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しおりを挟む「でもいつも梨香さんが隣にいて、王子様に話しかけるチャンスもないんですよ。自分の娘を千賀観さんのサポート役に付けて、それ以外の社員は男性ばかりって、社長の魂胆見え見えです。千賀観さんが梨香さんを気に入るように仕向けて、自分の娘を玉の輿に……って思ってるんですよ」
「まさか。社長には、社長なりの考えがあるんじゃない」
杏奈の意見に、つい頬が引き攣る。
社員の前で平助がその思惑を口にすることはさすがにないが、身内の瑞穂にははっきりとそれを口にしていた。
平助としては、娘の梨香がセンガホールディングス創業者一族と姻戚関係になることで、自身の生活も、リーフブルワリーの経営も安泰になると考えているらしい。
「ズルイなぁ……私だってそこそこ可愛いし、仕事だって梨香さんよりできるから、王子様と一緒に仕事すれば、チャンスがあると思うんですよ」
唇を尖らせて愚痴る杏奈は、確かに女性としての愛らしさがある。
恋愛に興味のない瑞穂としては、誰が王子様こと慶斗のサポート役に就こうがどうでもいいが、お伽噺のような恋愛に憧れている杏奈には重要な問題らしい。
――みんな、会社になにしに来てるのよ……
「とりあえず業務中は、仕事を頑張りなさい。そうしたら仕事の神様が、ご褒美に宮下のためだけの王子様に巡り会わせてくれるわよ」
冗談まじりにそう励ますと、彼女は大袈裟に目を見開く。
「それは間違いなく嘘ですね」
「……?」
瑞穂の意見を即座に全否定した杏奈は、からかいの表情を浮かべて言う。
「だって、仕事を頑張っていれば素敵な王子様に出会えるなら、先輩はとっくに最上級の王子様と出会っているはずです」
「……なるほど」
自他共に認めるワーカホリックの瑞穂が、恋愛の「れ」の字もなく、二十八歳の今日まで来ているのだから、彼女の説に信憑性があるわけがない。
「まあ、王子様と出会えなくても、いい仕事をすると気分がいいわよ」
仕方なく、そう言い換えた。
「どうせなら、そのついでに素敵な王子様と出会って、素敵な恋愛もしたいです」
「残念ながら、世の中そんなに都合よくできていないわよ」
瑞穂が指をひらひらさせると、杏奈が口をへの字に歪める。しかしすぐに表情を改め、「じゃあ、営業行ってきます」と、出かけて行った。
その背中を見送った瑞穂がふと視線を上げると、歩道に植えられている桜が青々とした若葉を茂らせている。
千雅観慶斗と初めて会った時、まだ咲き始めだった桜は、いつの間にか葉桜になっている。
木漏れ日に目を細めた瑞穂は、そのままビルに入った。
リーフブルワリーは、十六階建てのオフィスビルの十階と十一階フロアを借り切っている。
営業部のある十階でエレベーターを降り廊下を歩いていると、従姉妹の梨香が休憩室から顔を覗かせた。
瑞穂と同い年だが、緩いパーマをかけた髪を片側に流し、服装もメイクも全体的に甘い色使いを好む梨香は、スーツ姿の瑞穂よりずっと若く見える。
「瑞穂っ、ちょっと」
「……?」
休憩室のドアの隙間から顔だけ覗かせ、梨香が忙しなく手招きをしてくる。
何事かと思いつつ近付くと、手首を掴まれ休憩室に引きずり込まれてしまった。
梨香はドアを閉めるなり、声を潜めて言う。
「レイクタウンの再開発って、どんな感じ?」
「はい?」
あまりに抽象的な問いかけに、梨香がなにを言いたいのかわからない。
キョトンとする瑞穂に、梨香が唇を尖らせる。
「もう意地悪しないで教えてよ。レイクタウンの再開発ってどうなの?」
「どうなのって……」
梨香の言うレイクタウンとは、センガホールディングスが管理運営する都内にある複合型商業施設で、現在、周辺の再開発事業に合わせて建て替え工事をしている場所だ。
レイクタウン内にリーフブルワリーの商品を扱うバーを開店する予定になっており、千賀観慶斗はその陣頭指揮を取るという名目で出向してきている。
「レイクタウンの狙いってなに?」
焦れたように梨香が聞いてくる。
「狙いって、周辺地域の再開発に伴う世代の変化に合わせたニーズ変換じゃないの?」
瑞穂の言葉に、梨香が難しい顔をする。
「そうじゃなくて、どんな料理を出したらいいの? 静岡じゃダメ?」
「はい?」
話が飛びすぎている。
詳しい説明を求める瑞穂に、梨香が言う。
「ウチ、本社は東京だけど、工場は静岡にあるじゃない。だからリーフブルワリーのバーを造るなら、静岡地産の食べ物をメニューに入れたらどうかって提案したの。そうしたら、千賀観さんに『そもそものコンセプトが違う』って言われたのよ。今、地方のアンテナショップとか人気あるからいいと思ったのに」
「ああ……」
慶斗が言った「コンセプト」とは、レイクタウンのコンセプトではなく、リーフブルワリーのコンセプトに関してだろう。
――社長の娘がこれでいいのか……
どうしたものかと思いつつ、瑞穂が説明をする。
「梨香、今さらだけど、ウチは工場が静岡にあるけど、静岡のご当地ビールを造っているわけではないの。千賀観さんが言っているのは、そういうことだと思うよ」
一九九四年の規制緩和によって、ビール醸造免許取得に必要な年間最低製造量が大幅に下がった。その結果、小規模事業者を中心に数多くのクラフトビールメーカーが生まれた。
そんな中、リーフブルワリーは「職人が製法にこだわり抜いた国産ビール」をコンセプトに立ち上げられた会社だ。
静岡に工場が建てられたのは、ビール造りにおける環境や様々な条件を考えた結果にすぎない。
しかし、瑞穂の説明に梨香はまだ納得のいっていない顔をした。
「でも静岡で造ってるんでしょ」
自分の意見を否定されたのが悔しいのか、梨香が唇を尖らせる。
「この場合、商品の製造場所ではなく、店に置くビールに合った料理を提案するべきなんじゃない? そのためには、集客が見込める年齢層や性別を考慮して……」
「例えば?」
スマホを取り出し、瑞穂の意見をそのままメモしようとする梨香を、「自分で考えなさい」と、窘める。
「え~ぇ、ケチ。また的外れなこと言ったら恥ずかしいから、答え教えてよ。週明けにはまたミーティングがあるの。それまでに千賀観さんに頼まれた資料作りもあるし、忙しくて考える暇なんてないんだから」
可愛く頬を膨らませ抗議する梨香だが、自分で探した資料でアイディアをまとめなくては本人の成長に繋がらない。なので瑞穂は、これ以上のアドバイスをする気はない。
「とりあえず、私が今言ったことを参考に、自分の意見をまとめてみて。それから他の人と意見を出し合っていけば、相乗効果でいいプランがまとまると思うよ」
自分と違う視点を持った人の意見は、とても参考になる。梨香が自分の視点でまとめたアイディアは、たとえ的外れでも参考になるものはあるはずだ。
そう励ます瑞穂に、梨香が盛大に抗議する。
「私が一番いい意見を出さないと、目立てないじゃない!」
「別に目立つ必要はないでしょ……」
大事なのは、チームが一丸となってプロジェクトを成功させることだ。
そう諭すと、梨香は「全然わかってないわ」と、首を横に振る。
「大事なのは、千賀観さんに仕事ができる子だって思ってもらうことよ。そうすれば、そのご褒美に食事に誘ってもらったりして、個人的なお付き合いに発展させやすいじゃない」
一瞬、なにやら空想にふけった梨香がガッツポーズを作る。
子供の頃から「王子様のような、カッコいいお金持ちと結婚する」と宣言し、恋人ができる度に夢物語のような未来予想図を熱く語ってきた梨香のことだ。この一瞬の間に、慶斗との結婚に至る壮大なラブストーリーでも想像していたに違いない。
同世代にも既婚者がちらほら増え始めたこの頃、彼女のシンデレラストーリーという名の妄想に拍車がかかっている気がする。
――その意欲を仕事に生かせばいいのに……
その方がここで瑞穂を待ち伏せして意見を聞くより、よっぽど慶斗に認めてもらえる確率が上がると思うのだが。
「とりあえず、仕事頑張ってね」
瑞穂は、まだなにか話そうとしていた梨香を残して休憩室を出た。
オフィスに戻ると、立ったままの姿勢で男性社員と話し込む慶斗の姿が見えた。
彼は左手に持った資料に視線を落とし、右手の拳を唇に添えてなにかを考え込んでいる。年は三十六歳と聞いているが、実に仕事のできる男然としていて、つい視線がいってしまう。
――住む世界が違うって感じ……
自分と慶斗では、同じ空間にいても存在している世界が違うような気がしてくる。
もっとも部署が違うので、基本的に関わることはないし、わざわざ関わりたいとも思わない。だが、他の社員は違うようだ。
見渡せば女性社員だけでなく、男性社員の中にも、チラチラと慶斗の様子を窺う姿が見られる。
これが、創業者一族が持つカリスマ性というやつなのだろうか。
それとも人間の目というものは、自然と美しいものを求めるようにできているのか。
千賀観慶斗に磁力でもあるのかと思うほど、周囲の視線が彼へと集まっていく。
――王子様は、男にも女にもモテモテね。
最初こそ創業家のお坊ちゃんを値踏みするみたいな態度で出迎えた男性社員たちも、この一ヶ月ちょっとの間に、すっかり彼に一目置くようになっていた。
瑞穂には、自分の外見の麗しさを重々承知した上で、大いに活用している計算高いイケメンにしか見えないのだが。
初対面の日、学ばせていただきますと謙虚な台詞を口にしていた彼だが、一目見た時から、世間知らずのお坊ちゃんという甘えた存在ではないと思っていた。
瑞穂のその予想は当たっていたらしい。
書類片手に話し合っていた慶斗が、スタッフを引き連れオフィスを出ていく。その姿を見送りつつ自分のデスクに向かうと、その姿に気付いた営業部長が手を挙げる。
「栗城君っ」
営業部長がスマホ片手に瑞穂の名前を呼ぶ。
その表情が深刻で、デスクまでのほんの数歩の足取りを速めた。
「アメリカに出向いているスタッフから、会場に荷物が届いていないって連絡が入った。出荷の履歴を追えるか?」
部長の一言で、一気に血の気が引く。
アメリカのスタッフとは、リーフブルワリーの新たな市場を開拓すべく、海外の展示会を順に回っている社員のことだ。
「電話代わります」
瑞穂の言葉に、部長が素早くスマホを差し出してきた。
それを左手で受け取り、右手で自分のデスクのファイルを取り出す。
「お電話代わりました。栗城です」
そう話しながら、瑞穂は展示会の開催地の住所を確認する。
スタッフが伝えてくる会場の所在地と、出荷表の住所に違いはない。だとしたら荷物がどこかに紛れてしまったのだろう。
展示会は明日だ。カレンダーに視線を向けつつ、アメリカとの時差を計算する。
「まだ時間があるから大丈夫よ。すぐに確認して対応策を考えるから、とりあえず設営の準備を進めていて。大丈夫、必ず間に合わせるから」
その一言で、電話の向こうのスタッフがホッと安堵するのを感じた。
――言ったからには実行するしかない。
スマホを部長に返した瑞穂は、すぐに自分のスマホを取り出し、輸出を任せた運送会社に電話をかけた。そして事情を説明し、折り返しの電話を待つ間に、最悪荷物が見つからなかった場合の対応策を考える。
数こそ少量だが、アメリカに住む日本人オーナーの店にリーフブルワリーの商品を輸出販売していた。そこに電話をかけ、商品を回してもらえないか交渉してみよう。
送った商品の中には、発売されたばかりの新商品も含まれていた。それを展示会で紹介できないのは痛いが、商品棚を空にしておくよりよっぽどいい。
――なるべくなら、送った商品が見つかって欲しいけど。
早く運送会社からの連絡が来ますように。そう祈りつつパソコンを開き、今回の展示会場になるべく近い販売先を検索する。
目星を付けた店舗に電話をかけて事情を説明し、いざという時に商品を譲ってもらう確約を取った。展示会場までの距離と輸送ルートを確認して、輸送に要する時間を計算する。そこから、運送業者の回答を待てる時間を逆算し、決断のタイミングを決めた。
「よし……」
今の段階で、できることはここまでだ。
瑞穂が手早く段取りを部長に報告すると、判断を一任された。
それを了承した後、ただ折り返しの電話を待つだけでは時間の無駄と判断し、瑞穂は通常業務に戻る。
「冷静だな」
パソコンにデータを入力していると、頭上から声が降ってきた。
顔を上げると、一連の流れを見ていた同僚の市ヶ谷徹が立っていた。自分を見下ろす彼の視線に、どこか苛立ちを感じる。
営業成績が瑞穂に劣ることを気にしている彼は、普段瑞穂との関わりを極力避けている。だからこうして、彼の方から話しかけてくるのは珍しいことだった。
「……?」
「もっと、焦るかと思った」
そう言われて、瑞穂が肩をすくめる。
「焦ったところで商品が出てこなければ、そんなの時間と精神を無駄に消費するだけじゃない」
「……お前らしいよ」
市ヶ谷が瑞穂の動作を真似るように、肩をすくめて言う。
「いつも冷静で、判断も迅速。問題が起きた時のリスクヘッジも欠かさない。だから、愛想が悪くても、営業成績がいいんだろうな。……社長も部長も、お前のこと頼りにしてるみたいだし」
褒められているというより、皮肉に感じる。
それでも一応「どうも」と、頭を下げておく。
そんな瑞穂の態度に、市ヶ谷が口の端を意地悪く歪めた。
「女としての可愛げはないから、長い目で見れば損だけどな」
精一杯頭を捻って、絞り出した嫌味がそれか。
そんな面白くもない嫌味を絞り出す時間があるなら、仕事をすればいいのに。
「今損してないなら、問題ないでしょ」
そう言い返し、再びパソコンに視線を向ける。
まだなにか言い足りないのか、しばらくかたわらに立っていた市ヶ谷に構わず、黙々と作業を続ける。そんな瑞穂に彼は「従姉妹と大違いだな」と吐き捨て、自分のデスクに引き返していった。
――もはや言われすぎて、挨拶ぐらいにしか感じないんだけどね。
仕事は効率的で確実だけど愛想のない瑞穂より、可愛らしく人に甘えるのが上手な梨香の方が男性に評判がいいというのは承知している。
瑞穂としては、それは梨香と自分の得意分野の違いに過ぎず、特別コンプレックスを抱く問題ではない。そう思っているのに、時々その違いを、さも瑞穂の欠点であるような言い方をしてくる人がいる。
――人は人。自分は自分。
そうは思っているのだが、もし自分に梨香のような社交性があれば、傷付けずに済んだ人がいるのかもしれないと思うと、心の奥に燻るものがあった。
「……」
後悔しても、過去は変えられない。
考えていても時間の無駄なら、とにかく仕事を進めよう。
そう気持ちを割り切って仕事をしていると、運送業者から電話がかかってきた。
聞くとリーフブルワリーの荷物は、展示会が開催される隣の州の集荷場に届いているとのことだった。ありかがわかったのは嬉しいが、アメリカの国土面積を考えると、頭が痛くなる。
しかもあちらの運送会社の社員は、日本企業ではありえない開き直りとも受け取れる態度で接してくるからいただけない。
――それでも、できる限りの手は尽くすべきだ。
とりあえず現地スタッフに途中まで取りに行けるかを確認し、運送会社に中継地点まで至急届けてもらえるよう交渉した。
最初は渋っていた相手方だが、荷物が所定の時間までに届かなかった際には損害賠償請求も視野に入れた話し合いになる、と脅しを含めた交渉の末、こちらの意見を呑んでくれた。
その交渉をしながら、瑞穂はネットで現地スタッフのためのレンタカーを手配する。
――現地に、新婚の吉田君がいてよかった。
アメリカに赴いているスタッフの一人が、新婚旅行の際に国際運転免許証を取得していた。こんな事態は想定していなかったが、運転できる者がいないか事前に確認しておいてよかった。
運送会社との話し合いを終え、そのままスタッフに電話をかけて段取りを伝える。
そして自分は荷物を受け取れるまで会社で待機しているので、なにかあればすぐに電話するように言い添えた。
デスクでホッと一息ついた時、自分の名前を呼ぶ甘い声が聞こえた。
「瑞穂、もう仕事終わる?」
声のした方へ顔を向けると、梨香が部署ごとを区切るための低いパーティション越しに手招きしているのが見えた。
時計を確認すると、いつの間にか終業時間を過ぎていて、営業部のメンバーの中にも帰り支度を始めている者がいる。
普段の梨香は、帰る前にわざわざ挨拶に来たりしない。
なにか用があるのだろうと思いつつ、手を軽く挙げ待つように指示をし、まずはオロオロしながら一連の流れを見守っていた部長に報告をした。
安堵の表情を見せる部長に、後は自分が対応するので部長は帰っても大丈夫だと伝え、梨香のもとに向かう。
「どうかした?」
帰り支度を始める人の邪魔にならないよう、オフィスの片隅に移動して聞くと、昼間話しかけられた時より幾分凝ったメイクをした梨香が、人懐っこい笑顔で言う。
「合コン行かない?」
「……? はい?」
「一人欠員が出ちゃったのよ」
最初、なにを言われているのかわからなかった瑞穂は、冷めた口調で返す。
「仕事があるから無理。それに、私が行っても、相手が喜ばないわよ」
「だからいいんじゃない」
梨香は、屈託のない笑みを添えて続ける。
「恋愛に興味のない瑞穂を連れて行けば、その分ライバルが一人減るってことでしょ」
「……」
「下手に友達と狙いが被ると、面倒な気遣いが生じるじゃない。でも瑞穂なら、その心配はないでしょ」
悪意がないだけにたちが悪い。眉間を押さえつつ、瑞穂が言う。
「悪いけど……今トラブルが起きてて、まだ帰れないから」
「えー、そんなに仕事ばかりして、飽きないの?」
その時、ふとあることを思い出す。
「そういえば梨香、昼間言ってた資料作りは終わったの?」
週明けのミーティングに向けて、アイディアをまとめるだけでなく、慶斗に資料を作るように言われたと話していたが。
瑞穂の問いかけに、梨香が首を横に振る。
「千賀観さん、センガホールディングスからの急な呼び出しがあって、今日は戻らないみたいなの。だから、月曜日の朝一ですれば間に合うから大丈夫」
楽観的に話す梨香に、社会人としてそれでいいのかと問いたくなる。
「千賀観さんの気を引きたいなら、合コンをやめて、資料を仕上げておいたら?」
いくら従姉妹でも残業の強要をするわけにはいかないので、やんわり提案してみた。でも梨香は、それとこれとは別問題とばかりに首を横に振る。
「千賀観さんが、絶対結婚してくれるって言うなら仕事を頑張るけど、その保証がないうちは、全ての出会いを大事にしなきゃ。私たちもう二十八なのよ」
「……」
だから? と、顔にでも書いてあったのだろう。
梨香が呆れた視線を向けてきた。
「そろそろ結婚しなきゃ痛いじゃない」
「そう……」
「あっ、瑞穂はいいのよ。パパも、瑞穂は結婚なんてしないで、ずっとウチで頑張って欲しいって言ってるから」
「それは……どうも」
――梨香に悪気はないのだろうけど……
満面の笑みで言われても対応に困る。
そんな瑞穂の気持ちを察することなく、梨香が嬉しそうに続けた。
「瑞穂は子供の頃からしっかりしてたから、関係ないかもだけど。私みたいな普通の可愛いだけが取り柄の女子にとって、結婚って重要な問題なのよ。この先の人生をよりよいものにするためには、仕事より出会いを大事にしないと」
二十八歳で、自分のことを「可愛いだけが取り柄の女子」と表現するのは、痛くないのだろうか。
そんな素朴な疑問が頭をよぎるが、言葉にすると面倒が増えそうなのでスルーしておく。
「……そう。リスクヘッジを欠かさないのは、社会人として大事なことね」
できればその危険予測能力を、仕事にも向けてくれ。心からそう願いつつ、梨香の背中を見送った。
梨香が帰った後、他の営業部のメンバーが一人、また一人と帰るのを見送りながら、一人で仕事をしていると、平助がオフィスに入ってきた。
「瑞穂、梨香を知らんか?」
フロアに瑞穂以外の社員がいないことを確認して、平助が親しげな口調で話しかけてくる。
「だいぶ前に帰りましたよ」
瑞穂の言葉に眉を寄せた平助が、梨香のデスクを漁り出した。
「どうかしたんですか?」
ただならぬ平助の様子に、瑞穂も梨香のデスクに近付く。そんな瑞穂に平助が言う。
「今、千賀観さんから電話があったんだ。梨香に今日中にと頼んだ資料を取りに会社に寄りたいが、二時間ほど後に会社に寄っても鍵は開いているかと聞かれて……」
「あの子……」
デスクの上にめぼしい資料が見つからず、引きだしの中まで漁り始める平介の姿に、瑞穂が額を押さえる。
さっき合コンに誘いに来た梨香は、頼まれた資料を仕上げるのは月曜日で大丈夫だと言っていた。
瑞穂がそのことを告げると、若干その展開を予想していたのか、平助が「やっぱり……」と、表情を強張らせる。
「梨香のことだから、そんなことじゃないかと思ったんだ……」
「それを承知していて、どうして、千賀観さんのサポートを梨香に任せたんですか?」
呆れつつ聞いてはみたが、その理由はわかっている。
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