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本編
第九話 認識の齟齬がありましたら、ご連絡ください。
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サトシが自分の体に戻った時間は夜だった。だるい瞼を持ち上げて上を見ると、月明りでぼぅっと白い天井が見えた。
自室、ベッドの上だ。日時は分からない。
週末だったらよいのだが。そうサトシは思った。
ヌージィガでの時間の流れは、現実世界の時間の流れよりも早い気がする。
どれくらい早いのかは測定できないが、二倍くらいのスピードで進んでいるのではないかと思った。
「起きたの?」
不意に聞こえる女性の声。
サトシは腕の中にユカがいることに気づいた。
ユカは優しい目でサトシを見つめていた。
「あぁ。寝てたのか、俺」
「うん、少しだけ」
空腹感はない。何かを食べた後なのだろう。
楽しい食事の時間をユカと過ごし、そして今この時間を迎えているんだと理解した。
「俺が俺じゃない時間」二人はどのように過ごしたのだろう。
ユカはきっと「俺ではない」ことに気付かず一緒にいたんだろう。
そのことについて彼女は悪くはない。
それは分かっていたが、サトシは嫉妬を感じた。
これまでに感じた事の無い腹の底が冷えるような感情だ。
その症状……サトシとタケルの入れ替わりは子供の頃からあった。
小さいときはいつも二人一緒だったから問題はなかったが、大きくなるにつれ二人の間には少しずつではあったが差分が生まれた。
兄弟はシンプルな三つのルールを作った。
一つ、自分も相手も大事にすること。
二つ、秘密を持たないこと。
三つ、なんでも二人で分け合うこと。
「なんでも二人で分け合うこと」この言葉の重さをこんな形で知ることになるとは思ってもみなかった。
サトシはユカを力いっぱいに抱きしめた。逃げられないように、離れないように。
そうしていないと誰かのものになってしまいそうだったからだ。
「どうしたの?」
ユカは息苦しそうに訊いた。
「ユカは俺のものだ」
「うん……そうだよ」
「ユカは俺のものだ」
「はい……私はサトシさんのものです」
二人の時間に「何があったのか」なんて気にしないようにしよう。
今、彼女と一緒にいられる時間を俺なりの距離感で大事にしよう。
サトシは一生懸命自分にそう言い聞かせ、不安を払拭しようとした。
ユカの腰に手を回す、彼女は……
下着を着けていなかった!
絶望! 悔恨! 憤怒! なんという言葉で表せばよいのかサトシには解らなかった。
奥手なサトシでも分かる。分かってしまう。
何が起こったのか。二人が何をしたのか。
失われたのだ。
彼女の新雪は訪問者によって踏み荒らされたのだ。
そのことを彼女自身が気付くこともなく。
自分が涙を流している事に気付いたのは、ユカが優しく頬を拭ってくれたからだ。
微笑みながら彼女はサトシの頬を撫で、頭を撫でてくれた。
どれくらいの時間が経っただろう。
ユカは「もう帰らないと」と言い、布団の中で下着を着ける。
そして布団から出て洋服を着、ユニットバスの洗面台で髪の毛を整えた。
サトシも服を着、部屋の明かりを点ける。
「サトシさん……」
ユカがサトシの胸に頭をぶつける。
「……ごめんね、次は頑張るから」
「ユカ、愛している」
サトシたちは長いキスを交わした。
◇
ユカを最寄り駅まで送り、アパートへと戻る。
スマホを取り出し、今は日曜日の夜であることを確認した。
明日は仕事だ。ユカとどのように接すれば良いんだろう。
きっとこの気持ちは明日も晴れることはないだろう。
ヴヴヴ……
スマホが短くバイブし画面上部に吹き出しの形をした通知アイコンが表示された。
チャットアプリを起動する。猫のアイコン。ユカだ。
ユカ「今日はありがとうでした」
自分「こちらこそありがとう」
ユカ「サトシさんの部屋ほんとにものが無くて」
ユカ「ビックリでした」
自分「あまりモノに執着ないからね汗」
ユカ「一つの器で順番にご飯を頂いたのは」
ユカ「楽しかったです」
自分「あはは、お恥ずかしい」
ユカ「今日の事ごめんなさいでした」
自分「なんの事? 謝る事あった?」
ユカ「優しいですね」
自分「いや、そんな事ないよ」
ユカ「男の人の部屋に行くって事を」
ユカ「覚悟が足りなかったのかなと思います」
ユカ「思いを受け止められなかったのは」
ユカ「嫌だからではないのです」
ユカ「もう少し待って下さい」
ユカ「今はまだ怖いのです」
二人の間に何があったのだろう。
ユカの言葉は何を意味しているんだろう。
詳しいことは分からないが、文面からはサトシの懸念は未遂で終わったように見えた。
ほっとした気持ちを感じるとともに、サトシは自分の中の汚い嫉妬心に嫌気がさした。
頭が冷えてサトシは思った。
――たとえ何があってもユカの事を受け入れよう。
この日は戦闘の気疲れもあったのか、帰宅後すぐに眠ることができた。
◇
翌日、普段通りの時刻に出社する。
いつも通りユカがオフィス内の掃除をしている。
「おはよう、新田さん」
「おはようございます、片山さん」
誰が見てるわけでもないが、会社ではビジネスライクな呼び方を心掛けている。
「ふぁぁ……おはよー……」
応接室から唐澤がのっそりと現れた。
無精ひげにポロシャツ、ジーンズ姿だ。土日に徹夜が発生したのだろう。
「おう、唐澤。炎上してんの?」
「炎上も何もねぇよ。ホントにバカみたいに仕様膨らんじゃってさ。しかも営業のグッさんがそれで話飲んじゃうんだもん。ありえねぇよ」
グッさんと言うのは、営業部の田口営業部長の事だ。
案件をドシドシ取ってくるのは良いのだが、その場の空気ですぐにディスカウントしてしまうので、現場からしてみると死神のような男だ。
「んで、どんなもんなんだ?」
「明日の朝に初回の一式納品なんだけど、現時点で進捗率8割ってところ」
唐澤は寝起きのムスッとした顔のまま恨めしそうに言う。
「画面数で確か六画面か。間に合うのか?」
「やるしかねぇから、こんなことになってんだろ」
「ですよねー」
「ユカちゃん貸してよー」
唐澤がユカの方を見ながら人貸しの打診をしてくる。
システム開発業界では、炎上しているプロジェクトに他プロジェクトからワンタイムで人が貸されるっていうのは珍しいことではない。
「貸せねぇよ。こっちの大事なメンバーなんだから」
今、サトシのプロジェクトは概ね順調だったので貸しても良かったのだが、何となくやり取りの流れで断った。
唐澤も本気ではなかった。
ユカはサトシと唐澤のやり取りを見て微笑んでいる。
「……ん? ……あれ?」
突然唐澤がサトシとユカの顔を交互に見て、何かに気付いたような顔をした。
「どした? 唐澤」
「おい、片山。ちょっと喫煙室いこうぜ。ユカちゃん、片山借りてくよー」
いきなりガシっと肩を組んでくる唐澤。その顔はニヤニヤしている。
喫煙ブースに入る。
サトシはスーツの内ポケットからメンソールのタバコを一本取り出し火を点ける。
唐澤は電子タバコにカートリッジをセットして電源ボタンを押す。
二人同時に一口目のタバコを吸いこみ、大きく吐き出す。
「あのサー」
唐澤がニヤニヤした顔のままサトシの目を見る。
「うん?」
「お前……もしかしてユカちゃんと付き合ってる?」
「え?」
唐澤は勘のいい男だ。
何故気付かれたのかサトシには理解出来なかった。
「ダハハ、その反応は図星か。分かりやすい奴だな!」
「あぁー……何て言えばいいかな」
当たっているだけになんて答えればいいのかわからない。
悪いことではないので、言っても問題はないと思うが、社内に公表するタイミングはユカにも相談したいと思っていた。
「うむぅ。ついに難攻不落の片山が落ちたか。ハハハ」
「あの、まだ誰にも言わないでほしいんだ。何となく恥ずかしくて秘密にしてるからさ」
「おうおう。わーかってるって。誰にも言わねぇよ」
そう言った唐澤ではあったが……。
その日の夜。
マネージャー陣数名で「やったぜ!片山彼女できたね飲み」が開催されたのであった。
言い出しっぺの唐澤は部下に仕事を振って参加、一次会の終了後に自社に戻った。
サトシはと言うと、同僚たちの手荒な祝福を受けながら死ぬほど飲まされたのであった。
自室、ベッドの上だ。日時は分からない。
週末だったらよいのだが。そうサトシは思った。
ヌージィガでの時間の流れは、現実世界の時間の流れよりも早い気がする。
どれくらい早いのかは測定できないが、二倍くらいのスピードで進んでいるのではないかと思った。
「起きたの?」
不意に聞こえる女性の声。
サトシは腕の中にユカがいることに気づいた。
ユカは優しい目でサトシを見つめていた。
「あぁ。寝てたのか、俺」
「うん、少しだけ」
空腹感はない。何かを食べた後なのだろう。
楽しい食事の時間をユカと過ごし、そして今この時間を迎えているんだと理解した。
「俺が俺じゃない時間」二人はどのように過ごしたのだろう。
ユカはきっと「俺ではない」ことに気付かず一緒にいたんだろう。
そのことについて彼女は悪くはない。
それは分かっていたが、サトシは嫉妬を感じた。
これまでに感じた事の無い腹の底が冷えるような感情だ。
その症状……サトシとタケルの入れ替わりは子供の頃からあった。
小さいときはいつも二人一緒だったから問題はなかったが、大きくなるにつれ二人の間には少しずつではあったが差分が生まれた。
兄弟はシンプルな三つのルールを作った。
一つ、自分も相手も大事にすること。
二つ、秘密を持たないこと。
三つ、なんでも二人で分け合うこと。
「なんでも二人で分け合うこと」この言葉の重さをこんな形で知ることになるとは思ってもみなかった。
サトシはユカを力いっぱいに抱きしめた。逃げられないように、離れないように。
そうしていないと誰かのものになってしまいそうだったからだ。
「どうしたの?」
ユカは息苦しそうに訊いた。
「ユカは俺のものだ」
「うん……そうだよ」
「ユカは俺のものだ」
「はい……私はサトシさんのものです」
二人の時間に「何があったのか」なんて気にしないようにしよう。
今、彼女と一緒にいられる時間を俺なりの距離感で大事にしよう。
サトシは一生懸命自分にそう言い聞かせ、不安を払拭しようとした。
ユカの腰に手を回す、彼女は……
下着を着けていなかった!
絶望! 悔恨! 憤怒! なんという言葉で表せばよいのかサトシには解らなかった。
奥手なサトシでも分かる。分かってしまう。
何が起こったのか。二人が何をしたのか。
失われたのだ。
彼女の新雪は訪問者によって踏み荒らされたのだ。
そのことを彼女自身が気付くこともなく。
自分が涙を流している事に気付いたのは、ユカが優しく頬を拭ってくれたからだ。
微笑みながら彼女はサトシの頬を撫で、頭を撫でてくれた。
どれくらいの時間が経っただろう。
ユカは「もう帰らないと」と言い、布団の中で下着を着ける。
そして布団から出て洋服を着、ユニットバスの洗面台で髪の毛を整えた。
サトシも服を着、部屋の明かりを点ける。
「サトシさん……」
ユカがサトシの胸に頭をぶつける。
「……ごめんね、次は頑張るから」
「ユカ、愛している」
サトシたちは長いキスを交わした。
◇
ユカを最寄り駅まで送り、アパートへと戻る。
スマホを取り出し、今は日曜日の夜であることを確認した。
明日は仕事だ。ユカとどのように接すれば良いんだろう。
きっとこの気持ちは明日も晴れることはないだろう。
ヴヴヴ……
スマホが短くバイブし画面上部に吹き出しの形をした通知アイコンが表示された。
チャットアプリを起動する。猫のアイコン。ユカだ。
ユカ「今日はありがとうでした」
自分「こちらこそありがとう」
ユカ「サトシさんの部屋ほんとにものが無くて」
ユカ「ビックリでした」
自分「あまりモノに執着ないからね汗」
ユカ「一つの器で順番にご飯を頂いたのは」
ユカ「楽しかったです」
自分「あはは、お恥ずかしい」
ユカ「今日の事ごめんなさいでした」
自分「なんの事? 謝る事あった?」
ユカ「優しいですね」
自分「いや、そんな事ないよ」
ユカ「男の人の部屋に行くって事を」
ユカ「覚悟が足りなかったのかなと思います」
ユカ「思いを受け止められなかったのは」
ユカ「嫌だからではないのです」
ユカ「もう少し待って下さい」
ユカ「今はまだ怖いのです」
二人の間に何があったのだろう。
ユカの言葉は何を意味しているんだろう。
詳しいことは分からないが、文面からはサトシの懸念は未遂で終わったように見えた。
ほっとした気持ちを感じるとともに、サトシは自分の中の汚い嫉妬心に嫌気がさした。
頭が冷えてサトシは思った。
――たとえ何があってもユカの事を受け入れよう。
この日は戦闘の気疲れもあったのか、帰宅後すぐに眠ることができた。
◇
翌日、普段通りの時刻に出社する。
いつも通りユカがオフィス内の掃除をしている。
「おはよう、新田さん」
「おはようございます、片山さん」
誰が見てるわけでもないが、会社ではビジネスライクな呼び方を心掛けている。
「ふぁぁ……おはよー……」
応接室から唐澤がのっそりと現れた。
無精ひげにポロシャツ、ジーンズ姿だ。土日に徹夜が発生したのだろう。
「おう、唐澤。炎上してんの?」
「炎上も何もねぇよ。ホントにバカみたいに仕様膨らんじゃってさ。しかも営業のグッさんがそれで話飲んじゃうんだもん。ありえねぇよ」
グッさんと言うのは、営業部の田口営業部長の事だ。
案件をドシドシ取ってくるのは良いのだが、その場の空気ですぐにディスカウントしてしまうので、現場からしてみると死神のような男だ。
「んで、どんなもんなんだ?」
「明日の朝に初回の一式納品なんだけど、現時点で進捗率8割ってところ」
唐澤は寝起きのムスッとした顔のまま恨めしそうに言う。
「画面数で確か六画面か。間に合うのか?」
「やるしかねぇから、こんなことになってんだろ」
「ですよねー」
「ユカちゃん貸してよー」
唐澤がユカの方を見ながら人貸しの打診をしてくる。
システム開発業界では、炎上しているプロジェクトに他プロジェクトからワンタイムで人が貸されるっていうのは珍しいことではない。
「貸せねぇよ。こっちの大事なメンバーなんだから」
今、サトシのプロジェクトは概ね順調だったので貸しても良かったのだが、何となくやり取りの流れで断った。
唐澤も本気ではなかった。
ユカはサトシと唐澤のやり取りを見て微笑んでいる。
「……ん? ……あれ?」
突然唐澤がサトシとユカの顔を交互に見て、何かに気付いたような顔をした。
「どした? 唐澤」
「おい、片山。ちょっと喫煙室いこうぜ。ユカちゃん、片山借りてくよー」
いきなりガシっと肩を組んでくる唐澤。その顔はニヤニヤしている。
喫煙ブースに入る。
サトシはスーツの内ポケットからメンソールのタバコを一本取り出し火を点ける。
唐澤は電子タバコにカートリッジをセットして電源ボタンを押す。
二人同時に一口目のタバコを吸いこみ、大きく吐き出す。
「あのサー」
唐澤がニヤニヤした顔のままサトシの目を見る。
「うん?」
「お前……もしかしてユカちゃんと付き合ってる?」
「え?」
唐澤は勘のいい男だ。
何故気付かれたのかサトシには理解出来なかった。
「ダハハ、その反応は図星か。分かりやすい奴だな!」
「あぁー……何て言えばいいかな」
当たっているだけになんて答えればいいのかわからない。
悪いことではないので、言っても問題はないと思うが、社内に公表するタイミングはユカにも相談したいと思っていた。
「うむぅ。ついに難攻不落の片山が落ちたか。ハハハ」
「あの、まだ誰にも言わないでほしいんだ。何となく恥ずかしくて秘密にしてるからさ」
「おうおう。わーかってるって。誰にも言わねぇよ」
そう言った唐澤ではあったが……。
その日の夜。
マネージャー陣数名で「やったぜ!片山彼女できたね飲み」が開催されたのであった。
言い出しっぺの唐澤は部下に仕事を振って参加、一次会の終了後に自社に戻った。
サトシはと言うと、同僚たちの手荒な祝福を受けながら死ぬほど飲まされたのであった。
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