アイムヒア

鳥井ネオン

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ヴァイオレット

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 エリカを送り届けて帰宅したころ、雪が降りだした。

 明け方の五時。空はまだ黒く、吐く息だけが白い。

 アパートメントの前に車を停めて駐車許可証を貼りつけ、今にも崩れそうな螺旋階段を登る。ドブ川沿いのこのアパートメントで他の住人を見たことはない。ときどき聞こえる怒鳴り声とすすり泣き以外に人間の気配を感じたことすらない。

 エレベーターはもう何年も前から故障中のままで、おれは毎回四階分の階段を上り下りする。

 息を切らしながら部屋にたどり着き、寒さでかじかんだ指をパネルにかざす。二秒待つ。緑色のチェックマークがでない。指に息を吹きかけてもう一度試す。反応なし。まさか。

 端末を取りだし、パネルのコードを読み込む。

 ヘルプセンターに接続する。項目。「ロックが解除できない」。パスワードを入力する。お問い合わせありがとうございます。自動音声が流れる。

『この物件は不法占拠の可能性があると見なされたため、対テロ対策特別措置法に基づきロックされています。恐れ入りますが契約書と合致するIDでの本人確認をお願いいたします。確認が済み次第ロックは解除され、入室が許可されます。IDに問題がない場合、この作業はおよそ五分で完了いたします』

「嘘だろ」

『なお、IDが合致しないもしくはその他の問題が発生しているとみなされた場合、対テロ対策特別措置法に基づき緊急通報システムが作動します。何かご不明な点がございましたら下記のコードを……』

「ふざけんな」

 それ以上悪態をつく気力もなかった。部屋にはほぼ何もない。二度と入れなくても困るようなものは置いてない。それにしても、シャワーと寝る場所がないのは困る。おまけに今は冬で、雪まで降ってきやがった。

 他にどうすることもできないから車に戻った。いまのおれにあるのはこのレンタカーと端末とIDと未処理のままの現金。生きていくのには困らないだろう。またどこかで部屋を借りればいいだけだ。ヒーターを入れて目を閉じる。とりあえず眠って、目が覚めたらどうするか考えればいい。

 それが悪いアイデアだったと気づいたのは数時間後だ。おれはしばらく見ていなかった悪夢を見て飛び起きた。ハナの夢だった。おれが必死で逃げ続けてる悪夢がまたおれを捕まえた。
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