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ヴァイオレット
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ハナの遺体は共同墓地に埋葬された。ハナは真冬の海に飛び込んで死んだ。玄関ホールの一件から二十四時間も経ってなかった。
目撃者の話によるとハナの行動に迷いはなかったらしい。ジーンズとセーターだけの姿で橋の上に現れた彼女は、とても自然に手すりを乗り越えて真っ黒な海に消えていった。
目撃者がいたのは幸いだった。すぐに通報されたおかげで少なくとも彼女の遺体は引き上げられたから。
それはまだ人もまばらな朝の出来事で、彼女がどれだけ本気でそれを望んでたかが分かる。彼女は消えるつもりだった。本当は遺体すら見つけてほしくなかったんだろう。
遺体は国に回収されて事務処理のあとすぐ火葬された。
ハナには家族がいなかった。雇い主だったおれの両親はハナの遺体を引き取ることを拒否した。ハナの一件はろくでなしの息子が引き起こした恥ずべき事件として一族最大のタブーになった。
ハナが自室に残したものは少しの衣類と化粧品、そして何冊かの紙の本だった。
ベッドサイドのテーブルにメモがあって、それは遺書と言えなくもなかった。走り書きのメモには「ありがとう」と書かれてた。だれに宛てたものかは分からなかったし、それらはすべて速やかに処分された。
母親はおれと目も合わせなくなった。父親がこの一件をどう思ったのかは分からない。息子も同じメイドに手を出してたと思ったのか、何らかの理由で罪を被ったと思ったのか。
それを確かめる方法はなかった。おれは「心身の不調」で「療養」することになって、そのあとは「留学」することが決まってた。不祥事を起こした金持ちの子供が進む一般的な道だ。
「どうしてなの?」
異様な雰囲気に包まれた屋敷で、唯一おれにそう訊いた人間がいた。姉のナオミだ。
「なんであんなこと言ったの。私知ってるのよあなたじゃないって」
自室に軟禁されたおれを逃してくれたのもナオミだ。八つ歳上の彼女はだれがハナを妊娠させたかを知ってた。手を出されたのはハナだけじゃないということも。
「私もちゃんと言うから、あなたも正直に話すべきよ。お母さんは傷つくだろうけどこんなのは正しくない。どうして関係ないあなたがこんな目に合うの」
「いいんだ」
おれはたぶんもう壊れてたんだと思う。ナオミは泣きながらおれを抱きしめて、おれはそれを振り払った。やめてくれ。お願いだから。
「おれはハナが好きだった。だからこれでいいんだよ」
火葬が終わったハナの骨はトラックで共同墓地に運ばれた。
家を抜け出して火葬施設に着いたときにはもう、ハナは小さな木の箱に収まって墓地に運ばれる途中だった。タクシーで追いかけてどうにか埋葬されるのを見た。
特定の信仰がなかったハナに祈りの言葉はなかった。国が指定した執行人がハナのデータを確認して承認した。弔いの儀式すらなかった。ハナは木の下に埋められて、おれが墓地の入り口で買った白い花束だけが添えられた。
あの日の記憶は曖昧で、自分が泣いたのかどうかも覚えていない。
ただひとつだけ覚えているのはその日に爆撃があったことだ。ここから遠い国の安全なはずの医療施設が爆撃されて、そこにいた全員が死んだ。そこはハナのクソ野郎のボーイフレンドが配属されてる場所だった。
目撃者の話によるとハナの行動に迷いはなかったらしい。ジーンズとセーターだけの姿で橋の上に現れた彼女は、とても自然に手すりを乗り越えて真っ黒な海に消えていった。
目撃者がいたのは幸いだった。すぐに通報されたおかげで少なくとも彼女の遺体は引き上げられたから。
それはまだ人もまばらな朝の出来事で、彼女がどれだけ本気でそれを望んでたかが分かる。彼女は消えるつもりだった。本当は遺体すら見つけてほしくなかったんだろう。
遺体は国に回収されて事務処理のあとすぐ火葬された。
ハナには家族がいなかった。雇い主だったおれの両親はハナの遺体を引き取ることを拒否した。ハナの一件はろくでなしの息子が引き起こした恥ずべき事件として一族最大のタブーになった。
ハナが自室に残したものは少しの衣類と化粧品、そして何冊かの紙の本だった。
ベッドサイドのテーブルにメモがあって、それは遺書と言えなくもなかった。走り書きのメモには「ありがとう」と書かれてた。だれに宛てたものかは分からなかったし、それらはすべて速やかに処分された。
母親はおれと目も合わせなくなった。父親がこの一件をどう思ったのかは分からない。息子も同じメイドに手を出してたと思ったのか、何らかの理由で罪を被ったと思ったのか。
それを確かめる方法はなかった。おれは「心身の不調」で「療養」することになって、そのあとは「留学」することが決まってた。不祥事を起こした金持ちの子供が進む一般的な道だ。
「どうしてなの?」
異様な雰囲気に包まれた屋敷で、唯一おれにそう訊いた人間がいた。姉のナオミだ。
「なんであんなこと言ったの。私知ってるのよあなたじゃないって」
自室に軟禁されたおれを逃してくれたのもナオミだ。八つ歳上の彼女はだれがハナを妊娠させたかを知ってた。手を出されたのはハナだけじゃないということも。
「私もちゃんと言うから、あなたも正直に話すべきよ。お母さんは傷つくだろうけどこんなのは正しくない。どうして関係ないあなたがこんな目に合うの」
「いいんだ」
おれはたぶんもう壊れてたんだと思う。ナオミは泣きながらおれを抱きしめて、おれはそれを振り払った。やめてくれ。お願いだから。
「おれはハナが好きだった。だからこれでいいんだよ」
火葬が終わったハナの骨はトラックで共同墓地に運ばれた。
家を抜け出して火葬施設に着いたときにはもう、ハナは小さな木の箱に収まって墓地に運ばれる途中だった。タクシーで追いかけてどうにか埋葬されるのを見た。
特定の信仰がなかったハナに祈りの言葉はなかった。国が指定した執行人がハナのデータを確認して承認した。弔いの儀式すらなかった。ハナは木の下に埋められて、おれが墓地の入り口で買った白い花束だけが添えられた。
あの日の記憶は曖昧で、自分が泣いたのかどうかも覚えていない。
ただひとつだけ覚えているのはその日に爆撃があったことだ。ここから遠い国の安全なはずの医療施設が爆撃されて、そこにいた全員が死んだ。そこはハナのクソ野郎のボーイフレンドが配属されてる場所だった。
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