上 下
66 / 533
三夜 煬帝(ようだい)の柩

三夜 煬帝の柩 3

しおりを挟む




 かくして、話は再び、《聚首歓宴の盃》のことに戻る訳である。皆様も、ここでお疲れになどなってはいけない。
 何しろ、この青年、一つの話を数カ月間、はぐらかし続けることなど、お手の物なのである。
 舜も、その青年が相手でなければ、気の長い少年なのだ、ということが解っていただけただろう。
 ずん、っと舜は、黄帝の前に、盃を渡せ、とでも言うように、無言で右手を差し出した。
「おや、死相が出ていますよ、舜くん」
 ここで怒らない人間がいるだろうか。
 「誰が手相を見ろって言ったんだよっ!」
 舜の怒りも、ついに堪え切れずに、爆発した。
「本当はオレに、盃を渡したくないだけなんだろ!」
「んー……。やっぱり、解りますか」
「クソォっ! さっさと渡せったら――っ」
 舜は勢いに任せて、黄帝の手から、《聚首歓宴の盃》を取り上げた。
 当然、黄帝は、何の苦もなくそれを躱す――と、舜自身思っていたのだが、黄帝は手を引っ込めることもせず、《聚首歓宴の盃》は、めでたく舜の手の中に収まっていた。――いや、それは『めでたく』なのであろうか。
「く……っ! 何なんだよ、これ……っ」
 舜の手の中の盃は、凄まじい力で、舜の心臓を襲わんとしていた。両手を使って引き離そうとしても、列車を素手で止めようとしている時と同じように、予測もつかない大きな力で、襲い掛かって来るのだ。
 しかし、目の前の青年は、その盃を片手で易々と扱っていたではないか。さっきまで盃は、何の変哲もない盃と同じように、黄帝の手の中でおとなしくしていたのだ。
 こんなことになるなど、誰が想像し得たであろうか。
 舜の面貌は、盃を押し戻そうとする渾身の力のために、早くも真っ赤に染まっていた。
 普段は神秘的な蒼白い面貌が、そんな風に真っ赤に染まるなど、滅多にないことである。
 それを見ただけでも、その盃がどれほど凄まじい力で、舜の心臓を狙っているのかは、容易に知り得る。普通の人間なら、ほんの〇.一秒も耐えていられなかったに違いない。
「く……クソォ……っ」
 舜の手も、ジリジリと盃に押されている。
 あと三〇秒と経たずに、盃の餌食になってしまうことは、間違いない。
 盃は、稀代の殺人鬼、張献忠の狂気のまま、赤い血を求めているのだ。
「だから、私がいつも言っているでしょう、舜くん。人の話はきちんと最後まで聞くものですよ」
 この青年、自分の息子が盃に襲われようとしているのに、相変わらずのんびりとしたままである。
「黄帝様、舜を助けてください! このままでは、舜が――っ」
 デューイの方は、半年前まで人間であっただけあって、ごく当たり前の反応である。
 いや、『夜の一族』の中では当たり前ではないのかも知れないが、そこは、まだ『一族』になって半年しか経っていないデューイのことであるから、知りようもない。
 だが、わずか数十年の生命しか持たない人間と、永遠にも等しい生命を持つ、彼ら『夜の一族』が、同じ考え方をしている、ということの方が、おかしいのではないだろうか。
 同じであってはいけないのだ。
 その中、舜が普通の少年と同じように反抗的なのは、彼がまだ十六、七年しか生きていない子供だから、だとはいえないか。
「んー……。ですがね、デューイさん。舜くんは、私に助けられることを厭がると思うのですよ」
 舜の生死がかかっている今、そういう問題ではないと思えるのだが、この青年、やはり人間とは掛け離れた考えを持っている。
 盃はもう、舜の心臓の上、皮膚まで数ミリ、というところまで来ている。
 舜は相変わらず、盃を押し戻そうとしているが、盃の力の方が、さらに強い。
 なら、その盃を片手で易々と扱っていた青年の力、とは――。
「黄帝様――」
「大丈夫ですよ、デューイさん。私は、舜くんが私の後継者として、毎日修行に励んで来た、と信じていますら。その修行の成果があれば、《聚首歓宴の盃》くらい簡単に扱えますよ」
 とことん性格の悪い青年である。
 盃が舜の心臓の上に張り付いたのは、その言葉が終わってすぐのことであった。



しおりを挟む

処理中です...