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十三夜 聖なる叡智(ハギア・ソフィア)

十三夜 聖なる叡智 10

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 アジア大陸の最端にあり、東西の文化を併せ持つ稀少な大地でもある国、土耳古トルコ――。
 イスラム国家でありながら、他のイスラム諸国とは違い、非宗教的世俗国家として宗教と政治を切り離して歩んでいる。
 歴史的な重みを感じさせる街並みや、寒暑の差の激しい高原地帯、エーゲ海を臨む美しい入り江……ここは、東と西の美しいものが集う、聖なる街、伊斯坦布爾イスタンブール……。
 海岸近くまで山々が覆うこの地では、気温の上がる夏でも北風で過ごしやすく、冬も比較的温暖である。
 その昔、東ローマ帝国の首都として、コンスタンチノープルと呼ばれた美しい建造物の犇めく街に立ち、デューイは全身が泡立つ悪寒に身を縮めた。
「どうかしたのか?」
 そう問いかけたのは、索冥である。純白の眩しい髪がよく目立つが、昨今の若者たちの間では驚くほどの髪色ではないのか、その髪色よりも幻想と神秘に満ちた面貌の方が、街の人々や観光客の目を惹きつけている。
 そんな少年と並んで歩き、
「聖堂や宗教的建造物が……怖い」
 本当に世話の焼ける青年である。
 デューイは真っ青になりながら、ただひたすらに地面だけを見据えている。
「イスラム教徒だった時代があるのか?」
「ない」
「……」
 ――なら、関係ないだろ!
 まあ、イスラム教とてキリスト教の流れをくむ神教ではあるのだが……。それを言い出せば限がない。少しは慣れてもらわないと。
「ここが、コンスタンチヌスが智の神に捧げた最初の聖堂なんだから、きっとここだろ」
 あちこちから美しく壮麗な異教の神殿の柱を持ってきて建てた大聖堂、アヤ・ソフィア――。デューイには内緒だが、キリスト教の聖堂として建築され、後にカトリック教の大聖堂とされた建築物でもある。俗世にさらされる今も尚、デューイが近づくのを嫌がるのは尤もなのだ。
「な、中に入ったら、死ぬかも……」
「ふーん。なら、もう帰るか」
 そう言われては、デューイも決意を思い出すしかない。
「――舜がここにいるのなら……」
 死んでもいいが、会ってから死にたい。
 そもそも、デューイと索冥が、何故このイスタンブールまで遠路はるばるやって来たのかというと……。




 山を降り、大きな街へ出て訊いて回ると、長い黒髪を編んだ幻想的な青年の話は、今や誰もの知るところとなっていた。
 それはそうだろう。月の神とも見紛うようなあの人外の容貌を目の当たりにして、口さがない者たちのお喋りを封じることなど出来はしない。
「すみません。街で訊けばすぐに判ると言われたんですけど……」
 行き交う人々の一人に、デューイがそう言って尋ねると、
「ああ、あの話?」
「???」
 いや、どの話なのかは知らないが。
『舜くんが今何処にいるか、ですか? ――そうですねぇ……。街で訊けばすぐに判りますよ。あちこちで喋って来ましたから』
 と、黄帝にそう言われて、あの奇峰の最高峰を下りて来たのだ。ちょうど、索冥も戻って来ていて――結局、《雪精霊の結晶》の気配は掴めなかったらしく――二人で出掛けることにしたのである。
『俗世を知るのもいいものですよ、索冥。――虞氏も民衆の心を知りたいと、いつも願っていたでしょう?』
 何だかうまく丸めこまれたような気がしないでもないが、そんな訳で二人は地上を行く俗世の旅に出たのである。――いや、まさかイスタンブールまで来る旅になるとは思ってもいなかったが。


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