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ヴァイオレット
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ヴァイオレットは世界の終わりみたいに泣く。
真冬の、雪が降る直前の、不穏な紫色の空みたいな泣き方だ。
昔、何かのドキュメンタリー番組で観たことがある。爆撃で住んでいた村が消えてただ泣いていた小さな子供。ヴァイの涙はおれにそれを思いださせる。
ヴァイはバックシートで泣いてる。セブンイレブンの前に車を停めておれは禁止されてる煙草に火をつける。窓を大きく開けて煙を吐きだす。
明らかにカタギじゃないおれたちに文句を言いに来るヤツは誰もいない。通行人はあからさまに距離をとって違法駐車と煙を見ないようにする。
「なぁ」
ミラー越しにバックシートを見る。ヴァイは泣きつづけ、タオルで出血を止めようとしてる。剥き出しの脚を伝う血液。その血がどこから出てるのかは分からないし、知りたくもない。
「あと三十分で次だから」
「うん。ごめんなさい」
またバックシートが汚れる。掃除するのはおれの仕事だ。文句は言えない。こいつの稼ぎの一割は俺の取り分だし、こいつは他の女の子の三倍は稼ぐ。
「顔を直せよ」
ヴァイは頷き、どこからか手鏡を取り出す。ピンク色の、猫の模様の、子供じみた鏡。涙で汚れて路上に落ちたアイスクリームみたいになった顔。
「ごめんね、ハル」
イラつく。おれはどうして名前を教えたりしたんだろう。俺の名前を知ってるのはヴァイとエリカだけだ。エリカはいい。エリカに名前を呼ばれるだけでおれは一日中ハッピーでいられる。だけどこいつは違う。
「痛いの?」
なんとなく訊いた。好奇心だ。ヴァイはバッグからメイク道具らしいものを取り出して、どうにか顔を修復しようとしてる。
「うん。でも痛いのは大丈夫。ただいつも悲しくなっちゃうだけ」
悲しくなっちゃうだけ? 吸殻を指で弾いて窓から捨てる。
悲しくなっちゃうだけ、だ?
「ねぇハル、知ってる? 今年世界は滅びちゃうんだって」
涙声のまま顔を直す。ヴァイの話題はコロコロ変わる。情報源はウェブのゴシップサイト。ごく稀に、客からのよた話。
「新しい予言の解釈があってね。それによると、今年のクリスマスに世界は終わるらしいよ」
あと二週間弱か。世界が終わってくれるなら有難い。なんなら今日このまま滅びればいい。
「困るよね」
出かけるのに雨なんて。そんな口調だ。ヴァイとまともに会話しようとしちゃダメだ。ここ数ヶ月でそれは学んだ。
「滅びたら困るんだよね。なんか、そういうこと考えるともうどうしようもなくなっちゃう。それでまた悲しくなっちゃう」
「なんで困るんだよ?」
ヴァイの都合は無視して車を出す。遅刻するわけにはいかない。遅刻させたらペナルティだ。
急発進した車にもめげずにヴァイはメイクを直しつづける。甘いストロベリーの匂いが漂う。コロンか何かを使ったんだろう。バカ女。
「終わって困ることなんかないだろ?」
お前のクソッタレな人生に。後半はさすがに口にしない。稼ぎがなくなるのはごめんだ。
「うん」
なにに対しての肯定なのか。ヴァイオレットは泣き止んでる。バッグを漁るガチャガチャという音。何かを取りだし、何かをスプレーする。また甘ったるいストロベリーの匂い。ムカつく。
「困らないんだけどね、ホントなら。でもやっぱり困るんだ。まだ十分お金が貯まってなくて。あと少しなんだけど、計画があって。でも世界が滅びちゃったら意味ないかな」
まったく意味が分からない。開け放したままの窓から十二月の冷気が流れ込む。ヴァイは文句を言わない。肩が露出したワンピース姿で、冷たい風も気にしない。こいつには普通の感覚というものがないのかもしれない。
「たんまり稼いでるだろ?」
自分でもうんざりするほど冷たい声だ。他の女の子には絶対にこんな声で話したりしない。ヴァイオレットは俺のなかのいちばん嫌な部分を刺激する。だからイラつく。
「うん、でもまだ少し足りなくて。だから一生懸命働いてるんだよね」
「なにに使うんだよ」
こんなことは普通訊かない。他の女の子には絶対に訊かない。ヴァイになら許される気がする。こいつはそういう女だ。だから稼げる。
「ハルには分かんないよ」
怒ってるわけでも傷ついてるわけでもない。それは声で分かる。ヴァイオレットは淡々としてる。少し笑ってすらいる。
「ハルみたいな人にはぜったいわかんない。羨ましいな」
赤信号を無視したタクシーと接触しそうになる。罵りながら思い切りクラクションを鳴らす。ふざけんな。この世はクソだけどヴァイと心中する気はない。
「おれみたいな人ってなに」
窓から手を出してタクシーに中指を立てる。この仕事を始めて半年。おれは立派な街のクズに昇格した。
「選ばれた人。世界が滅びても生きられるような人」
歌うような口調。ヴァイは完全に泣き止み、顔を直して、いまはどこか楽しそうにすら見える。ミラー越しに目が合う。ヴァイは微笑む。泣き顔と同じくらいひどい笑顔だ。
「おれのなにを知ってんだよ」
「知らないけど。でもわかるよ。あたしはずっと憧れてたんだから」
意味がわからない。いつもそうだ。俺はこいつを何一つ理解できない。
「ハル、あたしはね、ずっとあなたたちみたいになりたかったんだ。でも無理だからさ。だからたくさんお金を貯めて」
ヴァイオレットの唇。塗り直したばかりの、てらてらした、下品な赤。
「生まれ変わるんだ」
おれはミラーを見ないようにする。胃のあたりがムカついて、内臓ごと吐き出したくなる。
真冬の、雪が降る直前の、不穏な紫色の空みたいな泣き方だ。
昔、何かのドキュメンタリー番組で観たことがある。爆撃で住んでいた村が消えてただ泣いていた小さな子供。ヴァイの涙はおれにそれを思いださせる。
ヴァイはバックシートで泣いてる。セブンイレブンの前に車を停めておれは禁止されてる煙草に火をつける。窓を大きく開けて煙を吐きだす。
明らかにカタギじゃないおれたちに文句を言いに来るヤツは誰もいない。通行人はあからさまに距離をとって違法駐車と煙を見ないようにする。
「なぁ」
ミラー越しにバックシートを見る。ヴァイは泣きつづけ、タオルで出血を止めようとしてる。剥き出しの脚を伝う血液。その血がどこから出てるのかは分からないし、知りたくもない。
「あと三十分で次だから」
「うん。ごめんなさい」
またバックシートが汚れる。掃除するのはおれの仕事だ。文句は言えない。こいつの稼ぎの一割は俺の取り分だし、こいつは他の女の子の三倍は稼ぐ。
「顔を直せよ」
ヴァイは頷き、どこからか手鏡を取り出す。ピンク色の、猫の模様の、子供じみた鏡。涙で汚れて路上に落ちたアイスクリームみたいになった顔。
「ごめんね、ハル」
イラつく。おれはどうして名前を教えたりしたんだろう。俺の名前を知ってるのはヴァイとエリカだけだ。エリカはいい。エリカに名前を呼ばれるだけでおれは一日中ハッピーでいられる。だけどこいつは違う。
「痛いの?」
なんとなく訊いた。好奇心だ。ヴァイはバッグからメイク道具らしいものを取り出して、どうにか顔を修復しようとしてる。
「うん。でも痛いのは大丈夫。ただいつも悲しくなっちゃうだけ」
悲しくなっちゃうだけ? 吸殻を指で弾いて窓から捨てる。
悲しくなっちゃうだけ、だ?
「ねぇハル、知ってる? 今年世界は滅びちゃうんだって」
涙声のまま顔を直す。ヴァイの話題はコロコロ変わる。情報源はウェブのゴシップサイト。ごく稀に、客からのよた話。
「新しい予言の解釈があってね。それによると、今年のクリスマスに世界は終わるらしいよ」
あと二週間弱か。世界が終わってくれるなら有難い。なんなら今日このまま滅びればいい。
「困るよね」
出かけるのに雨なんて。そんな口調だ。ヴァイとまともに会話しようとしちゃダメだ。ここ数ヶ月でそれは学んだ。
「滅びたら困るんだよね。なんか、そういうこと考えるともうどうしようもなくなっちゃう。それでまた悲しくなっちゃう」
「なんで困るんだよ?」
ヴァイの都合は無視して車を出す。遅刻するわけにはいかない。遅刻させたらペナルティだ。
急発進した車にもめげずにヴァイはメイクを直しつづける。甘いストロベリーの匂いが漂う。コロンか何かを使ったんだろう。バカ女。
「終わって困ることなんかないだろ?」
お前のクソッタレな人生に。後半はさすがに口にしない。稼ぎがなくなるのはごめんだ。
「うん」
なにに対しての肯定なのか。ヴァイオレットは泣き止んでる。バッグを漁るガチャガチャという音。何かを取りだし、何かをスプレーする。また甘ったるいストロベリーの匂い。ムカつく。
「困らないんだけどね、ホントなら。でもやっぱり困るんだ。まだ十分お金が貯まってなくて。あと少しなんだけど、計画があって。でも世界が滅びちゃったら意味ないかな」
まったく意味が分からない。開け放したままの窓から十二月の冷気が流れ込む。ヴァイは文句を言わない。肩が露出したワンピース姿で、冷たい風も気にしない。こいつには普通の感覚というものがないのかもしれない。
「たんまり稼いでるだろ?」
自分でもうんざりするほど冷たい声だ。他の女の子には絶対にこんな声で話したりしない。ヴァイオレットは俺のなかのいちばん嫌な部分を刺激する。だからイラつく。
「うん、でもまだ少し足りなくて。だから一生懸命働いてるんだよね」
「なにに使うんだよ」
こんなことは普通訊かない。他の女の子には絶対に訊かない。ヴァイになら許される気がする。こいつはそういう女だ。だから稼げる。
「ハルには分かんないよ」
怒ってるわけでも傷ついてるわけでもない。それは声で分かる。ヴァイオレットは淡々としてる。少し笑ってすらいる。
「ハルみたいな人にはぜったいわかんない。羨ましいな」
赤信号を無視したタクシーと接触しそうになる。罵りながら思い切りクラクションを鳴らす。ふざけんな。この世はクソだけどヴァイと心中する気はない。
「おれみたいな人ってなに」
窓から手を出してタクシーに中指を立てる。この仕事を始めて半年。おれは立派な街のクズに昇格した。
「選ばれた人。世界が滅びても生きられるような人」
歌うような口調。ヴァイは完全に泣き止み、顔を直して、いまはどこか楽しそうにすら見える。ミラー越しに目が合う。ヴァイは微笑む。泣き顔と同じくらいひどい笑顔だ。
「おれのなにを知ってんだよ」
「知らないけど。でもわかるよ。あたしはずっと憧れてたんだから」
意味がわからない。いつもそうだ。俺はこいつを何一つ理解できない。
「ハル、あたしはね、ずっとあなたたちみたいになりたかったんだ。でも無理だからさ。だからたくさんお金を貯めて」
ヴァイオレットの唇。塗り直したばかりの、てらてらした、下品な赤。
「生まれ変わるんだ」
おれはミラーを見ないようにする。胃のあたりがムカついて、内臓ごと吐き出したくなる。
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