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三夜 煬帝(ようだい)の柩

三夜 煬帝の柩 4

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「舜!」
 デューイはその光景を見て、目を瞠った。
 舜は心臓に張り付いた盃に爪を立て、何とか引き剥がそうとしているが、もう盃は微動ともしない。
「ぐうっ!」
 喉を詰めるような呻きが、上がった。舜が零した呻きである。
 盃は、舜の皮膚を弾き割り、血を全身に送り出している心臓から、勢いよく血を吸い始めている。それは、血の匂い一つ残すまい、とするかのような、悍ましくも壮絶な光景であった。
 瞬く間に舜の体内から血液が失われていることは、傍(はた)で見ていても、容易に知り得た。
「黄帝様、お願いですっ。舜を助けてください!」
 デューイは、逼迫した面で、黄帝に縋った。
 舜や黄帝より遥かに力の劣るデューイには、そうして頼み込むことしか出来ないのである。
 もとより、舜や黄帝は、『一族』の中でも特別であり、その力も才もズバ抜けている。
 その舜が手に負えないのだから、デューイごときの手に負えるような代物ではない。
「困りましたねぇ……。ぼくは、舜くんが『助けてほしい』と言った時にしか、手を貸さないことにしているのですよ」
「ですが、今の舜には、そんなことを言う余力も――」
「おや、もう無理みたいですよ」
 そう言って、黄帝が視線を向けた先には、血を吸い尽くされて、ミイラと化した舜が、いた。
 文字通り、《聚首歓宴の盃》は、あっと言う間に、舜の血を吸い尽くしてしまったのだ。
 何という恐ろしい盃なのであろうか。
 だが、血を糧とする『一族』の者には、喉から手が出るほどに欲しいものであったに、違いない。自ら人を襲い、主に尽きることのない血をもたらしてくれる《聚首歓宴の盃》は、またとない貴重な宝なのだ。
「やはり、さっき死相が出ていましたからねぇ……。私も後継者を亡くしたのは残念ですが、諦めるしかないでしょう」
 あっさりと息子を諦めてしまうこの青年も、呪われた盃以上に、恐ろしい。
「彼のように、私に近い存在は滅多に生まれて来ないのですが――。次は、何千年先に生まれて来ることやら。頭が痛い限りですよ」
 などと、唇を歪めながら、一応、それらしく腕など組んでいる。
「こんな……こんなことが……」
 デューイは、ミイラと化した舜を見て、ただ呆然と立ち尽くしていた。
 舜の血を吸い付くした盃が、さらなる血を求めるように、デューイ目がけて飛翔して来たのは、その時であった。
「うわあっ!」
 デューイは、頭を抱え込むようにして、体を丸めた。
 さっきも言ったように、舜の手に負えなかった盃が、デューイの手に負えるはずもないのである。
 だが、盃はいつまで経ってもデューイの心臓には張り付かず、部屋も静かなままであった。
 デューイは恐る恐る、顔を上げた。
 そこには、人差し指と親指で、軽々と盃を制している黄帝の姿が、あった。やはり、桁違いの化け物なのだ、この美しい青年は。
「黄帝様……」
「大切なお客様に手を出させるようなことはしませんから、安心してください。私の息子のせいで、あなたを街で暮らせないようにしたばかりでなく、またこんなことに巻き込んでしまうなど、とんでもありませんから」
 その気遣いを、少しは息子にも向けてもらいたい、と、舜が生きていたなら、必ずや思ったことであろう。――いや、その青年に気遣ってもらった日には、気味が悪くて発狂していたかも知れない。
 とにかく、死んでしまった今は、もうそんなことなど関係ない訳である。
「さて、まだ夜明けまでには間がありますから、私は腕の良い棺桶屋さんに行って、舜くんの柩を造ってもらえるよう、頼んで来ます。さすがに、このまま床に置いておくのは可哀想ですし、邪魔ですから」
 目の前で息子を亡くしておきながら、相変わらず酷い言葉を残して、黄帝は玄関の方へと翻って行った。
 血も涙もない青年なのである、彼は。
 ドアの向こうには、雲海に包まれる水墨画の世界が広がっている。数十もの奇峰が雲海から突き出すその様は、秘境としか言いようのない神秘を映している。
 標高一九〇〇メートルの最高峰から見るその様は、まさに、圧倒される幻想的な世界であった。
 そして、何よりも幻想的なのが、今、その世界を前にしている、銀髪の青年である。
 彼は、月が薄く灯る中、優美な飛翔で、雲海の中へと身を投じた。その背には、蝙蝠のような、漆黒の翼が閃いている。
 そんな翼を持つ青年とは、一体、何者なのか。
 漆黒の翼で、夜の中に羽ばたく彼の姿は、虜になるに充分なものであっただろう。
 デューイもしばし、その美しさに見惚れていた。
 夜を翔る漆黒の翼は、『一族』の中でも、黄帝と、その黄帝の体質を最も忠実に受け継いでいる舜だけしか持っていないもので、デューイの背中には、かけらもない。
 それだけでも、彼らは他の『一族』の者とは、別格なのだ。
 デューイが、床に横たわる舜のミイラのことを思い出したのは、それから三〇分後のことであった……。



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