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四◆迷いと覚悟の、その狭間
一
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空は真っ青に澄み渡り、吹き抜ける風が肌に心地よく感じられる季節。桜の木の枝には青々とした葉が生い茂っている。
千早がこの時代に飛ばされてから二週間が経過していた。そんなある日の――まだ隊士たちも起き出してこない――早朝に、千早は普段は誰も近づかない蔵の傍で一人稽古を行っていた。
まず、けが防止のためのストレッチと柔軟体操を約10分間。その後、腕立て、腹筋、背筋、スクワットを50回ずつ行い、それが終わったらようやく素振りと足さばきの練習だ。素振りは、正面素振りと早素振りを納得がいくまで繰り返す。土の上での足さばきは最近ようやく慣れてきたところだ。
――千早は沖田に罵倒されたあの日以来、深夜に帝の部屋を訪れることも、一人ひっそりと泣くこともやめた。それまでは、まるで自分が悲劇のヒロインにでもなった気でいたが、沖田の言葉で考えを変えたようだ。
確かに自分は今不幸かもしれない。でも、自分だけが不幸なわけではない。それに、この時代に飛ばされてくるまでの生活が恵まれていたというだけで、決して今が不幸なわけではないのだと、そう考えることにした。
彼女は無心で素振りを繰り返す。そうして――彼女がここで朝稽古を初めて一時間程経過した頃だろうか。彼女はひと息つこうと、クールダウンしつつハンカチで汗を拭っていた。制服のポケットに入れていたハンカチで、未来からこちらに持ってこれた数少ない私物の一つ。学校のカバンも部活用のカバンも、気付いたら無くなっていた。おそらく未来に置いてきてしまったのだろう。猫を触ろうと、“あの場所”でカバンを下ろしてしまったから。
千早がそのときのことを思い出していると、背後から声をかけられた。彼女は慌ててハンカチを胸元に仕舞う。そして振り返れば、そこには原田左之助が立っていた。
「気合入ってるな、佐倉。随分早いじゃねぇか」
「おはようございます。原田さんこそお早いですね」
「あぁ、なんだか目が覚めちまってな。そいやあ今日だっけか、初の巡察」
「そうなんです。それであまり寝られなくって」
「ははっ、まるで子供だな」
「本当ですよね」
原田左之助は十番隊組長で、大層な槍の使い手である。歳は今年で二十四。性格はやや短気なものの、外見は新選組で一、二を争う美男子で、遊郭ではいつも女郎に追いかけられているという。
二人は軽い挨拶を交わした後、何とも無しに手近な大岩に腰かけた。そうして、何気ない会話を始める。
「結局、帯刀は許されたのか?」
「……あー、いえ、沖田さんが私にはまだ早いって」
「まぁ、そうだよな」
――今日は初の巡察だ。けれど、千早はまだ帯刀を許されていなかった。沖田曰く、小姓に刀は必要ないとのこと。それに実際のところ、千早は自分に刀が扱えるとは思っていなかった。それに、誰かを斬るなんて覚悟も全く出来ていないわけだから、持たされなくて逆に良かったとも言える。まぁ、それはともかくとして。
「本差は難しいですけど、せめて脇差くらいは欲しいかなって思ってるんです」
いくらここが日本とは言え、今は幕末で武士のいる時代だ。流石に丸腰というのは不安である。
大太刀の帯刀を沖田に却下されたときには脇差のことにまで思い当たらなかったが、昨夜日向と話していて脇差の話になったのだ。今日の巡察は日向も共に行くことになっているが、その際日向は脇差を所持していくらしい。
実は、千早も一応護身用具は持っている。制服の胸ポケットに入れていた、タクティカルスティックのボールペンだ。過保護な兄に持たされたもので、未来ならある程度護身用として使えそうなものだが、この時代で使うには少々心もとない。何せリーチの違いが歴然だ。
そんな千早のぼやきに、原田は「はてな?」という顔をした。
「っていうかお前、脇差も持ってねぇのか。護身用だぞ。駆け落ちするのに脇差一本持たねぇってのはどうかと思うが。よく京まで来られたな」
「あっ……あー、それは……」
――しまった、と千早は思った。けれどそろそろ嘘をつくのにも慣れてきた。彼女は一瞬の沈黙の後、作り笑いで答える。
「途中でお金がなくなってしまって、売っちゃたんです」
すると、原田はあきれ顔で肩をすぼめた。
「計画性ねぇなー」
「ですよね」
千早はへらっとした笑みを浮かべて、視線を自分の足先に落とす。
嘘をつくのにも慣れてきた。けれど罪悪感がないといえば嘘になる。それに一つ一つは軽い嘘とはいえ、積み重なればそれは大きな嘘となり、いつしか取り返しのつかないことになるのでは……という不安も付きまとう。
千早がこの時代に飛ばされてから二週間が経過していた。そんなある日の――まだ隊士たちも起き出してこない――早朝に、千早は普段は誰も近づかない蔵の傍で一人稽古を行っていた。
まず、けが防止のためのストレッチと柔軟体操を約10分間。その後、腕立て、腹筋、背筋、スクワットを50回ずつ行い、それが終わったらようやく素振りと足さばきの練習だ。素振りは、正面素振りと早素振りを納得がいくまで繰り返す。土の上での足さばきは最近ようやく慣れてきたところだ。
――千早は沖田に罵倒されたあの日以来、深夜に帝の部屋を訪れることも、一人ひっそりと泣くこともやめた。それまでは、まるで自分が悲劇のヒロインにでもなった気でいたが、沖田の言葉で考えを変えたようだ。
確かに自分は今不幸かもしれない。でも、自分だけが不幸なわけではない。それに、この時代に飛ばされてくるまでの生活が恵まれていたというだけで、決して今が不幸なわけではないのだと、そう考えることにした。
彼女は無心で素振りを繰り返す。そうして――彼女がここで朝稽古を初めて一時間程経過した頃だろうか。彼女はひと息つこうと、クールダウンしつつハンカチで汗を拭っていた。制服のポケットに入れていたハンカチで、未来からこちらに持ってこれた数少ない私物の一つ。学校のカバンも部活用のカバンも、気付いたら無くなっていた。おそらく未来に置いてきてしまったのだろう。猫を触ろうと、“あの場所”でカバンを下ろしてしまったから。
千早がそのときのことを思い出していると、背後から声をかけられた。彼女は慌ててハンカチを胸元に仕舞う。そして振り返れば、そこには原田左之助が立っていた。
「気合入ってるな、佐倉。随分早いじゃねぇか」
「おはようございます。原田さんこそお早いですね」
「あぁ、なんだか目が覚めちまってな。そいやあ今日だっけか、初の巡察」
「そうなんです。それであまり寝られなくって」
「ははっ、まるで子供だな」
「本当ですよね」
原田左之助は十番隊組長で、大層な槍の使い手である。歳は今年で二十四。性格はやや短気なものの、外見は新選組で一、二を争う美男子で、遊郭ではいつも女郎に追いかけられているという。
二人は軽い挨拶を交わした後、何とも無しに手近な大岩に腰かけた。そうして、何気ない会話を始める。
「結局、帯刀は許されたのか?」
「……あー、いえ、沖田さんが私にはまだ早いって」
「まぁ、そうだよな」
――今日は初の巡察だ。けれど、千早はまだ帯刀を許されていなかった。沖田曰く、小姓に刀は必要ないとのこと。それに実際のところ、千早は自分に刀が扱えるとは思っていなかった。それに、誰かを斬るなんて覚悟も全く出来ていないわけだから、持たされなくて逆に良かったとも言える。まぁ、それはともかくとして。
「本差は難しいですけど、せめて脇差くらいは欲しいかなって思ってるんです」
いくらここが日本とは言え、今は幕末で武士のいる時代だ。流石に丸腰というのは不安である。
大太刀の帯刀を沖田に却下されたときには脇差のことにまで思い当たらなかったが、昨夜日向と話していて脇差の話になったのだ。今日の巡察は日向も共に行くことになっているが、その際日向は脇差を所持していくらしい。
実は、千早も一応護身用具は持っている。制服の胸ポケットに入れていた、タクティカルスティックのボールペンだ。過保護な兄に持たされたもので、未来ならある程度護身用として使えそうなものだが、この時代で使うには少々心もとない。何せリーチの違いが歴然だ。
そんな千早のぼやきに、原田は「はてな?」という顔をした。
「っていうかお前、脇差も持ってねぇのか。護身用だぞ。駆け落ちするのに脇差一本持たねぇってのはどうかと思うが。よく京まで来られたな」
「あっ……あー、それは……」
――しまった、と千早は思った。けれどそろそろ嘘をつくのにも慣れてきた。彼女は一瞬の沈黙の後、作り笑いで答える。
「途中でお金がなくなってしまって、売っちゃたんです」
すると、原田はあきれ顔で肩をすぼめた。
「計画性ねぇなー」
「ですよね」
千早はへらっとした笑みを浮かべて、視線を自分の足先に落とす。
嘘をつくのにも慣れてきた。けれど罪悪感がないといえば嘘になる。それに一つ一つは軽い嘘とはいえ、積み重なればそれは大きな嘘となり、いつしか取り返しのつかないことになるのでは……という不安も付きまとう。
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