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十三夜 聖なる叡智(ハギア・ソフィア)

十三夜 聖なる叡智 11

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「あの話……そう、あの話です!」
 何の話か解らないまま、デューイが言うと、
「何かねぇ、新興宗教みたいな――宣教師、っていうの? すっごい美形なんだけど、近い内に異教の聖堂で、この世の至宝に値するものが生まれるとか、予言めいたことを――」
「はあ……?」
 その話は、デューイが問いかけたおしゃべり好きの女性だけが知っていた訳ではなく、猫や草花でさえ問いかければ応えてくれそうなほどに、一種の流行りもののように広まっていた。
「――ったく、愉しんでやがるな、あいつ」
 そんなことを噂で広めるくらいなら、面と向かってデューイや索冥に舜の居場所を伝えればいいではないか。二週間もかけて、地道に噂を広めて歩くなど。
 もちろん、かなり長く生き過ぎているあの青年が、どんな方法で人生を楽しもうと、余程のことでなければ許されるのかもしれないが。
 行く先々で昨今のRPGゲームのように情報を手に入れ、二人が行きついたのが、このトルコのイスタンブールの大聖堂、アヤ・ソフィアであったのだ。
 時刻は夕暮れ――。
 じきに完全に陽が落ちる。
 エフェソスのアルテミス神殿から運び込まれた青い柱や、レバノンのバールベック神殿から運び込まれた紅色の柱が、巨大なドーム型の屋根と共にライトアップされ、イスタンブール最大の見どころたる観光地を、幻想的に照らし出す。
 閉館時間が十七時のため、聖堂内はもちろん、観光客の姿はないのだが。
 とはいえ、イスタンブールの繁華街では、夜中近くになっても人は途切れず――それどころか、歩くのにも困るほどの人波と喧騒。
 国民のほとんどがイスラム教徒であるというのに、酒もダンスも明け方近くまで続いている。
 その中、閉館後、静かになったアヤ・ソフィアに足を踏み入れ、デューイと索冥はその巨大な建造物を見渡した。
 これは、大袈裟でも比喩でも何でもない。本当に、見渡さなくてはならない大きさの聖堂だったのだ。高さ54メートル、直径30メートルのドームを見上げると、まるでちっぽけな蟻になってしまったかのように感じてしまう。
 この壮大さ、そして深い歴史は、悪寒と吐き気にガタガタと震えていたデューイの宗教的嫌悪さえ、飲み込んでいた。
 もちろん、二人がどうやってアヤ・ソフィアの中に入ったのかは言うまでもないだろうが――、警備員に見つかっても、デューイには赤眼を使って何事もなかったことに出来るし、同じ効果を使って、頑強なカギを開けさせることも出来る。
 取り敢えず、暴力的な手段は使わなかった、とだけ書いておこう。
「――でも、舜はこのアヤ・ソフィアの何処にいるんだ?」
 夜目が効くとはいえ、隠し戸や隠し扉、その他仕掛けの類が見出せる訳ではない。ましてや、黄帝が舜の体を何処に隠したのかなど、想像もつかない。
 デューイは、早くも途方に暮れることになってしまった展開に消沈した。
 もしかすると、まだ聞くことが出来なかった情報があるのかも知れない。黄帝が広めた噂を辿ってここまで来た訳だが、何分、言葉の壁、というものもある。正確に聞き取れなかった情報があるのかも知れない。
 それとも、ここに舜が封印されている訳ではなく、聖堂内の何処かに手掛かりだけが残されているのだろうか。
 どちらにしても、この広さの中を探し回るのは、大変である。
 アッラーの神や使徒の名の刻まれた黒い円盤が、遥か頭上の壁に掲げられている。その黒い円盤自体が、直径7.5メートルもある。そこに刻まれた文字が、何かを示しているとか……。
 デューイは二階に駆け上がり、回廊の柱から身を乗り出し、その円盤を間近で見たが……大き過ぎて、全ては見えない。
 意を察した索冥が、難なく空間に身を浮かべ、全ての円盤を見て回る。が――。
「何かを加えた後はないな」
 どうやら、これではないらしい。
 だとすれば、柱の中に埋め込まれているとか、壁に塗り込められているとか――いやいや、それでは、ホラーである。黒猫が出てきたら、恐ろしい。
 壁には美しいモザイク画が描かれているというのに、それをゆっくりと堪能する時間も取れないなど――。モザイク画は残念なことに、その大半が地震や盗難によって失われ、キリスト教の大聖堂から、イスラム教のモスクへと変わる時には漆喰で塗りつぶされ――もちろん今はその部分も修復されているが、ほぼ完全な姿で残っているのは、天井近くの一枚だけである。
 遠くからだと一枚の壁画にしか見えないそれも、近づいてみると、様々な色の小さな欠片が貼り付けられた、細かい芸術であることが見て取れる。
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