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九夜 死霊の迷霧(めいむ)

九夜 死霊の迷霧 12

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 奇峰の頂近くまで登ってみても、住居の入り口と思えるものは、何も、なかった。
 ただ、堅い岩ばかりの絶壁である。
 確かに、頂付近は少し張り出し、まるで玄関ポーチのようになっているのだが、それでも、そこには、何もない。
 一条は、息も乱さず、その張り出した部分に飛び移り、しばらく、幻想的な雲海の見事さを、眺めていた。
 一年前のあの日は、ここまで辿り着くことも出来なかったのだ。途中の岩肌で足を滑らせ、今日の舜と同じように、激しく岩場に叩きつけられた。
 今思えば、あの出来事が、己の想いをはっきりとさせるものであったのかも、知れない。
 カメラのフラッシュを焚き続ける中、頭の中に過るのは、滝の顔ばかりであったのだ。 もちろん、その想いに気づいたのは、ずっと前で、何年も心に秘め、打ち消そうと努力して来た。そして、滝がアメリカに行って、もう忘れられる、と思っていた。
 だが、結局、その想いは消えることはなかったのだ。だからといって、どうにか出来る、というものでは、ない。それは決して、適えられることのない想いであったのだ。
 不意に、背後で、物音が、した。
 静かすぎる――風が流れる程度の、音である。
 それでも一条は、ハッとして、後ろの断崖を振り返った。
 そこには――。
 そこには、あの日に見た、美しい銀髪の青年が、立っていた。岩壁が、ドアのようにポッカリと開け、そこから、その青年が出て来たのだ。
 中は――住居の様子は、外からでは、見えない。ただ、黒いだけの空間である。
 それでも、今の一条には、そんなことは、関係なかった。
 目の前の青年の美しさに魅せられていた、と言ってもいい。そのあまりの麗容に、恍惚と頬を染めていたのだ。
 この世に存在し得る気配では、なかった。まさしく、神としか呼べない美しさであったのだ。或いは、魔物としか呼べない……。
「あ、あの……」
 声すら掠れて、出て来なかった。
 全身が総毛立つような、人外の神秘を感じていた。
 その一条に、
「どうぞ、中に入ってください。風邪を引きますよ。舜くんの命の恩人を、そんな目に遭わせては申し訳ないですから」
 銀髪の麗人、黄帝は、容姿とは全くそぐわない、のんびりとした口調で、そう言った。
 だが、不思議とそれも似合うような気がして、違和感というものは、感じなかった。
 一条は、促されるままに、中へと入った。
 傍から見れば、夢遊病者のような、そんな動きであったかも、知れない。
 大理石に彩られるその空間には、どう見ても、イタリー製としか思えない、豪華な革張りのソファ・セットが置いてあった。
「さあ、どうぞ掛けてください」
 美しいばかりの声である。
 一条は、半ば催眠状態で、そのソファの一つに、腰を下ろした。
 銀髪の麗人は、一条の前に、腰掛けている。
 いつの時代のものなのかも判らない乳白色の衣も、その青年が身に持つ雰囲気も、人間が見てはいけないものだ、というような気がしていた。
 怖い、のだ。
 変な言い方だが、とてつもなく恐ろしくて、たまらない。それほど優しげで、玲瓏極まりない青年である、というのに――。
「ほしいっ。ぼくも、ほしい。それ、飲みたいっ」
 不意に、幼子の声が耳に届き、一条は、ハッと我に返って、顔を上げた。
 見れば、きれい、としか形容できない女性が運ぶお茶を、小さな子供が、ねだっている。
 岩場に落ちて来た幼子である。
「これはお客様に出す分ですから、駄目ですよ」
 と、たしなめられて、しゅん、としている。
「あ、ぼくは結構ですから、彼に――」
 と、一条は立ち上がりかけたが、
「いいのですよ。――碧雲、私の分を、舜くんに上げてください」
 黄帝が言った。
 どこから見ても、優しいばかりの父親である。
 舜は、望み通りにお茶をもらえて、喜々としている。
 だが、一口、そのお茶を含んで、涙目になった。
 ほしい、と言った手前、泣くのを我慢しているように見えるが、どう見ても泣きたいほどに不味そうな顔である。
 そのお茶が、一条の前にも置かれたものだから、一条としては、
「あ……どうも……」
 やはり、いくら不味そうとはいえ、哀しいかな、日本人というのは、断れない。それに、匂いはとてつもなく美味しそうなのである。
「あ、舜くんの顔は気にしないでください。あなたには美味しいはずですから」
 どういう意味を持つものか、黄帝にそう言われては、一条も口をつけない訳にはいかず、恐る恐る、紅茶のカップを持ち上げた。
 一口含み、
「あ……」
 一条は、その紅茶の美味しさに、目を瞠った。
 いつも飲んでいるインスタントとは、大違いである。
「ね、美味しいでしょう?」
 と、黄帝が言った。
 神とは思えぬ気さくさである。
「ええ、とても」
 この紅茶なら、幼子でも美味しいと思えるはずなのだが――まあ、人には好き嫌いがあるのだから、あえて、問題にする必要もないのだろう。
 それに、すっかり、黄帝につられて和んでしまっていたが、一条は、ここに紅茶を飲みに来た訳ではないのである。


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