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九夜 死霊の迷霧(めいむ)

九夜 死霊の迷霧 11

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「おや、早かったのですね、舜くん。もう少し時間がかかるかと思っていましたが……死ななかったのですか?」
 舜がボロボロになりながら、奇峰の最高峰の居に戻ると、やはりのんびりとした口調で、黄帝は言った。
 舜は、その父親の姿を、キッ、と睨み、母親の顔を見るなり、うるうると瞳に涙を溜め、
「かーさまぁ――っ」
 と、その胸の中へと、飛び込んだ。
 柔らかくて、暖かい感触が、ふわり、と広がる。
「まあま、よく頑張りましたね、舜。大丈夫でしたか?」
 普通、崖から落ちて大丈夫なはずもないと思うのだが……この母親の方も、やはり、普通とは違っている。まあ、息子を労る心があるだけ、まだ母親と呼べるだろうか。
「大丈夫じゃないもんっ。ぼく、とーさまに落とされて、羽根もボロボロに焼けて、岩にゴンってぶつかって、すごく痛くて――っ。ぜんぜん、大丈夫じゃないもんっ」
 充分、大丈夫そうである。
 彼もまた、死に切れない一族の民なのだ。そして、黄帝に最も近い体質を持つ、凄まじい力を秘める存在である。
「ぼく、何も悪いことしてないのに……」
 舜は、ギュっ、と唇を結んだ。
 少し(かなり)暴れてしまったような気はするが、本当に痛かったのだから、仕方がない。それに、その後、もっと痛い目に遭ってしまったのだから。
「ええ、解っていますよ。――さあ、体を拭いて、服を着替えましょう」
 血塗れの服を見ながら、碧雲は言った。
「……いたくて、ひとりで着替えられない」
 甘えたいばかりの子供である。
 碧雲も、その舜の言葉に、クスクスと笑い、舜の着替えを手伝ってやった。
 黄帝は何をしていたのか、というと、あふ、と欠伸などしていたのである。
 それでも一応、父親らしいことも言わなくてはならないのか、
「今日は太陽に慣れさせてあげるだけの積もりだったのですが、落ちてしまったものは仕方ありませんし……。ほら、舜くんがあんまり暴れるものですから」
 どうやら、反省はしていないらしい。
「ちがうもんっ。最初から、ぼくを落とすつもりだったんだもんっ」
 舜の方は、すっかり父親不信である。
「はぁ……。まあ、人それぞれ、受け取り方も違いますし……」
「ぼく、かーさまといっしょに、街で暮らすっ」
 舜は高らかに、その決意を、宣言した。
「は? 街、ですか……」
「街の人、やさしいもんっ」
「おや、舜くんはもう、街の人に逢ったのですか?」
「話もしたもんっ」
 舜はもう、大威張り、である。
「うーん……」
 と、黄帝は何やら、考え込んでいる。――いや、スタイルとしては、考え込んでいるのだが、この青年の場合、どうも、信憑性に欠ける。
 第一、たまたま断崖の下に人がいる時に、たまたま舜を外に連れ出して、たまたま落としてしまったというのも、出来過ぎている。
 もちろん、本当にたまたまだった、ということも有り得るのだろうが、この青年が絡んでいる限り、何か裏があっても、おかしくはない。
 たとえ、本人は惚けていても。
「ですけどね、舜くん。君はまだ、咬みグセが治っていませんし、街で暮らしたりしたら、周りの人を咬んで、迷惑をかけることになると思うのですよ、私は」
「ぼく、咬まなかったもん。街の人見ても、匂いを嗅いでも、咬みたい、って思わなかったもん。だから、ちゃんと街で暮らせるっ」
 デン、っと胸を張って、舜は言った。
 そのというのは、喉の渇きを我慢しているために、つい、そこら中のものを咬んで、気を紛らわせてしまう、というものなのだが、その対象が人間となった場合、血まで吸ってしまうことになるので、大変なのである。
『夜の一族』は、嗅覚、視覚、聴覚、味覚、触覚の五感はもちろん、第六感さえも、普通の人間とは掛け離れて優れているために、肌の上からでも血の匂いを嗅げ、血の流れる音を聞くことが出来るのだ。
 そして、そのために、余計に、血への欲望を抑えることが、難しい。大人でさえも、その欲望を抑え切れずに、人間を襲ってしまうことがあるのだから、舜のように幼い子供なら、尚更である。
 そして、黄帝は、人間を襲う一族の者を、容赦なく殺してしまうのだ。たとえ、それが我が子であっても。
「うーん……。まあ、それは別問題として、またゆっくり考えておきましょう」
 幼い舜は、まだ知らないが、この青年、ゆっくり考える、と言ったら、本当にゆっくり……数年に渡って考え続けることなど、ザラなのである。
 まあ、いつかは舜も知ることになるだろうが。
「それに、今は、を放ってはおけませんから」


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