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第 4 章

3. 紫明の運命の人

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 千紫明せんしめいは祇国では知らぬものはいない豪商の3男である。幼いころから親兄を支えれるように商人になるべく勉学に励んでいた。
 自分は商人になるものだと疑ってもいなかった紫明の運命を変えたのは7歳のとある出来事だ。
 鉱石の売買がきっかけで事件に巻き込まれ千家はかなり危機的な状況に陥ったことがあった。その時密売組織を一網打尽にし千家のみならず傾きかけた国の財政をも救ったのが、宰相補佐であった秦景雪その人であった。

 事件の収拾後、屋敷であった彼の姿に幼かった紫明は雷を打たれたような衝撃を受けた。
「別に千家の為にしたことではないから礼など言われても困る。それでもと言うのであれば商家として他国との繋がりを強固し得た情報を流せ」
 その冷徹な眼差しに紫明の心が震えた。

 物心ついた時から愛想笑いの得意な商い人に囲まれていた紫明にとって、愛想のアもない不機嫌そうな表情に冷たい視線、だるそうな渋めの重低音の声、全てが琴線に触れたのだ。全てが恰好良く思え、秦景雪はその日から紫明の憧れの人となった。
 
 商人ではなく官史になると心に決め、難関試験を合格するため血のにじむ努力を重ねた。武官の道を選んだのは、最初の家庭教師がたまたま武術に優れた人で紫明の武術の才を称賛したことと、秦景雪が文官でありながら武術の才に長けており歴代の長官と並んでも遜色ないと聞いたからだ。
 
 しかしその数年後、次期宰相と誰もが疑わなかった名官史秦景雪は突如として姿を消した。

 秦景雪の功績を知れば知るほど彼を崇拝する想いが強くなっていた紫明は泣いた。いつか、彼の部下になりたいと言う夢が叶わなくなってしまったから。
 
 目標を無くしてしまった紫明だったが景雪が最愛の妻を亡くし、この俗世を捨てたのだと言う噂をきき、彼の無念を晴らすべく再び奮起した。
 そしてようやく3年目の挑戦で試験に合格し晴れて武修院に入隊したと言うわけだ。

 実際のところ、一度しか会ったことのない憧れの人は紫明の中で理想的に偶像化していた。
 賢明で何事にも冷静沈着、高潔な精神、論理的で客観的な判断力、責任感が強く寛容で思いやりのある人。それが紫明の思う伝説の英雄であった。(注意:あくまで紫明の想像上に人物)
 
 紫明はそんな理想の人に近付くべく文武両道である努力だけではなく、風姿にも非常に気を使ってきた。
 幼き頃より美少女と間違われる自分の容姿に劣等感を持っていたが、景雪のような眉目秀麗な逸材が特に民から人気を得ているのを目の当たりにし、整った容姿も武器になるのだと開き直ることが出来た。
 また、7歳のころから商人弁を封印し、努力や熱血を表に出さず常に冷静沈着、余裕のある態度でいるようにした。
 
 おかげで千家のご令息の紫明と言えば、中性的な美貌にすらりと均整のとれた体格、見た目だけではなく立ち振る舞いも上品で優美と女性たちの間で噂されない日は無いほど有名になった。
 その反面、彼を知る者の間では、甘い雰囲気に騙され分別のなく近づけば凍るような冷たい眼差しと辛辣な言葉で相手を再起不能にすると恐れられてもいた。
 余談ではあるがそのギャップが熱狂的な支持を得る理由の一つである。
 
 それが武修院で出会った変わった娘のせいで、雪崩のように崩壊してしまい(地が出てきたともいう)今では当初のキャラは見る影もなく、すっかり突っ込み担当のお世話係のようになってしまっていた。
 その娘こそ籐朱璃であり、皮肉にも秦景雪の弟子であったと判明したのは数日前の事である。

(なんたる運命……)
 いつもの癖で小鉢と饅頭を朱璃の盆に載せてやってから、何となく腹が立って饅頭を自分の盆に戻す。

「な、なんたる嫌がらせっ。それでも男か~」

 たかが饅頭ひとつで噛みついてくるこのあほな娘朱璃にため息をこぼす。あれだけの嫌がらせを受けてた時になぜ怒らなかったんだよと言ってやりたい。そうしたら、ここまでこいつと関わることは無かったはずだ。
 
 この、自分の肩ほどもない小柄で見た目は虫も殺せぬような顔をしているくせに天龍ですら殺めそうな奇天烈な娘に出会わなければ……。


 
 入隊式の日、3名の女子の中で一番印象に残ったのは籐朱璃だった。絹糸のようにつややかな黒髪に小動物を連想させる純粋で綺麗な瞳、最初はキョロキョロと落ち着かない様子であったのに、式が始まってからは急に凛とし小柄なくせになぜか存在感のある立ち姿を見せた。
 注目を浴びたのはその容姿だけではなかった。名家の家柄の二人と違い平民出身であることや武闘会で入賞し武修院へ入隊した事。どれをとっても前例のない経歴の持ち主だったのだ。
 
 しかし蓋を開けてみれば、神業だと噂された弓術もそこまで大した事はなく、剣術は低レベル、要領が悪いのかなぜか集団生活についていけない問題児だった。劣等生の烙印を押されるのに時間はかからず、紫明の彼女への興味はすぐに薄れてしまった。

 ぶっきらぼうだが面倒見の良い久遠や、寡黙だがお人好しの健翔が我慢しきれずこっそりと助け舟を出しているのは知っていたが紫明は無駄な事としか思えなかった。
 しかし秀美琳の取り巻きをはじめとする馬鹿な奴らから嫌がらせを受け、そのせいで鍛錬で失敗を繰り返す朱璃に「なぜ言い訳をしないのか」と逆に気になりだした。

 罰走=籐朱璃と言われるようになり、食堂に姿を現す日が減っても彼女は甘んじて今の立場を受け入れていた。

 久遠が「行動を起こさないのは彼女自身の問題だ」と助けようとする健翔を止めたが、紫明も同意見だった。
 というより、たとえ理不尽な理由で嫌がらせを受けていたとしても自分の力でどうにかしなければ、この先やっていくことは出来ないと思ったからだ。どういった理由で武官になろうと思ったのか知らないが、生半可な気持ちで選んだのではないだろう。覚悟してここにき、自分の力で打開できなければ先はない。出来なければ早いうちにリタイアした方が彼女の為だ。
 1週間もしない内に彼女は辞める。紫明はそう思った。辞めた方が彼女の為だ。

 しかし籐朱璃は思いのほか頑張った。2週間たっても笑顔でみなに挨拶をし声を掛け、日課になりつつある罰走を続けたのだ。
 、龍樹への罰走の所要時間が日に日に更新されていくのがだんだん楽しみになってきたころ、さすがに彼女に疲労の色が濃く見え始めた。
 
 そんなある日、いつもの能天気な笑顔が無いだけではなく罰走から戻って来ないという事態が起こった。

 時間が過ぎるにつれ、とうとう我慢できなくなってしまった紫明は門限を過ぎないように裏工作に廻り、久遠と健翔もしびれを切らして救助に向かった。
 
 そこで紫明は彼女が守衛や調理員と言った武修院の職員と親しくしていることを知ったのだ。多数の彼女を心配する声に自分たちだけではなかったことになぜか複雑な思いがした。籐朱璃が計算高く彼らから同情を引き助けて貰っているのではないかと思ったからだ。
 今なら朱璃の性格上そんなことはまず考えられないのに、その時は軽侮してしまった。加えて自分を見る目も他の女と同じだったことも紫明は自分で思っている以上に落胆した。

 しかしそんな誤解はすぐに解けた。
 久遠と健翔がなぜか当人と狐とオウムを連れ返って来て以来、ともに行動し食事をとるようになり、籐朱璃が想像を絶する変人だと分かったからだ。
 そして、久遠の嫌な予感が当たった。次々と問題が発生し(当然朱璃が主役)巻き込まれ、挙句の果てに劉長官にケンカを売って目をつけられ、紫明の平穏な生活は終わりを告げた。
 
 集団演習が始まっても朱璃は期待を裏切らず、いろんな事件が起こった。こい池で溺れちゃった事件、山中置き去り事件から団炳霧と惟孫淳の退団。怒涛の1週間だったが紫明は違う班だったのでほとんど力になれず気をもむばかりでだった。
 朱璃と同じ班の健翔が「色々勉強になった」と同班の康汰享と遠い目をしていたが、なぜか一皮むけたようなさっぱりとした顔をしていたのが印象的で少し羨ましかった。

 そんな武修院始まって以来の大事件だったが、さすが籐朱璃、翌々日の弓術の自己錬中にその大事件の記憶を塗り替えるさらなる事件を起こす。
 実は利き目を封じられておりそれが解禁され神業を見せたこと、そしてまさかの「朱璃は私たちの」発言である。
 朱璃を陰ながら支えていた宗長官はともかく、率先して虐めていた氷の長官がまさかの朱璃大好き宣言。手を出したら殺しますよと言わんばかりの笑顔が今でも夢に出てくると不眠に悩むものも少なくないらしい。

 ここまで来ても紫明は朱璃が秦景雪に所縁があるとは考えもしなかったのだが、今思えばいくつか疑わしきものはあったのかも知れない。現に久遠は多少疑っていたし、健翔は野外演習で幾度となく師匠との旅の話きき、その師匠は将軍クラスの人物であると確信していたらしい。

 とにかく、紫明にとって神よりも崇め奉りたい憧れの人の唯一の弟子だと言うことが判明し、残念ながら間違いなさそうだ。朱璃のおかしさは師匠譲りではないだろう。嫌絶対違うと結論づける。おそらく朱璃の扱いに自分と同様困り果て、武修院入隊を勧めたに違いない。



「……あのお方のために俺はこいつの世話をすることになったとすれば、運命」

「何、何? えっ くれるのお饅頭。ありがとう」

 能天気な笑顔が多少ムカつくが、運命と思って諦めよう。いや、これは景雪から与えられた使命、いや試練なんだ。「取り上げねぇから、一口で食うのは辞めろ」
 袋リスのように頬がパンパンになっている姿に無意識にため息をついた。
 
 朱璃の肩に乗っているキュウがもらった付け合せの野菜を片足で掴み、ボロボロ朱璃の頭の上にこぼしながら食っている。ボンは綺麗にお座りをしておすそ分けを今か今かと待ちつつ、つぶらな瞳で催促してくる。そんないつもの光景が変に幸福感を与えてくれるこの状況が思いのほか気に入っているのはなぜだろう。

「お前今日から、夕食後の鍛錬の前に1時間、読み書きの勉強な。禁軍の武官が識字が出来ないなんて示しがつかないだろう。って言うか任務に支障が出るに決まってんだろう。使徒として許せるはずがない」

「えっ?なんやって? 何いまさら。しゃべれるし、大体読めるし大丈夫! 書き取りは汰享にまかせるし!」
 卓越した記憶力を持つ汰享が朱璃の辞書であり翻訳機、メモ、いわゆる優秀な秘書を得た朱璃は今までにない便利さを味わっていた。加えて可愛いし癒されるし怒らないしいいことずくめだ。

「馬鹿。いつまでも汰享がそばに居てくれるわけないだろう」
「俺も賛成だ。お前は身体よりも頭を鍛えろ」
「大丈夫。お前ならできる。俺も医学書が読めるよう手伝ってやろう」
 
 久遠からも追い打ちをかけられ助けてと訴えたのに健翔からは期待を裏切るお言葉が返ってくる。
 朱璃はがっくりと肩を落とした。

 朱璃はどちらかというと理数系が得意で、昔から国語や英語は苦手なのだ。苦手意識が克服できぬまま、大学受験の真っ最中、しかも周りから期待していないからと言われれば言われるほど重圧を感じトラウマですらあった。
 この世界に来た時は死活問題だったので必死で言葉を学んだが、もう不自由ないし大満足だ。
 この国の識字率は7割ほどでその中でもかなりの格差があると認識している。4年でここまで出来たら合格点だと思う。
 どうして紫明の変なスイッチが入ってしまったのだろうか。
 
「言うたやん。私はこの世界の人間やないって。ここまで出来るようになったらもう十分やん」

「あほか。お前が異国人だろうが、異世界人だろうが、宇宙人だろうが関係ない。禁軍の武官として困るから言ってるんだ」

「え――。全然困らへん」
「困れ。あほ」


 
 武具選定の日、景雪の事や王の事がばれたに、この4人には朱璃は自分の素性を全て告白した。嘘をつくのも抵抗があり、変に設定を工作してもポロっと本当の事を言ってしまう自信があったのでありのままを話したのだ。
 4人は奇想天外な話の割にはすんなり受け止めてくれ、朱璃は拍子抜けした。
 思わず驚かないのかと聞くと逆に尋ねられた。

「どこから来てもお前はお前だろ? って言うか人間として何か違うのか? 術を使えるとか、羽が生えていて飛べるとか、水の中でも息が出来るとか」

「全部出来ひんな……人としてはたぶん同じだと思う」
「何で自信なさげなんだよ」

「じゃあ別に何も変わらないだろ。何心配そうな顔してんだ。お前は。同じ国の人間だって、いや同じ地域同じ親から生まれても皆違いがあって当然なのだから、どこから来たかは大きな問題にはならないと思うぞ」

「そういうことだ。お前は変人いや、個性は強いが、この国の生まれであっても変人はいくらでもいるし常識のない奴もたくさんいるからな」

「まぁ、だからと言って褒めているわけでもないから。お前はもう少し常識を身に付けないと命がいくつあってもたりない。まさか不死身だと言わないよね」

「不死身ちゃうけど」

「じゃあやっぱりお前は、どうしようもなくお人好しで、前向きで、鈍感で、生きることに貪欲な一人の……変人だろ」

「紫明。そこは一応一人の人間だろって言ってやれ」

 彼らは自分の事を、もうすでに受け止めてくれている。朱璃はそう感じた。だからこそ、異世界から来たことを大した事でないと言うのだ。それも個性の一つと普通に受け止めただけの事。
 それは涙が出るほど嬉しいことだった。お前はお前だろう?そう言ってくれた。 そうだ。自分自身がそのことを忘れてはいけないのだ。
 逆に諭されて朱璃の一世一代の告白はあっけなく終わった。

 


「そもそも、その商人弁が問題なんだ。景雪様はどのようなお考えでそうなさったんだろう」
 何か深いお考えがあっての事だろうと紫明は景雪を全面肯定する。

「何のお考えもないと思うで」

「そんなわけあるか。景雪様の言動に意味がないことなどあるはずがないだろう。とにかく、ここに居る間に小学論くらいは身に付けてもらうからな! 返事はっ」
「イエッサー」

「明日から饅頭はキュウにやる」

「ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます」
 
 
 その後、半泣きの朱璃に汰享が小さい声で「僕は出来るかぎり朱璃さんのおそばにいてお役に立ちたいと思っています。だから僕に出来ることがあったら何でも言ってくださいね」と告げたものだから、奇声を挙げた朱璃が汰享を激しく抱きしめて大騒ぎになった。
 で、結局紫明や久遠からまたもやお叱りを受け、食堂に集まる同期から生暖かい目で見守られる羽目となる。


 将来、朱璃は紫明の読み書きの特訓のお蔭で九死に一生を得ることになるのだがこの時は知る由もなく、また、康汰享がこの仲間と出会って培われた能力をさらに開花させ、王家の史官として活躍するなど夢にも思わないのであった。

 

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