従って彼のHNに関連した名を持てる処刑人は限られてくる」

 凌遅は“会員名簿”をスクロールしながら話を続ける。

「自分でHNを決められない奴はまれで、バエルが目をかける処刑人も多くない。そういう特殊な相手に命名する時、彼は苦し紛れに自分の名から一文字取って当てている」

「それって……」

「そうだ」

 凌遅が検索窓に“B”の文字を打ち込むと、ファラリスの雄牛(Brazen Bull)、ブレスト・リッパー(Breast Ripper)、車裂き(Breaking Wheel)など、多言語表記のいずれかの語頭ごとうに“B”が使われるHNがヒットした。だが――

「――現在、100名あまり存在する処刑人の中で、「Ba」の音を冠する者は君だけだ、バーデン・バーデンの処女」

 冷たい汗がこめかみを伝う。

「何が言いたいんですか」

 彼は真っ直ぐに私を見つめ、「君は、それだけ特異なポジションにいるってことだよ」と言った。

 わけがわからない。何故そうなるのか見当もつかない。
 私は何の変哲もない女子高生で、LR×Dのような組織に目を付けられる覚えはない。

 ふと考える。これまではどうして自分がこんな目に遭うのか、バエルとやらの目的は何なのかという視点でしか状況を捉えられず、思考の袋小路に入り込んでいた。
 しかし、“私を特別視する可能性のある人物”に焦点を絞って考えれば、バエルの正体も見えてくるのではないだろうか。

 手始めに、凌遅と遭遇する前までの時点で、私とある程度の関わりがあった人間をひたすらピックアップしてみる。
 まずは両親、祖父母、叔父。生家の近隣住民、引っ越し先の隣人。世話になった教師陣、友人、クラスメート、衝突のあった同級生とその家族。行きつけのスーパーの店員やかかりつけ医等々。そこから、故人と20年前に生まれていなかった者や、幼かったであろう者を除外していく。そうすれば……。

 ダメだ。交友関係が狭い自覚があったから、あわよくば絞り込めないかと思ったのだが、これまで接触のあった人間すべてを覚えているわけではない。自分が認識していなくても、相手から一方的に興味を持たれていたとしたら、そんな相手に辿り着く術はない。そして、疑えば疑うほど誰もが胡散うさんらしく見えてくる。

 その時、ふとある記憶が蘇った。母が亡くなる1年くらい前、月に一度ほどの頻度で夜間にうちを訪ねて来ていた“誰か”がいた。
 その人物は決まって私がベッドに入った後に我が家を訪れ、両親と会話をしていた。夢うつつの中、ドア越しに声を聞いただけだったので内容まではわからないが、おそらく男性で両親が親しげに接していた印象がある。
 訪問に気づかなくても、翌朝ベランダ付近に特有のタバコのにおいがかすかに残っていて、ああ、昨夜来ていたのだなと察知できるまでになっていた。

 怪しいと思えなくもないが、普通に考えれば父の会社の人間であろう。第一、私とは顔すら合わせていないので、興味を持つ可能性は低いか……。

 徒労感に苛まれつつ姿勢を変えようとしたら、傷ついた肋骨が悲鳴を上げた。思わずかばうように手をやる。すると不意に、服の前立てに挟んでいたピンが手首に触れた。

 私は改めてそれをる。美しい漆黒のピンだ。
 だが、妙な既視感がある気がした。これを見たのはもらった時が初めてだったはずなのに、懐かしさを覚える。

 少しして、理由に気づいた。このピンのデザインが、に似ていたからだ。

 小学5年の誕生日に、父があつらえてくれたペンだった。子供ながらに良いものだとわかり、どうしたのかと問うと、

「ボーナスが出たから奮発した。お前ももう、一生ものの筆記具を持って良い頃だから」と返され、少し背筋が伸びる思いがした。

 正直なところ、真っ黒いボディが渋過ぎて、最初はあまり気に入らなかった。とは言え、父のセンスを否定するのははばかられたし、母も以前、同じメーカーのペンを贈られていたと聞き、ひとまず「お揃い」として受け入れた。
 使い始めるとすぐにその魅力がわかり、手入れをしながら大切にし続けていた。

 凌遅に処分されてしまうまで、あのペンは私の宝であり、誇りの一つだった。

「…………」

 まさか、と思う。もし“そう”なら、私の決意や覚悟は根底から覆されることになる。
 しかし、可能性がないわけではなかった。何故なら、私が自宅のリビングで見たのはバラバラにされた人体のパーツで、それが父であったという確証はないのだ。

 あの父がそんなおぞましい存在であるはずがないという感情論を無視して考えれば、いろいろと辻褄が合う気がする。ピンを持つ指先が震えるのを感じた。

 おそるおそる顔を上げると、牛乳パックを傾けていた凌遅と目が合う。

 落ち着け……。

 私はピンを前立てに戻し、じっと思考を巡らせる。

 凌遅の話を総合すると、、バエルの指示で私の素質を確かめるために我が家を訪れた彼は、事前に何らかの契約を交わしていたらしい父より“上がっていい、部屋を好きに飾ってくれて構わない”と言われ、玄関から堂々と上がり込んだ。

 ビニールシートを敷くなど事前準備をしている間に父の姿が見えなくなり、気づいたらバスルームで死んでいた。そこでそのまま血抜きに移り、“素材”として解体した。

 作業の途中に帰宅した私と出くわし、勧誘。それから拉致する形でこのマンションに連れ込み、“彼女には見込みがある”とバエルに報告。教育係兼相棒を拝命して現在に至る――という流れだったと思われる。

 しかし、もし父がバエルなら、この状況は成立しない。

 私が覚えている限り、凌遅はこれまで一度も嘘を吐いたことはない。今度もそうだとは言い切れないが、十中八九“そう”なのだろう。だとしたら、やはり父は死んでいるという公算が大きい。

 私は微かに息を吐く。たとえ受け入れがたい真実を知ることになったとしても、生きている望みがあるのならその方がマシだと思ったのだが、私の希望的観測は父をいたずらはずかしめただけだった。悲しさとわずかな安堵で、心がヒリヒリする。

 とは言え、嘱託しょくたく殺人を望んだのでないのなら、父は何のために凌遅を呼んだのだろう。せめてそれだけはきちんと知っておきたかった。
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