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十五夜 穆王八駿(ぼくおうはっしゅん)の因

十五夜 穆王八駿の因 25

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 ざわざわと小さな気配を立てて、桜の木の根元から這い出て来たのは、白い体に赤黒い口を持つ白アリだった。
「うわっ! こいつら、朽ち木だけしゃなく、生木も食うのか」
 興味津々に近づいて、気配の正体を見たデューイは、悍ましい数の蟲を見て、身震いするように呟いた。
 この白アリに巣食われているせいで、この桜の木は今まで花を咲かせることが出来なかったのだろう。
 なら、急に蕾を膨らませ、満開に花を開かせた理由は……。
 きっと舜が、向こうで良いことをしたからに違いない。
 そう思うと、デューイの心はワクワクと嬉しさに踊り出してしまうのだった。
 そんな中、桜の花びらは次々に舞い、急速に命を失い始めているようにも見えた。
 さっき芽吹いて咲いたばかりだというのに。
 それともこれは死を迎える前の狂い咲きで、最後の力を振り絞った奇跡、だったのだろうか。
「そんな……」
 こんなにきれいな桜なのに、来年は朽ちて、もう花を咲かせることがないなんて。
 デューイは桜の幹に身を寄せて、声を聞くように耳を澄ませた。
 まだ、この樹は生きている。
 だが、とても弱っていて、根元で蠢く白アリたちの足音、そして、どんどん根を、幹を喰い尽して行く音ばかりが強く聞こえる。
 街へ降りて、白アリ駆除の業者を雇えば、すぐに退治してもらえるのだろうか。――いや、こんな山奥まで来てくれるかどうか。それに、強い薬は蟲だけでなく植物も殺す。
「こんな時、舜がいてくれたらなァ……」
 舜ならきっと、魔氷の気功で刹那に退治してくれたに違いない。
 それでも……。
「これって、とてつもなく細い道が入り組んで、食い荒らして行ってるよなァ」
 こんな樹木の細部まで、舜のあの大きな力を制御しながら、樹を痛めないように蟲だけを殺すことができるだろうか。――いや、そんなコントロールは無理だろう。
 なら、やはりこの樹は、白アリに喰い尽されて、朽ち果てるのを待つのみなのだろうか。
 奇しくもデューイは、あちらの世界で舜が考えていたのと同じことを、こちらの世界で考えていたのである。
 まさに以心伝心!
 このデューイの思いを舜が聞いていたなら、全身、冷凍の七面鳥コールド・ターキー状態になっていたに違いない。
 だが――。
「あ、そうだ!」
 デューイは自分の思いつきに、
「なんだ、こんな簡単なことだったんだ」
 と、一気に心を軽くした。
 だが、それにはこのビン――いや、神器から出ないといけないわけで……。
 もちろん、壊して出ればいいのだが、これが本当に神器なら、迂闊に壊したりしてはいけない。――そんな良識の在り過ぎるところが、人間だったころの名残というか、永遠に近い生命を持つ一族の中での変わりもの、というか……まどろっこしい限りの人物なのだが。
 それでも――。
「あの、覇王花さま」
 デューイは、ガラス越しに見える二頭身のおたふくに――いや、女帝に、折衷案を持ちかけた。
「僕はあなたに婿入りするわけにはいきませんが、毎年、ここに受粉に来ますから、ここから出してもらえませんか?」
 どこまで人の良い青年なのだろうか。
 とっととキレて、偽神器を割って出てもいいのではないか。
「ふうぅん。やっぱり、うちが見込んだだけあって、ええ男やなぁ。――顔は見えへんけど」
 顔の前にビンを持ち上げ、覇王花が言った。
「じゃあ――」
「ほな、最初にうちの子を作ってもらおか」
「はあああっ! ――あ、あの、僕、女性は……」
 それに、年齢や好みも、多少は考慮させてもらいたい。――いや、年齢に関しては、白龍女公も舜とは四〇〇歳近く離れているのだから、あまり関係は……いや、ある時もある。
 それに何より、デューイの今の状態で、どうやったらそんなことが出来るのか。
 異種族間、というだけでなく、生殖機能にも問題がある、というのに。
「でけへんのやったら、うちも信用でけへんなぁ」
 そんな酷い……。
「なら、契約書にサインか何か――」
「さいん? なんや、それは?」
 ここは美国アメリカではないのである。
「じゃ、じゃあ、約束の接吻キスをっ!」
 さすが美国アメリカ生まれである。
 ここまでくれば、捨て身にもなる。
 何より、舜のためなのだ。
「約束の……接吻くちづけ……?」
 覇王花の頬が、ぽっと染まった。
 ――ちょっと、怖い。
「いややわぁ、そんな、若い恋人同士みたいな。――そうかぁ? あんさんがそこまで言うんやったら、うちの唇をゆるしてもええでぇ」
「……」
 承諾が早い。
 なんだか、とんでもない過ちを犯してしまったような気がするのは何故だろうか。
 もしかしたら、このままズルズルと深みに入り込んで、抜け出せなくなってしまうような……。
 いや、そんなことはない!
 ない……はずだ。
 少し心細くなりながらも、デューイは冷たい汗を滲ませながら――滲ませるような気分になりながら、ビンの中で身震いをした。
 ――一瞬で終わる。
 ――一瞬で終わるから、ほんのちょっとの辛抱……。


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