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第13話
しおりを挟む手のひらの錠剤を見つめて、溜め息が出る。
そろそろ、発情期がくる。僕は恵まれていたことに、高校に入ってから発情期を薬に頼ることはなかった。中学の時の、副作用のつらさを思うと、爪先から、ざ、と一気に冷えるのを感じた。手がかすかに震えているのを、力強く握りしめて、誤魔化す。まだ、軽い薬だ。一応、念のために飲んでおく。あの二人が、変わらずに隣にいてくれたら、どれだけ心強かったことか。と、恨みがましくまだ二人に固執している自分が怖くて、それを流しこむように、ごくり、と音をたてて錠剤を飲み干す。
月曜日、昨日の佳純と過ごした時間から、ずっと足もとが地についていないような浮遊感と、頭がぽやぽやとおぼつかない感覚があった。これも、副作用かと疑うほどだった。寮ですれ違った仲間に「何かいいことあったの?」とにやにや聞かれて、ゆるみきった顔だったことに気づき、気を引き締めた。
朝、登校し自席につくと、あの爽やかだった日差しは暴力的なものに変わってきたことを体感する。もう七月なのだと改めて思う。すると、またクラスメイトたちの会話が聞こえてくる。
「聞いたか?サッカーとバスケ、初戦敗退だってよ…」
「えっ」
思わず声がでて、振り返ってしまったが、彼らは自分たちの会話に夢中のようだった。
「かわいそうにな。三年は最後の試合だってのに…」
「まあ、自業自得な気もするけど…俺も気を付けよっ」
最後の会話は、耳に届いていなかった。
秀一と陽介、どうしたんだろう。
嫌われていようとも、僕は彼らにかけられた恩を一生忘れないし、今でも二人のことは特別な存在だと思っている。一年、そばにいたからわかる。二人がどれだけ、部活動を熱心に取り組んでいたかを。
佳純に救われた心はゆとりがあったんだと思う。そのことは具体的に僕は自覚していなかったが、久しぶりに彼らに連絡をとってみようと思った。携帯を開き、メッセージアプリを起動すると、最後のメッセージのやり取りは、五月のはじめだった。ずいぶん、時間が流れていた。今更、なんと送れば、彼らは少しでも気を悪くしないだろうかと思案していると担任が入ってきてしまった。すばやく、それをポケットにしまい込み、僕は授業の準備をした。
「どうした?」
へ、と振り向くと、珍しく佳純が心配そうに僕を見ていた。ぼろぼろと、箸でつかんでいたご飯が肉そぼろと共に膝の上に落ちているのに気づいた。佳純が近くにあったティッシュで僕のこぼした食べ物を拾ってくれる。
「ご、ごめん…ありがとう…」
昨日の今日で、学校で二人で会うのはなんだかドキドキしてしまうが、彼はそんなことはないらしい。いつも通りの無表情だが、なんだかその瞳は心配気に揺れている。もう一度、顔を覗かれて、急いで笑顔を取り繕う。
「だ、大丈夫だよ!少しぼんやりしてただけ!」
次の言葉が出そうになったが、なんとかごはんを詰め込んで流し込んだ。二人のことが気がかりだということ。もう一つ、僕の思考を鈍くさせるもの。
発情期が近いって、またあの二人の時のように甘えてしまう。つい、愚痴のようにこぼしてしまったとき、アルファの彼らは仕方なしに手をあげてくれたのだ。そんな思いを佳純にはさせたくなかった。二人ではっきり第二の性を声に出して確認しあったわけではないけれど、佳純は間違いなくアルファだ。今度こそ、友達に友達以上に甘えてはいけない。
佳純はそれ以上突っ込んでこなかった。自分も、与えられたおにぎりをもそもそと食べている。そういういつも通りでいてくれる佳純が、僕にとっては救いなのだ。
帰りのホームルームが終わると、携帯に新着のメッセージが届いていることに気づいた。誰だろう、と何となしに開くと、僕は目を見開いた。
それは、陽介からだった。
急いで、メッセージを開くと、放課後に空き教室で待っているという内容だった。ぐ、と息がつまる。どのような内容だろう。話したいこと、って…。例のお付き合い報告であれば、わざわざ人通りの少ない空き教室を選ぶ必要はない。なんだか、薄気味悪さがあったが、僕は久しぶりの友人からの連絡を無碍にすることはできなかった。ちょうど、僕だって連絡をしようとしいていたところだったのだから。了承の旨を伝えると、カバンを握りしめ、指定の空き教室に向かった。
薄気味悪さを感じながらも、僕は、実は、少しだけ、期待をしていた。
陽介と仲直りできることを。
また、前のように笑いかけてくれることを。
いつもの意地悪な笑みを浮かべて、発情期そろそろだよなってじゃれついてくれることを。
カバンの中に、抑制剤が入っていることをもう一度確認してから、階段を上る。心臓がどんどん早鐘のように鳴り続けている。緊張感に、背筋を汗が、つ、と垂れるのを感じる。指定の教室のドアの前にたち、一呼吸する。
大丈夫。今の僕なら、なんだって受け止められる気がする。
身体の前で手を握りしめて、もう一度、深呼吸をする。どきどきして震える吐息を、整える。目をつむり、意を決してドアに手をかけた。その時、中から人の声がした。陽介でない、男の子の声。ドアの隙間から、中の様子をうかがった。
その隙間からでもわかるほど、むっとこもった性のにおいがした。正しくは、発情期の、まとわりつくような気持ちの悪い甘ったるいにおい。おそらく、オメガのにおいだ。思わず、口元を抑える。じ、と目線だけを動かす。
埃のかぶって、脇に寄せられた机と椅子。薄く濁った黒板の前に、二人いた。一人は、こちらに背を向けた陽介であろう。いつも明るく、はつらつとしていた姿はそこにはなく、うなだれた背中に、本当に陽介か最初は断定できなかった。断定するきっかけは、その目の前にいた男の言葉だった。あの人だった。
黒い硬そうな髪の毛、大きい眼鏡。あのオメガだった。ネクタイはほどけ、ワイシャツのボタンがはずれ、桃色の乳首がかすかに見える。下半身は、何も身に着けていないようだった。彼は、邪魔くさそうに、髪の毛をひっぱると、その黒い塊はずるりと向けて、さらさらの光に透けてしまうような美しい金髪が現れた。そして、眼鏡も投げ捨てる。遠くからでもわかる。真っ白の陶器のような肌に、淡い髪の毛、そして、瞳が吸い込まれそうなブルーだ。目の前で一体何が起きているのか、その変貌ぶりに頭が追いつかない。
「かわいそうな陽介…」
その美少年は、うなだれる青年を大切に抱きしめた。それによって、やはりその背中が陽介であったことが断定できた。
「大丈夫だよ、僕が、ずっと、そばにいるから」
そういうと、二人は唇を合わせたのだ。陽介は飛び掛かるように、彼を埃っぽい机に押し倒した。それをきっかけに、思わず声が出そうになるほど、むせるようなにおいが、さらに存在を強めた。水音と共に、美少年の悦びに満ちた声が僕に聞こえて、身を引いた。そして、彼の声がより一層大きく聞こえて、駆け出した。転び落ちそうになりながらも、なんとか階段を降り切って、走り抜ける。
なんで。なんでなんで。
なんで。
陽介は、僕を呼んでくれたんじゃないの。
僕は、君と、仲直りしたかったのに。
あの転校生も、なんなのか。怖い。
目の前で絡み合った二人が瞼にこびりついて離れない。
気持ち悪い。怖い。
何が起きているのか、何がなんだかわからない。
怖い、怖い。
途中、足がもつれて転び、強かに右頬をコンクリートに打ち付けた。その痛みにすくむ暇もなく、僕は立ち上がり走った。大きな恐怖から逃げるように。
どんな時も、ここまでくれば、一安心つけた。自室のドアに滑り込むが、落ち着かない。まるで全身が心臓になったかのように、血液が巡るたびに視界が揺れている気がする。どくどくと大きく音がする。自身の異変を感じ、靴を乱雑に脱ぎ捨て、机の引き出しを開け放った。中にある錠剤をかき分け、奥にしまっていた薬を取り出した。
もう二度と、飲みたくなかったのに。飲まなくて良いかも、なんて思ってたのに。
緊急抑制剤を二錠、乾いた喉になんとか飲み落とす。熱い。腹の奥がうずいて、苦しい。
僕は、緊急時用にまとめてあったカバンをひっつかんで、自室を出た。シェルターに急いで駆け込み、カバンを放り投げる。申請しなくても使える、超緊急時用の部屋はいつもの部屋と同じ間取りだった。膝が震え、立っていられなくなる。ベットまで這うようにたどり着き、身体を横にするが、熱は渦巻いて、より激しさを増している。
「たす、けて…」
朦朧とする意識の中で、涙が、つ、と頬の上をすべり、痛みに顔をしかめた。
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