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1巻
1-3
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平助は、あわよくば慶斗に梨香を気に入ってもらい、センガホールディングスと姻戚関係を結びたいからだ。
でも当の梨香がこれでは、慶斗が彼女を気に入るなんてことは難しいのではないかと思う。
諦めがつかないのか、平助が梨香のデスクを探し続けている。見かねた瑞穂も、ブックスタンドに差し込まれている書類を確認していく。
「頼まれた資料、これじゃないですか?」
『再開発地区周辺の企業分布』『製作・梨香』と、表紙に印刷された資料を手に取る。
表紙のすみにシャーペンで今日の日付と「〆」のサインが書き込まれているので、これで間違いないだろう。
――いくら社内に栗城が多いからって、ファーストネームだけ書くって……
栗城の苗字を持つ者が三人いるので、瑞穂や梨香のことをファーストネームで呼ぶ者は多いが、提出書類にファーストネームを書くのはいかがなものかと思う。
そんなこと思いつつ書類の中身を確認すると、ほとんどなにもできていない。
梨香の能力を考慮すると、月曜日の朝急いでどうにかなる状態ではない気がした。
「たぶんこれだな」
内容を確認した平助が、一段と顔を強張らせる。
「とりあえず千賀観さんに連絡して、資料ができてないから来ても無駄足になると伝えた方がいいんじゃないですか?」
瑞穂の提案に、平助が冗談じゃないと首を横に振る。
「そんなことして、ウチの評価が下がったらどうする。彼は、センガホールディングスの次期社長候補なんだぞ」
「でも、わざわざ来たのに、頼んであった書類ができてない方が、千賀観さんの心証は悪いんじゃないですか。ここは正直に伝えるべきです」
「……っ」
瑞穂の指摘に平助が下唇を噛む。彼は未練がましく資料を再読した後、瑞穂を見た。
「なんですか?」
「再開発地区の企業分布……って、営業の資料を使って、どうにかできないか?」
自分のパソコンの中にまとめてある資料を思い出し、「できなくはないです」と、答える。
次の瞬間、平助が瑞穂の両肩を強く掴んだ。
「頼む。梨香の代わりに、今すぐこの資料を仕上げてくれ」
「――えっ?」
突然なにを言い出すのかと瑞穂は戸惑う。
「これ、梨香の仕事ですよ。勝手に私が仕上げるわけにはいかないし、そんなの誰のためにもならないじゃないですか」
ここで瑞穂が代わりに資料を仕上げては、梨香の責任感が育たないし、慶斗を騙すことになる。瑞穂の正論を、平助が「会社のためになるっ!」と一刀両断した。
「このままでは、我が社の評価が下がってしまう。お前はそれでいいのか?」
「うっ……っ」
そう言われると、すぐに言葉を返せない。
センガホールディングスが、利益率の悪いクラフトビールからの撤退を考えているという噂は耳にしていた。これからも、リーフブルワリーのビールを広めていきたいと思っている瑞穂にとっても、出向一ヶ月少々で慶斗の心証を悪くする事態は避けたい。
チラリと自分のデスクに視線を向ける。
アメリカから、荷物を受け取ったという連絡はまだ来ていない。その連絡があるまでは帰るつもりはないのだが……
「梨香には、私からキツく注意しておくから、今回だけは助けてやってくれ」
瑞穂の迷いを察したように、平助が頭を下げてきた。
「七年前の悪夢を繰り返したくないんだ」
その言葉の意味するものを承知している瑞穂は、ため息を吐く。
「……今回、だけですよ」
そう念を押した瑞穂が手を差し出すと、平助の表情が輝きその手に梨香が残していった資料を握らせた。
書類を預かった瑞穂は、すぐに自分のデスクに引き返しパソコンを開く。
――再開発地区の企業分布……
それに関して瑞穂は、レイクタウンのリニューアル計画が確定する前から情報収集を続けていた。
周辺環境が変われば、客層が変わり、商品の売れ筋も変わる。営業は、そういった変化には常に敏感であるべきだと考えているからだ。
営業としての職務をまっとうするべく収集してきた情報が、違う形で役に立つとは。
「……」
とりあえず梨香が途中まで準備していた資料に目を通し、瑞穂は大きなため息を吐く。
瑞穂が地道に蓄積してきた情報と、梨香が途中まで作った資料ではあまりに違いすぎた。長い期間、継続的に情報収集をしてきた瑞穂には、梨香の資料が、広報がホームページで公開している再開発見通し計画案をそのまま書き写したものだとわかる。
――このままの資料じゃ、とても千賀観さんに渡せない。
梨香にも、梨香を任命した平助にも言いたいことは山ほどあるが、とりあえず今はこの資料を作るのが先だ。
梨香の作った資料をベースに情報を書き足せばいいと思っていたが、これでは最初から作り直さなくてはならない。
覚悟を決めた瑞穂は、パソコンに意識を集中させるのだった。
パソコンと向き合うこと約二時間。
どうにか資料を完成させ、表紙の書類制作者の名前を「梨香」から「栗城」に修正し、梨香のデスクの上に置く。
そして自分のデスクに戻り、中断していた自分の仕事を再開すると、慶斗がオフィスに入ってきた。
「こんな時間まで残業?」
瑞穂の存在に気付いた慶斗が、声をかけてくる。
「少しトラブルがあったもので」
軽い会釈を添えて、短く答える。
「そう」
梨香のデスクの書類を手に取った慶斗が瑞穂に視線を向け、「サポートは必要?」と確認してきた。
「いえ。私一人で処理できます。帰っていただいて大丈夫です」
連絡事項は端的に。
我ながら愛想のない返事だとは思うが、どう考えても向こうも仕事を抱えて忙しいはずだから、無駄な会話をしている暇があるのなら早く帰って休めばいいと思う。
「俺が手伝って早く終わるなら、遠慮しなくていい。週末なんだから、遊びに行きたいだろう?」
爽やかな口調で問い返す慶斗に、瑞穂は「週末は、関係ありません」と、そっけなく答える。
「これといって趣味もないので、急いで帰る必要はありませんから。帰ったところで、本を読むか、DVDを観る程度です」
だからお気遣いなく。そう肩をすくめる瑞穂に、何故か慶斗は痛々しいものを見るような視線を向けてくる。
「……若いんだからもっと楽しめよ」
「そういう発言は、セクハラになりますよ」
その手のアドバイスは、もう聞き飽きた。
なにに重きを置くかは人それぞれだろう。
プライベートを充実させるために仕事を頑張る人を否定はしないが、瑞穂は仕事を充実させるために、プライベートが稀薄になっても満足しているのだから、ほっといてもらいたい。
「それは失礼した」
プライベートにまで口出しされる筋合いはないと、冷めたい口調で返す瑞穂に、慶斗が謝罪してくる。
「……」
初めて会った時もそうだが、彼は他の男性なら不快な顔をしそうな瑞穂の物言いを、あっさりと受け流してしまう。
別に喧嘩したいわけではないので、引いてくれるならその方がいいのだが……
――なんか拍子抜けしてしまう。
「そういえば、二ヶ月ぶりだな」
「え?」
なにが……と、聞こうとした時、瑞穂のスマホが鳴った。アメリカの現地のスタッフからだ。
「すみません! もしもし……」
慶斗に断りを入れ、素早く電話に出る。その視線の先で、慶斗が瑞穂の作った資料に目を通し満足げに表紙をポンッと叩くのが見えた。
その様子に内心で安堵しつつ、電話の向こう側に耳を傾ける。
「そう……無事に荷物受け取れた。よかった。気を付けて戻ってください」
瑞穂がホッと息を吐くと、資料を鞄にしまった慶斗が軽く手を上げてオフィスを出て行くところだった。
「あ、社長が帰りに寄ってくださいって言ってました」
スマホを顔から遠ざけ、慌てて平助からの伝言を告げる瑞穂に、「伝え忘れたことにしてくれ」と、軽く手をヒラヒラさせる。
「どうして私が、貴方の嘘の片棒を担がなきゃいけないんですか」
素早く抗議する瑞穂に、慶斗が驚いたように振り返る。
瑞穂の顔をまじまじと見つめる慶斗が、不意に表情を緩めどこかからかうように言った。
「二ヶ月前のお詫びだと思ってくれればいい」
「……っ!」
その言葉に、さっき彼の口にした「二ヶ月ぶり」の意味がわかった。三月のあの日以来、初めて彼と言葉を交わしたのだ。
気まずい表情を浮かべる瑞穂に、「じゃあ」と目を細め、慶斗が今度こそオフィスを出て行く。
その時、遠ざけたスマホから、スタッフが「もしもし」と繰り返す声が聞こえた。
「ああ、ごめん。なんでもない」
この状況で、これ以上追いかけてどうする。そう結論づけた瑞穂は、あの王子様にはなるべく関わらないでおこうと、改めて心の中で誓うのだった。
◇ ◇ ◇
慶斗と二ヶ月ぶりに言葉を交わした日から二週間後、青ざめた表情の梨香が瑞穂のもとに駆け込んできた。
「瑞穂、貴女ってば、大変なことをしでかしてくれたわねっ!」
「えっ?」
突然のことに戸惑う瑞穂の手を、梨香が強く引く。
手を引かれるまま立ち上がった瑞穂は、「とにかく社長室まで来て」と、梨香に手を引かれて歩き出した。
いつもと違う梨香の様子に、なにかとんでもない問題でも起きたのかと背筋に冷たいものが走る。
アメリカの展示会は、アクシデントはあったものの、まずまずの成果を出していた。現地での評判もよかったので、社長室に呼び出されるほどのクレームが入るとは思えない。
「どこからのクレーム?」
自分の仕事をあれこれ思い出し、エレベーターに乗り込んだタイミングで聞いてみた。すると梨香が、緊張した顔で答える。
「千賀観さん」
「はい?」
「とにかくすごく怒ってて、瑞穂のせいで酷い損害を生じさせるとこだったって言うのよ」
これまで二回しか言葉を交わしたことのない慶斗を、何故それほど怒らせたのかわからない。
「損害? どの件に関して?」
「とにかく、ちゃんと私の代わりに謝ってよ」
――え? 梨香の代わり?
その言葉が引っかかるが、それについて質問をするより早くエレベーターが十一階に着いてしまった。すぐに梨香が、また瑞穂の手を引き歩き出す。
彼女はそのまま社長室の扉を開けると、瑞穂の背中に手を回して自分の前に押し出した。
「……っ」
勢いよく背中を押された瑞穂は、よろけてその場にしゃがみ込む。土下座に近い姿勢で顔を上げると、来客用のソファーに座る慶斗と目が合った。
長い足を持て余すように組んでソファーに座る彼は、眉間に皺を寄せ厳しい表情を浮かべている。
端整な顔立ちをしている彼のそんな表情には、周囲を黙らせる威圧感がある。
実際、慶斗の座るソファーの向かいには、平助が小さく縮こまって座っていた。
「……」
社長室に満ちるただならぬ緊迫感に、瑞穂は立ち上がることもできずに息を呑んだ。すると瑞穂の背後で、梨香が頭を下げる。
「すみませんっ! これまで書類を作ってたの、実はこの子なんです」
「……はい?」
どういうことだろうと後ろに視線を向けると、姿勢を戻した梨香が目を潤ませながら口を開く。
「千賀観さんに頼まれた書類、ちょっとアドバイスをもらおうと相談したら、この子が勝手に全部仕上げちゃって、それをどうしても使って欲しいって頼んでくるから……」
つらつらと言い訳する梨香の話を聞きながら、瑞穂は思い切り眉を寄せた。
二週間前、頼まれた仕事を放って帰った梨香に代わり、瑞穂が書類を仕上げたことがあった。
後日、慶斗から絶賛されたとはしゃぐ梨香は、それに味をしめ、書類作成を全て瑞穂に丸投げしてきた。
瑞穂は何度も、アドバイスはするが自分で作るように言ったのだが、梨香は「私じゃ無理」と、堂々と開き直り、まったく聞く耳を持たなかった。
最初に今回だけと約束した平助まで、「会社のために」「商品の知名度を上げ、販売実績に繋げるために」と泣き付いてきたのだ。
社の知名度を上げ、販売実績に繋げたいというのは瑞穂の願いでもある。仕方なく、これも営業の仕事の一環と割り切って、書類作成をし続けていたのだが……
梨香はその経緯をなかったことにして、瑞穂が出しゃばり、強引に彼女の仕事を奪ったことにしようとしている。
さすがに納得のいかない顔をする瑞穂を見据え、慶斗が大きく頷いた。
「なるほど、君の仕事だったのか」
大きく息を吐いた慶斗は、前髪を掻き上げて平助を睨んだ。
「これは一体どういうことですか? 私のサポートスタッフは、栗城社長の娘である栗城梨香さんと伺っていたので、彼女に資料作成を頼んでいたのですが。今頃になって資料は彼女が作ったものではないと言い出した。貴方は……私を騙して楽しんでいるんですか?」
「いや……、決して千賀観さんを騙そうなどということはなく。彼女の苗字も栗城なので、制作者の名前が同じなのは……そういうことで……」
しどろもどろに話す平助に痺れを切らしたのか、慶斗は立ち上がり瑞穂の前で書類を手に仁王立ちする。
「随分デタラメな仕事をしてくれるね」
怒りを含んだ慶斗の声に、平助がさらに縮こまる。だけど瑞穂としては、彼のその言葉に納得がいかない。
「デタラメな仕事をしたつもりはありません」
真っ直ぐ見上げ、そう断言する。そんな瑞穂に、慶斗が小さく笑って手を差し伸べる。
「だからこそ、間違っている。……立てるか?」
言いながら、慶斗が手を軽く揺らす。そうされることで、自分が床に座り込んだままだったことに思い至った。
「一人で立てます」
差し出された手を無視して自分の力で立ち上がる瑞穂が、もう一度宣言する。
「リーフブルワリーの社員として、社に損害を与えるような仕事はしていません」
ソファーで青くなる平助は、事情を説明することなく「本当に申し訳ありません」と、深く頭を下げるばかりだ。
「では何故、自分で作った資料の責任を従姉妹に押しつけた?」
随分な物言いに、瑞穂は眉を寄せる。
「そんなつもりはありません。仕事を依頼されたのが栗城梨香だったので、彼女が書類を提出しただけです。もし書類に不備があった場合は、私が責任を負う覚悟はありました」
まるで瑞穂が、梨香の名前で提出する資料だから適当な仕事をし、責任逃れをしているような言い方にカチンとくる。
仕事を丸投げしておいて、その責任を瑞穂一人に押しつけてくる梨香や、萎縮するばかりで事情を説明してくれない平助にも腹が立った。
そんな二人に話を合わせて、慶斗の怒りを静める手助けをする気にはなれないので、瑞穂は自分の意見を遠慮なく言葉にする。
「それにお言葉を返すようですが、この二週間、千賀観さんが彼女に頼む資料はどれも急なわりに難解で、参考資料を分析するだけでも相当な時間を要します。それをたて続けに頼むのは、作り手に対する配慮が欠けているのではないでしょうか」
瑞穂が資料作りを引き受けざるをえなかった理由は、そこにもある。
慶斗が梨香に依頼した仕事は、どれも締切までの期間が短く深い知識を求められるものばかりで、とても彼女の手に負えるようなものではなかった。
補佐役を任されている以上、それはそれで問題があるが、本人の能力に見合わない仕事を無茶振りし続ける慶斗にも問題を感じる。
「そうかな?」
「はい。負担が多すぎます。センガホールディングスの本社では、社員数が多いのでその仕事の仕方が通ったのでしょう。もしくは創業者一族の命令なら、社員が無理をしてでも進行したのかもしれませんが、ここはセンガホールディングス本社ではなく、系列子会社のリーフブルワリーです。社員数の少ない弊社で、蛇口を捻れば必ず水が出てくると決めつけているような仕事の振り方がまかり通ると思われては困ります」
呼吸ができているのか心配になるくらい顔色の悪い平助には悪いが、慶斗がまだしばらくリーフブルワリーで働くのであれば、それは理解しておいてもらいたい。
瑞穂の言葉に承知したと頷く慶斗が、彼女をじっと見る。
「でも君は期限内で仕上げた。その間、自分の仕事はどうしていた?」
「私には営業として培ってきた知識がありましたから。自分の仕事は、同時進行で進めていました」
おかげで、ここしばらくは残業続きだ。
「なるほど」
手にした書類に視線を落とした慶斗が、再び瑞穂へと視線を向けてくる。
力量を値踏みしているような視線に居心地の悪さを感じながらも、瑞穂は慶斗に確認する。
「それで、その書類のどこに不備があったと?」
経緯はどうであれ、求められた資料はどれもきっちり仕上げたつもりだった。だが、依頼主が不備があると言うのなら、それは非を認め謝罪するべきだろう。
そんな瑞穂に、慶斗が逆に問う。
「君は、なにが間違っていたと思う?」
「わかりません。自分では、きちんと仕上げたと思っていました」
「そうだな。よくできた資料だ。わざと間違えておいた数値もきちんと修正してある」
「はい?」
彼は、書類に不備があって怒っているのではないのか。
拍子抜けする瑞穂をからかうように肩をすくめた慶斗は、表情を厳しくして平助を睨む。
「出向が決まった際、社長は私に『優秀なスタッフを付ける』と仰いましたが、それは聞き間違いだったのでしょうか? もしかして社長は、私が派閥争いに破れることを望んでいるとか? それならこちらも、いろいろ考えを改める必要がありますが」
――派閥争い?
瑞穂にはなんのことだかわからないが、平助はその言葉に過剰なまでの反応を見せる。
「いえっ! けっ、決してそのようなことは……。千賀観さんの邪魔をするなど滅相もない。資料の件に関しては、本当に二人の苗字が同じだった故生じた不手際で……」
必死に言い訳する平助に、慶斗が険しい表情のまま「なるほど」と、頷いた。
「栗城社長の言い分はわかりました。確かに、彼女も栗城だ。つまり、こういうことでしょうか?」
もったいつけるように一度言葉を切った慶斗は、手にしていた資料を軽く叩いて言葉を続ける。
「私は、栗城梨香君に資料の作成を依頼したつもりだったが、彼女は自分の従姉妹である栗城瑞穂君が依頼されたと勘違いし、彼女に仕事を任せた。任された瑞穂君は、営業で培ったノウハウがある自分こそこの仕事に適任だと思い資料を作成した」
「はあ……」
「栗城瑞穂君の能力を承知している社長も、彼女が私の仕事をしていることに疑問を抱かなかった。……そういうことですか?」
「え……まあ ……」
それが事実ではないと承知しているが、そういうことで収めようではないか。そう言いたげに微笑む慶斗に、平助がぎこちなく首を動かす。
すると慶斗は、さっきまでの厳しい表情を一変させた。
「私はずっと、栗城梨香さんが社長の仰る有能なスタッフだと思っていましたが、それは私の勘違いで、本当は栗城瑞穂さんがスタッフだった。……そういうことでよろしいですね」
「はい?」
話が妙な方向に転がっていく。
素っ頓狂な声を上げる瑞穂をチラリと見て、慶斗は強気に微笑む。
「私のスタッフは、最初から栗城瑞穂さんの方だった。そういうことですね?」
強く念を押された平助が、首をぎこちなく縦に動かす。
「はぁ……まあ……そのとおりです」
平助の答えに、慶斗が満足げに微笑んだ。同じ人物の笑顔とは思えない、その表情の変わり方が見事で、彼が自分の見せ方を熟知しているのだと察せられる。
「なるほど。そういうことでしたか。安心しました。ではこれからよろしく頼む」
そう微笑みかけられた瑞穂が、冗談じゃないと体を仰け反らせる。
「まっ、待ってください。私は、営業の仕事で手一杯で、千賀観さんのサポートなんてとても」
そう訴える瑞穂を押しのけ、ずっと黙っていた梨香が騒ぎ始める。
「そうよ。千賀観さんのサポートは、私です」
すると慶斗は、梨香を見て口の形だけで笑みを作った。
「君はこの先も、私がなにか仕事を頼む度に従姉妹へ仕事を押し付けるのだろう? 間に人が一人入れば、それだけ時間がかかる。それを無駄だとは思わないか」
「酷い」
梨香が甘えた声でなじるのを無視して、今度は平助を見て言う。
「貴方たちは忙しい私に、まだこの茶番に付き合えと? それとも、この会社は意図的に私に精神的負担をかけると上に報告すれば満足ですか?」
平助が青ざめ唇を震わせる。
――千賀観さん、目が少しも笑ってない。
表情こそ笑顔だが、くだらない言い訳は許さないと、その意志の強そうな目が語っている。
「本日より、私のサポートスタッフは、こちらの栗城瑞穂さんにお願いする。それでいいですね?」
「承知しました」
「パパッ!」
項垂れる平助に、梨香が抗議する。
それを無視して、慶斗は「ではそういうことで」と、話をまとめようとした。だが瑞穂の方は、そう簡単に承知するわけにはいかない。
「ちょっと待ってくださいっ。困りますっ!」
「ん?」
「抱えている仕事もあるので、今部署を離れるわけにはいきません」
新商品の初動はよかったが、これを安定した売り上げに繋げていくためには、営業としてまだまだやるべきことがある。海外市場開拓も着手したばかりだ。
焦って声を上げる瑞穂に、慶斗が不快げに眉を寄せた。
「君一人が抜けるだけで仕事が立ちゆかなくなるほど、ここの営業はふぬけ揃いなのか?」
「まさかっ!」
仕事仲間を、バカにされるわけにはいかない。
声を荒らげる瑞穂に、慶斗が「じゃあ、なにも問題はないじゃないか」と、したり顔を見せる。
「頼りになる同僚がいるのはいいことだ。そしてその同僚を信じないのは、彼らをバカにしていることと同じだと思わないかい?」
でも当の梨香がこれでは、慶斗が彼女を気に入るなんてことは難しいのではないかと思う。
諦めがつかないのか、平助が梨香のデスクを探し続けている。見かねた瑞穂も、ブックスタンドに差し込まれている書類を確認していく。
「頼まれた資料、これじゃないですか?」
『再開発地区周辺の企業分布』『製作・梨香』と、表紙に印刷された資料を手に取る。
表紙のすみにシャーペンで今日の日付と「〆」のサインが書き込まれているので、これで間違いないだろう。
――いくら社内に栗城が多いからって、ファーストネームだけ書くって……
栗城の苗字を持つ者が三人いるので、瑞穂や梨香のことをファーストネームで呼ぶ者は多いが、提出書類にファーストネームを書くのはいかがなものかと思う。
そんなこと思いつつ書類の中身を確認すると、ほとんどなにもできていない。
梨香の能力を考慮すると、月曜日の朝急いでどうにかなる状態ではない気がした。
「たぶんこれだな」
内容を確認した平助が、一段と顔を強張らせる。
「とりあえず千賀観さんに連絡して、資料ができてないから来ても無駄足になると伝えた方がいいんじゃないですか?」
瑞穂の提案に、平助が冗談じゃないと首を横に振る。
「そんなことして、ウチの評価が下がったらどうする。彼は、センガホールディングスの次期社長候補なんだぞ」
「でも、わざわざ来たのに、頼んであった書類ができてない方が、千賀観さんの心証は悪いんじゃないですか。ここは正直に伝えるべきです」
「……っ」
瑞穂の指摘に平助が下唇を噛む。彼は未練がましく資料を再読した後、瑞穂を見た。
「なんですか?」
「再開発地区の企業分布……って、営業の資料を使って、どうにかできないか?」
自分のパソコンの中にまとめてある資料を思い出し、「できなくはないです」と、答える。
次の瞬間、平助が瑞穂の両肩を強く掴んだ。
「頼む。梨香の代わりに、今すぐこの資料を仕上げてくれ」
「――えっ?」
突然なにを言い出すのかと瑞穂は戸惑う。
「これ、梨香の仕事ですよ。勝手に私が仕上げるわけにはいかないし、そんなの誰のためにもならないじゃないですか」
ここで瑞穂が代わりに資料を仕上げては、梨香の責任感が育たないし、慶斗を騙すことになる。瑞穂の正論を、平助が「会社のためになるっ!」と一刀両断した。
「このままでは、我が社の評価が下がってしまう。お前はそれでいいのか?」
「うっ……っ」
そう言われると、すぐに言葉を返せない。
センガホールディングスが、利益率の悪いクラフトビールからの撤退を考えているという噂は耳にしていた。これからも、リーフブルワリーのビールを広めていきたいと思っている瑞穂にとっても、出向一ヶ月少々で慶斗の心証を悪くする事態は避けたい。
チラリと自分のデスクに視線を向ける。
アメリカから、荷物を受け取ったという連絡はまだ来ていない。その連絡があるまでは帰るつもりはないのだが……
「梨香には、私からキツく注意しておくから、今回だけは助けてやってくれ」
瑞穂の迷いを察したように、平助が頭を下げてきた。
「七年前の悪夢を繰り返したくないんだ」
その言葉の意味するものを承知している瑞穂は、ため息を吐く。
「……今回、だけですよ」
そう念を押した瑞穂が手を差し出すと、平助の表情が輝きその手に梨香が残していった資料を握らせた。
書類を預かった瑞穂は、すぐに自分のデスクに引き返しパソコンを開く。
――再開発地区の企業分布……
それに関して瑞穂は、レイクタウンのリニューアル計画が確定する前から情報収集を続けていた。
周辺環境が変われば、客層が変わり、商品の売れ筋も変わる。営業は、そういった変化には常に敏感であるべきだと考えているからだ。
営業としての職務をまっとうするべく収集してきた情報が、違う形で役に立つとは。
「……」
とりあえず梨香が途中まで準備していた資料に目を通し、瑞穂は大きなため息を吐く。
瑞穂が地道に蓄積してきた情報と、梨香が途中まで作った資料ではあまりに違いすぎた。長い期間、継続的に情報収集をしてきた瑞穂には、梨香の資料が、広報がホームページで公開している再開発見通し計画案をそのまま書き写したものだとわかる。
――このままの資料じゃ、とても千賀観さんに渡せない。
梨香にも、梨香を任命した平助にも言いたいことは山ほどあるが、とりあえず今はこの資料を作るのが先だ。
梨香の作った資料をベースに情報を書き足せばいいと思っていたが、これでは最初から作り直さなくてはならない。
覚悟を決めた瑞穂は、パソコンに意識を集中させるのだった。
パソコンと向き合うこと約二時間。
どうにか資料を完成させ、表紙の書類制作者の名前を「梨香」から「栗城」に修正し、梨香のデスクの上に置く。
そして自分のデスクに戻り、中断していた自分の仕事を再開すると、慶斗がオフィスに入ってきた。
「こんな時間まで残業?」
瑞穂の存在に気付いた慶斗が、声をかけてくる。
「少しトラブルがあったもので」
軽い会釈を添えて、短く答える。
「そう」
梨香のデスクの書類を手に取った慶斗が瑞穂に視線を向け、「サポートは必要?」と確認してきた。
「いえ。私一人で処理できます。帰っていただいて大丈夫です」
連絡事項は端的に。
我ながら愛想のない返事だとは思うが、どう考えても向こうも仕事を抱えて忙しいはずだから、無駄な会話をしている暇があるのなら早く帰って休めばいいと思う。
「俺が手伝って早く終わるなら、遠慮しなくていい。週末なんだから、遊びに行きたいだろう?」
爽やかな口調で問い返す慶斗に、瑞穂は「週末は、関係ありません」と、そっけなく答える。
「これといって趣味もないので、急いで帰る必要はありませんから。帰ったところで、本を読むか、DVDを観る程度です」
だからお気遣いなく。そう肩をすくめる瑞穂に、何故か慶斗は痛々しいものを見るような視線を向けてくる。
「……若いんだからもっと楽しめよ」
「そういう発言は、セクハラになりますよ」
その手のアドバイスは、もう聞き飽きた。
なにに重きを置くかは人それぞれだろう。
プライベートを充実させるために仕事を頑張る人を否定はしないが、瑞穂は仕事を充実させるために、プライベートが稀薄になっても満足しているのだから、ほっといてもらいたい。
「それは失礼した」
プライベートにまで口出しされる筋合いはないと、冷めたい口調で返す瑞穂に、慶斗が謝罪してくる。
「……」
初めて会った時もそうだが、彼は他の男性なら不快な顔をしそうな瑞穂の物言いを、あっさりと受け流してしまう。
別に喧嘩したいわけではないので、引いてくれるならその方がいいのだが……
――なんか拍子抜けしてしまう。
「そういえば、二ヶ月ぶりだな」
「え?」
なにが……と、聞こうとした時、瑞穂のスマホが鳴った。アメリカの現地のスタッフからだ。
「すみません! もしもし……」
慶斗に断りを入れ、素早く電話に出る。その視線の先で、慶斗が瑞穂の作った資料に目を通し満足げに表紙をポンッと叩くのが見えた。
その様子に内心で安堵しつつ、電話の向こう側に耳を傾ける。
「そう……無事に荷物受け取れた。よかった。気を付けて戻ってください」
瑞穂がホッと息を吐くと、資料を鞄にしまった慶斗が軽く手を上げてオフィスを出て行くところだった。
「あ、社長が帰りに寄ってくださいって言ってました」
スマホを顔から遠ざけ、慌てて平助からの伝言を告げる瑞穂に、「伝え忘れたことにしてくれ」と、軽く手をヒラヒラさせる。
「どうして私が、貴方の嘘の片棒を担がなきゃいけないんですか」
素早く抗議する瑞穂に、慶斗が驚いたように振り返る。
瑞穂の顔をまじまじと見つめる慶斗が、不意に表情を緩めどこかからかうように言った。
「二ヶ月前のお詫びだと思ってくれればいい」
「……っ!」
その言葉に、さっき彼の口にした「二ヶ月ぶり」の意味がわかった。三月のあの日以来、初めて彼と言葉を交わしたのだ。
気まずい表情を浮かべる瑞穂に、「じゃあ」と目を細め、慶斗が今度こそオフィスを出て行く。
その時、遠ざけたスマホから、スタッフが「もしもし」と繰り返す声が聞こえた。
「ああ、ごめん。なんでもない」
この状況で、これ以上追いかけてどうする。そう結論づけた瑞穂は、あの王子様にはなるべく関わらないでおこうと、改めて心の中で誓うのだった。
◇ ◇ ◇
慶斗と二ヶ月ぶりに言葉を交わした日から二週間後、青ざめた表情の梨香が瑞穂のもとに駆け込んできた。
「瑞穂、貴女ってば、大変なことをしでかしてくれたわねっ!」
「えっ?」
突然のことに戸惑う瑞穂の手を、梨香が強く引く。
手を引かれるまま立ち上がった瑞穂は、「とにかく社長室まで来て」と、梨香に手を引かれて歩き出した。
いつもと違う梨香の様子に、なにかとんでもない問題でも起きたのかと背筋に冷たいものが走る。
アメリカの展示会は、アクシデントはあったものの、まずまずの成果を出していた。現地での評判もよかったので、社長室に呼び出されるほどのクレームが入るとは思えない。
「どこからのクレーム?」
自分の仕事をあれこれ思い出し、エレベーターに乗り込んだタイミングで聞いてみた。すると梨香が、緊張した顔で答える。
「千賀観さん」
「はい?」
「とにかくすごく怒ってて、瑞穂のせいで酷い損害を生じさせるとこだったって言うのよ」
これまで二回しか言葉を交わしたことのない慶斗を、何故それほど怒らせたのかわからない。
「損害? どの件に関して?」
「とにかく、ちゃんと私の代わりに謝ってよ」
――え? 梨香の代わり?
その言葉が引っかかるが、それについて質問をするより早くエレベーターが十一階に着いてしまった。すぐに梨香が、また瑞穂の手を引き歩き出す。
彼女はそのまま社長室の扉を開けると、瑞穂の背中に手を回して自分の前に押し出した。
「……っ」
勢いよく背中を押された瑞穂は、よろけてその場にしゃがみ込む。土下座に近い姿勢で顔を上げると、来客用のソファーに座る慶斗と目が合った。
長い足を持て余すように組んでソファーに座る彼は、眉間に皺を寄せ厳しい表情を浮かべている。
端整な顔立ちをしている彼のそんな表情には、周囲を黙らせる威圧感がある。
実際、慶斗の座るソファーの向かいには、平助が小さく縮こまって座っていた。
「……」
社長室に満ちるただならぬ緊迫感に、瑞穂は立ち上がることもできずに息を呑んだ。すると瑞穂の背後で、梨香が頭を下げる。
「すみませんっ! これまで書類を作ってたの、実はこの子なんです」
「……はい?」
どういうことだろうと後ろに視線を向けると、姿勢を戻した梨香が目を潤ませながら口を開く。
「千賀観さんに頼まれた書類、ちょっとアドバイスをもらおうと相談したら、この子が勝手に全部仕上げちゃって、それをどうしても使って欲しいって頼んでくるから……」
つらつらと言い訳する梨香の話を聞きながら、瑞穂は思い切り眉を寄せた。
二週間前、頼まれた仕事を放って帰った梨香に代わり、瑞穂が書類を仕上げたことがあった。
後日、慶斗から絶賛されたとはしゃぐ梨香は、それに味をしめ、書類作成を全て瑞穂に丸投げしてきた。
瑞穂は何度も、アドバイスはするが自分で作るように言ったのだが、梨香は「私じゃ無理」と、堂々と開き直り、まったく聞く耳を持たなかった。
最初に今回だけと約束した平助まで、「会社のために」「商品の知名度を上げ、販売実績に繋げるために」と泣き付いてきたのだ。
社の知名度を上げ、販売実績に繋げたいというのは瑞穂の願いでもある。仕方なく、これも営業の仕事の一環と割り切って、書類作成をし続けていたのだが……
梨香はその経緯をなかったことにして、瑞穂が出しゃばり、強引に彼女の仕事を奪ったことにしようとしている。
さすがに納得のいかない顔をする瑞穂を見据え、慶斗が大きく頷いた。
「なるほど、君の仕事だったのか」
大きく息を吐いた慶斗は、前髪を掻き上げて平助を睨んだ。
「これは一体どういうことですか? 私のサポートスタッフは、栗城社長の娘である栗城梨香さんと伺っていたので、彼女に資料作成を頼んでいたのですが。今頃になって資料は彼女が作ったものではないと言い出した。貴方は……私を騙して楽しんでいるんですか?」
「いや……、決して千賀観さんを騙そうなどということはなく。彼女の苗字も栗城なので、制作者の名前が同じなのは……そういうことで……」
しどろもどろに話す平助に痺れを切らしたのか、慶斗は立ち上がり瑞穂の前で書類を手に仁王立ちする。
「随分デタラメな仕事をしてくれるね」
怒りを含んだ慶斗の声に、平助がさらに縮こまる。だけど瑞穂としては、彼のその言葉に納得がいかない。
「デタラメな仕事をしたつもりはありません」
真っ直ぐ見上げ、そう断言する。そんな瑞穂に、慶斗が小さく笑って手を差し伸べる。
「だからこそ、間違っている。……立てるか?」
言いながら、慶斗が手を軽く揺らす。そうされることで、自分が床に座り込んだままだったことに思い至った。
「一人で立てます」
差し出された手を無視して自分の力で立ち上がる瑞穂が、もう一度宣言する。
「リーフブルワリーの社員として、社に損害を与えるような仕事はしていません」
ソファーで青くなる平助は、事情を説明することなく「本当に申し訳ありません」と、深く頭を下げるばかりだ。
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「それにお言葉を返すようですが、この二週間、千賀観さんが彼女に頼む資料はどれも急なわりに難解で、参考資料を分析するだけでも相当な時間を要します。それをたて続けに頼むのは、作り手に対する配慮が欠けているのではないでしょうか」
瑞穂が資料作りを引き受けざるをえなかった理由は、そこにもある。
慶斗が梨香に依頼した仕事は、どれも締切までの期間が短く深い知識を求められるものばかりで、とても彼女の手に負えるようなものではなかった。
補佐役を任されている以上、それはそれで問題があるが、本人の能力に見合わない仕事を無茶振りし続ける慶斗にも問題を感じる。
「そうかな?」
「はい。負担が多すぎます。センガホールディングスの本社では、社員数が多いのでその仕事の仕方が通ったのでしょう。もしくは創業者一族の命令なら、社員が無理をしてでも進行したのかもしれませんが、ここはセンガホールディングス本社ではなく、系列子会社のリーフブルワリーです。社員数の少ない弊社で、蛇口を捻れば必ず水が出てくると決めつけているような仕事の振り方がまかり通ると思われては困ります」
呼吸ができているのか心配になるくらい顔色の悪い平助には悪いが、慶斗がまだしばらくリーフブルワリーで働くのであれば、それは理解しておいてもらいたい。
瑞穂の言葉に承知したと頷く慶斗が、彼女をじっと見る。
「でも君は期限内で仕上げた。その間、自分の仕事はどうしていた?」
「私には営業として培ってきた知識がありましたから。自分の仕事は、同時進行で進めていました」
おかげで、ここしばらくは残業続きだ。
「なるほど」
手にした書類に視線を落とした慶斗が、再び瑞穂へと視線を向けてくる。
力量を値踏みしているような視線に居心地の悪さを感じながらも、瑞穂は慶斗に確認する。
「それで、その書類のどこに不備があったと?」
経緯はどうであれ、求められた資料はどれもきっちり仕上げたつもりだった。だが、依頼主が不備があると言うのなら、それは非を認め謝罪するべきだろう。
そんな瑞穂に、慶斗が逆に問う。
「君は、なにが間違っていたと思う?」
「わかりません。自分では、きちんと仕上げたと思っていました」
「そうだな。よくできた資料だ。わざと間違えておいた数値もきちんと修正してある」
「はい?」
彼は、書類に不備があって怒っているのではないのか。
拍子抜けする瑞穂をからかうように肩をすくめた慶斗は、表情を厳しくして平助を睨む。
「出向が決まった際、社長は私に『優秀なスタッフを付ける』と仰いましたが、それは聞き間違いだったのでしょうか? もしかして社長は、私が派閥争いに破れることを望んでいるとか? それならこちらも、いろいろ考えを改める必要がありますが」
――派閥争い?
瑞穂にはなんのことだかわからないが、平助はその言葉に過剰なまでの反応を見せる。
「いえっ! けっ、決してそのようなことは……。千賀観さんの邪魔をするなど滅相もない。資料の件に関しては、本当に二人の苗字が同じだった故生じた不手際で……」
必死に言い訳する平助に、慶斗が険しい表情のまま「なるほど」と、頷いた。
「栗城社長の言い分はわかりました。確かに、彼女も栗城だ。つまり、こういうことでしょうか?」
もったいつけるように一度言葉を切った慶斗は、手にしていた資料を軽く叩いて言葉を続ける。
「私は、栗城梨香君に資料の作成を依頼したつもりだったが、彼女は自分の従姉妹である栗城瑞穂君が依頼されたと勘違いし、彼女に仕事を任せた。任された瑞穂君は、営業で培ったノウハウがある自分こそこの仕事に適任だと思い資料を作成した」
「はあ……」
「栗城瑞穂君の能力を承知している社長も、彼女が私の仕事をしていることに疑問を抱かなかった。……そういうことですか?」
「え……まあ ……」
それが事実ではないと承知しているが、そういうことで収めようではないか。そう言いたげに微笑む慶斗に、平助がぎこちなく首を動かす。
すると慶斗は、さっきまでの厳しい表情を一変させた。
「私はずっと、栗城梨香さんが社長の仰る有能なスタッフだと思っていましたが、それは私の勘違いで、本当は栗城瑞穂さんがスタッフだった。……そういうことでよろしいですね」
「はい?」
話が妙な方向に転がっていく。
素っ頓狂な声を上げる瑞穂をチラリと見て、慶斗は強気に微笑む。
「私のスタッフは、最初から栗城瑞穂さんの方だった。そういうことですね?」
強く念を押された平助が、首をぎこちなく縦に動かす。
「はぁ……まあ……そのとおりです」
平助の答えに、慶斗が満足げに微笑んだ。同じ人物の笑顔とは思えない、その表情の変わり方が見事で、彼が自分の見せ方を熟知しているのだと察せられる。
「なるほど。そういうことでしたか。安心しました。ではこれからよろしく頼む」
そう微笑みかけられた瑞穂が、冗談じゃないと体を仰け反らせる。
「まっ、待ってください。私は、営業の仕事で手一杯で、千賀観さんのサポートなんてとても」
そう訴える瑞穂を押しのけ、ずっと黙っていた梨香が騒ぎ始める。
「そうよ。千賀観さんのサポートは、私です」
すると慶斗は、梨香を見て口の形だけで笑みを作った。
「君はこの先も、私がなにか仕事を頼む度に従姉妹へ仕事を押し付けるのだろう? 間に人が一人入れば、それだけ時間がかかる。それを無駄だとは思わないか」
「酷い」
梨香が甘えた声でなじるのを無視して、今度は平助を見て言う。
「貴方たちは忙しい私に、まだこの茶番に付き合えと? それとも、この会社は意図的に私に精神的負担をかけると上に報告すれば満足ですか?」
平助が青ざめ唇を震わせる。
――千賀観さん、目が少しも笑ってない。
表情こそ笑顔だが、くだらない言い訳は許さないと、その意志の強そうな目が語っている。
「本日より、私のサポートスタッフは、こちらの栗城瑞穂さんにお願いする。それでいいですね?」
「承知しました」
「パパッ!」
項垂れる平助に、梨香が抗議する。
それを無視して、慶斗は「ではそういうことで」と、話をまとめようとした。だが瑞穂の方は、そう簡単に承知するわけにはいかない。
「ちょっと待ってくださいっ。困りますっ!」
「ん?」
「抱えている仕事もあるので、今部署を離れるわけにはいきません」
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焦って声を上げる瑞穂に、慶斗が不快げに眉を寄せた。
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声を荒らげる瑞穂に、慶斗が「じゃあ、なにも問題はないじゃないか」と、したり顔を見せる。
「頼りになる同僚がいるのはいいことだ。そしてその同僚を信じないのは、彼らをバカにしていることと同じだと思わないかい?」
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