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六◆偽りの過去
五
しおりを挟む◇◇◇
そこには確かに帝がいた。千早の視界には、布団に上半身だけ身体を起こし、項垂れている帝の姿が映っていた。
だが、彼は部屋に入って来た千早の存在に、どうも気が付いていない様子だった。
「……帝?」
千早は入口に立ったまま、恐る恐るその名を呼ぶ。“帝”――と、愛するその名前を呟いた。けれど、やはり帝は反応を見せない。
――ドクン。
彼女の心臓が跳ね上がる。自分の言葉が聞こえていない様子の帝に恐れすら感じた。
どうして顔を上げないのかと、何故返事を返してくれないのかと――。
「帝……? ねぇ、聞こえないの……?」
大きな不安が襲ってくる。
もしも彼が自分の知っている帝では無くなっていたら、もしも自分のことが分からなくなっていたら――そう思って足が竦んだ。
「ねぇ、帝――」
けれどそれでも、彼女はその名を繰り返し呼ぶ。そうしないわけにはいかなかった。だって、一月ぶりの再会なのだから。やっと目覚めてくれたのだから。
彼女は繰り返す。その名前を――何度も、何度でも。
すると何度目かの呼びかけの末――ようやく帝が反応を示した。彼は思い出したように肩をびくりと震わせて、その顔をゆっくりと、本当にゆっくりと上げる。
そして、目があった。虚ろな帝の瞳が――ゆっくりと見開かれる。
「……ち……はや?」
「――っ」
刹那、帝の口から囁かれたその名前。それは間違いなく自分の名前で、聞きなれた懐かしい声で、千早の胸に熱い気持ちが込み上げた。
同時に溢れ出す……大粒の涙。それは頬を伝っても尚留まらず、ぱたりぱたりと畳に滴り丸い跡を残す。
「――ッ」
声にならなかった。何一つ声にならなかった。嬉しくて、嬉しくて。
身体から力が抜ける。張り詰めていた気が一気に緩み、彼女はその場にへたり込んだ。ぼろぼろと涙を流し、堪《こら》えきれない嗚咽を必死に堪えながら、彼女はただただ涙を流す。
「良かっ……、良かったよぉ」
「……千早」
彼女の涙は止まらない。今まで必死に我慢していた分、関を切ったように溢れ出した涙は、どうやっても止めることは出来なかった。
帝はそんな彼女の姿に困惑しながら、それでも必死に手を伸ばす。
不自由な身体で、部屋の入り口で座り込んでしまった恋人を抱きしめようと、彼は布団からはい出した。
「――千早」
帝の伸ばした手が、千早に触れる。その両手が、彼女の肩に――。そして、帝はとうとう彼女を抱きしめた。やせ衰え、ギシギシと音を立てて軋むぼろぼろの身体を動かして、帝は全身で千早を抱きしめる。
「……ごめんな、心配かけて。でも、もう大丈夫だから。もう、絶対に一人になんてしないから」
帝は繰り返す。「心配かけてごめん」「もう大丈夫だ」と。自分の腕の中で涙を流す千早の気が落ち着くまで、何度も何度も繰り返した。背中の傷痕の痛みも、全身の倦怠感も全て無視して――何度も千早の名前を呼んだ。
そして千早はそんな帝の腕の中で、失った時間を取り戻すように――しばらくの間、ただ涙していた。
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