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ヴァイオレット
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ハナの妊娠が発覚したのは冬だった。
ちょうど今と同じ頃だ。あの日、おれの母親は凄まじい剣幕でハナを怒鳴りつけた。
ハナは住み込みのメイドで休日も屋敷にいた。ボーイフレンドは戦場にいるし、本来なら妊娠するはずがなかった。つまり屋敷内に相手がいるということで、スタッフ同士での恋愛は契約書で禁止されていたからそれは重大な契約違反だった。
「相手はだれなの?」
母親の叫び声は屋敷中に響き渡った。何を思ったか玄関ホールでその叱責は行われた。
「中絶は違法だって知ってるわよね? 妊娠を知った以上、私はそれを届け出なければいけないの。しかもあなたはこの家の従業員だから、出産にかかるすべての責任はこの家が持つのよ。あなた一体どうするつもりなの?」
父親は家にいなかった。いたらその表情は見ものだっただろう。
おれがまず驚いたのは父親の危機管理能力の低さだった。この時代に若いメイドに手を出して避妊に失敗するなんてとても正気とは思えない。
中絶は違法で、生まれた子供にはDNA検査が義務づけられてて、保護責任者遺棄罪は厳罰で死刑にもなりうるのに、だ。
カネで何とかなると思ったのか。何よりもまずそれが衝撃だった。
次に驚いたのはハナの反応だった。
ヒステリックに怒鳴り散らす母親に対して、ハナは終始無言だった。謝るわけでも言い訳をするわけでもキレるわけでもない。泣くわけでも、相手が誰かをぶちまけてやるわけでもない。
ハナは玄関ホールで壁を背に立ち尽くして、彼女の雇い主を眺めてた。彼女がいつも「奥様」と呼んでその下着まで洗濯してやってた女を。
「聞いてるの?」
ハナはここにいないみたいだった。そこに立っているのはハナの姿をした肉体だけで、中には誰もいないみたいだった。
そんなハナをはじめて見た。感情が抜け落ちたハナは生命の気配まで消えてた。人形。もしくは、死体。心臓が締めつけられた。
「相手が誰なのか言いなさい。これは命令で、あなたの義務なのよ」
おれは母親の背後にいた。ちょうど二階から階段を降りている途中で、母親からは死角だけどハナの視界には入る位置だった。
普通の状態ならハナにはおれが見えるはずだ。おれはハナを見つめた。目が合っているように見えた。だけどハナの瞳はおれを捉えていなかった。そこにはハナ自身もおれも存在しなかった。
「分かっているの? あなたは契約違反を犯したのよ。私はあなたを告発することもできるの。その子供の父親が誰であれ、これはもう法律の問題なの。もしもこのまま答えなければ……」
「おれだよ」
何も考えてなかった。考えるより先に言葉が出て、気がつくとおれは母親とハナの間にいた。
これ以上見てほしくなかった。死体にシートをかけるみたいに、おれはハナの前に立った。
「おれがこいつに手を出したんだよ、母さん。嫌がってたけど強引に口説いたんだ」
ハナが倒れたのはその瞬間だった。廃墟が崩れるみたいにハナはその場にくずおれた。
床に頭を打ちつける前に彼女の身体を抱きとめた。それがハナに触れた最初だった。あんなに触れたかったその皮膚。髪。骨格。意識を失ったハナを腕に抱きしめて息を止めた。
これでいい。本気でそう思った。これですべて解決する。おれはおれが守りたいものを守れる。
だけどそれは間違いだった。次の日の夜にはもう、ハナはこの世にいなかった。世界は一瞬で崩壊して二度と元には戻らなかった。
ちょうど今と同じ頃だ。あの日、おれの母親は凄まじい剣幕でハナを怒鳴りつけた。
ハナは住み込みのメイドで休日も屋敷にいた。ボーイフレンドは戦場にいるし、本来なら妊娠するはずがなかった。つまり屋敷内に相手がいるということで、スタッフ同士での恋愛は契約書で禁止されていたからそれは重大な契約違反だった。
「相手はだれなの?」
母親の叫び声は屋敷中に響き渡った。何を思ったか玄関ホールでその叱責は行われた。
「中絶は違法だって知ってるわよね? 妊娠を知った以上、私はそれを届け出なければいけないの。しかもあなたはこの家の従業員だから、出産にかかるすべての責任はこの家が持つのよ。あなた一体どうするつもりなの?」
父親は家にいなかった。いたらその表情は見ものだっただろう。
おれがまず驚いたのは父親の危機管理能力の低さだった。この時代に若いメイドに手を出して避妊に失敗するなんてとても正気とは思えない。
中絶は違法で、生まれた子供にはDNA検査が義務づけられてて、保護責任者遺棄罪は厳罰で死刑にもなりうるのに、だ。
カネで何とかなると思ったのか。何よりもまずそれが衝撃だった。
次に驚いたのはハナの反応だった。
ヒステリックに怒鳴り散らす母親に対して、ハナは終始無言だった。謝るわけでも言い訳をするわけでもキレるわけでもない。泣くわけでも、相手が誰かをぶちまけてやるわけでもない。
ハナは玄関ホールで壁を背に立ち尽くして、彼女の雇い主を眺めてた。彼女がいつも「奥様」と呼んでその下着まで洗濯してやってた女を。
「聞いてるの?」
ハナはここにいないみたいだった。そこに立っているのはハナの姿をした肉体だけで、中には誰もいないみたいだった。
そんなハナをはじめて見た。感情が抜け落ちたハナは生命の気配まで消えてた。人形。もしくは、死体。心臓が締めつけられた。
「相手が誰なのか言いなさい。これは命令で、あなたの義務なのよ」
おれは母親の背後にいた。ちょうど二階から階段を降りている途中で、母親からは死角だけどハナの視界には入る位置だった。
普通の状態ならハナにはおれが見えるはずだ。おれはハナを見つめた。目が合っているように見えた。だけどハナの瞳はおれを捉えていなかった。そこにはハナ自身もおれも存在しなかった。
「分かっているの? あなたは契約違反を犯したのよ。私はあなたを告発することもできるの。その子供の父親が誰であれ、これはもう法律の問題なの。もしもこのまま答えなければ……」
「おれだよ」
何も考えてなかった。考えるより先に言葉が出て、気がつくとおれは母親とハナの間にいた。
これ以上見てほしくなかった。死体にシートをかけるみたいに、おれはハナの前に立った。
「おれがこいつに手を出したんだよ、母さん。嫌がってたけど強引に口説いたんだ」
ハナが倒れたのはその瞬間だった。廃墟が崩れるみたいにハナはその場にくずおれた。
床に頭を打ちつける前に彼女の身体を抱きとめた。それがハナに触れた最初だった。あんなに触れたかったその皮膚。髪。骨格。意識を失ったハナを腕に抱きしめて息を止めた。
これでいい。本気でそう思った。これですべて解決する。おれはおれが守りたいものを守れる。
だけどそれは間違いだった。次の日の夜にはもう、ハナはこの世にいなかった。世界は一瞬で崩壊して二度と元には戻らなかった。
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