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十二夜 貨殖聚斂(かしょくしゅうれん)の李(り)
十二夜 貨殖聚斂の李 2
しおりを挟む「開いたっ!」
どんなことをしても開かなかった扉が、不意に開いたことに驚き、舜は思わず声を上げ、慌てて両手で口を押さえた。
せっかく封印が解けたというのに、黄帝を起こしてしまっては元も子もない。見つかってしまったら、母親の所へ行くことも出来ないのだ。
――母親……。
一年前のあの日に引き離されたっきり、一度も会えずに過ごしている。黄帝はいつか会えると言っていたが、あの極悪非道の父親の言うことなど、素直に信じられるはずもない。
何しろ――。いや、こんな処で物想いに耽っている場合ではない。早いところ、こんな家など飛び出してしまわなくては。
もちろん、一人で家の外に出るのは初めてだが、黄帝に断崖の下へ突き落とされたことはあるのだから(注:幼い舜の記憶ではそうなっている)、外へ出ること自体は初めてではない。
期待に胸を膨らませ、舜は最初の一歩を踏み出した。
もちろん、母親に会えることへの期待である。
踏み出した先は扉の外、断崖絶壁に張り出した、数メートルの平らな岩肌の上である。
陽はすでに西に傾き始め、遠くの町々でせかせかと動き回る人々や風が巻き上げる砂埃で、わずかながらに陽射しを遮ってくれている。
それでも、蒼白く、陽に弱い舜の肌は、ヒリヒリと焼けるような痛みに苛まれた。悪寒が駆け抜け、高熱に見舞われるようなだるさを感じる。体は逆に、雪のように冷たいというのに。
そして、断崖に張り出した岩肌に立った舜の目の前には――。
「なんだ、このチビ? まさか、こいつ――じゃないよな……?」
上から下まで、舜の姿を舐めまわし――といっても、ちっちゃいので、大した時間はかからないのだが、この奇峰の最高峰にまで難なく登って来ている少年は言った。
十五、六歳の少年である。髪は、砂糖よりも色を含まない純白で、この大陸の――黄色の肌に、眩しく映った。
黄帝も白髪だが、ここまで真っ白な髪ではなく、月のような銀色の輝きに彩られている。
眩し過ぎて目を細めたくなるような彼の純白の髪は、人ではない何かを感じさせた。
それにしても、この少年……。
「じゃあ、帰るわ」
何をしに来たのか、解らない!
素っ気ない素振りでそう言うと、断崖絶壁の張り出しの向こうに、ためらいもなく足を踏み出したのである。
眼下は、目の眩む高さの岩場である。
普通の人間なら、その岩肌に叩きつけられ、間違いなく命を落とすことだろう。
だが、その少年は、空間に道でもあるかのように、落ちることもなく浮かんでいた。
羽はない。
舜や黄帝のように、空を翔ける翼もないのに、自らの力で虚空に留まっているのである。
現実問題として、舜も空を飛べるが、母親のいる町への行き方は知らない。
そこはとても遠いらしく、匂いも何も判らない。
となると、誰かに訊くしか方法はない。
目の前には、舜と同じように空を翔けることが出来る、少年がいる。
「ぼくも行く!」
舜は咄嗟に断崖から飛び出し、背中に同化させていた翼を広げ、その少年の服の裾を掴み取った。
清代の長袍のような長衣で、まだ少年らしい体躯を忠実になぞる純白のその装束には、美しい銀糸と黄糸で吉祥紋様の刺繍が施されている。
蝙蝠のような漆黒の翼をピコピコと羽ばたかせ、舜は、しっかりとその長袍にしがみついた。
「――行くって……、俺は帰るんだよ」
蝶をつまむように、舜の薄い翼をつまみ上げ、少年は煩わしそうに眉を寄せた。
「じゃあ、ぼくも帰る」
ここから逃げ出すことが出来るのなら、取り敢えずの目的地は何処でもいい。
「うーん、何だろ、この感じ……。おまえの『気』ってなんか読み辛いよなァ」
さらに白い眉毛が寄った。
『気』とは、この中国では万物を構成する要素である。それが読めないということは――いや、通常なら読めるということは、やはり彼はただの少年ではないのだろう。
「まあ、まだチビだしなァ。――それにしても、雑多な『気』だな……。最初は一色の『気』だけに見えるのに、こんなに色々なものが混ざって――というか、混ぜてあるのか?」
何やらブツブツと呟きながら、
「まさか、な……。これだけのものを計算して混ぜられる訳が無い。――それに、この一色の『気』――」
「ねーっ、早く! 見つかったら殺されるぅ!」
こんなにのんびりとしていては、陽が暮れて黄帝が起き出してしまう。
舜は、動き出さない少年に苛立ち、羽虫のようにつままれる体をくねらせた。
「殺されるって……大袈裟な奴」
少しも大袈裟などではなく、これまで何度もそんな目に遭って来たのだが、何故だか皆、黄帝の言葉の方を信じるのである。
「早くぅ!」
舜はもう一度、少年を急かせた。
「……まあ、あいつらにも見せてやるか」
かくして、やっと、この牢獄のような我が家を離れることが出来たのである……。
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