その空を映して

hamapito

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(5)過去

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 ずっと胸の奥に存在していた。
 一度刻み付けられた憧れは決して消えることはなかった。たとえ画面越しだったのだとしても。その光を一度でも目にしてしまったら、その世界に一度でも触れてしまったらもう知らなかったときには戻れない。あの背中に、世界に手を伸ばしたくなってしまう。
 光を失いかけて初めて自覚する。
 ――自分はこんなにも恋焦がれていたのだと。

 ***

 肌を流れた汗が顎の先から落ちる。リュックの口へとまっすぐ入っていくそれを気に留める余裕はなかった。水分不足によるものではないと分かりながらも指先は震える。体の中では競技前の緊張とは違う不規則な鼓動が鳴り響いたままだ。一体何が起きたのかわからず、その場から動けなくなった。
 競技開始までの待機場所であるフィールド内のテントの下。本番直前の練習を終えて戻ってきたところだった。あとは静かに自分が競技を始める高さにバーが設置されるのを待つだけ。飲み物を出そうとリュックの口を開き、ついでに軽く汗を拭おうと手を突っ込んだ。タオルを掴んだはずの指先がするりと通り抜ける感覚に違和感を覚えつつも持ち上げる。
 中学校名と陸上部の名前が入ったタオルは毎年デザインを変えて作るのがうちの伝統だ。今年は鮮やかなスカイブルーに白色の文字が浮かび、夏の空を思わせるシンプルなデザインだった。
 同級生で部長をしている木村が俺と鷹人に手渡すときに言った。
 ――うちで一番全国に近いのはお前たちだから。
 手にしたタオルを広げてみると、右端には鷹人の名前が、左端には俺の名前が入っている。ほかの部員の名前はどこにもない。俺たちふたりだけ。
「え、これ」
 鷹人と同時に振り返れば、狭い部室内で部員全員が同じように空色の帯を広げて笑っていた。
 ――これは俺たちからのエールだから。
 仲間からの応援と期待。それがこのタオルには詰まっていた。こんなにも嬉しくて、こんなにも励まされることがあるだろうか。母さんなんて喜びすぎて勝手に俺の名前のところに小さな花の刺繍までしたくらいだ。受け取ったその日から大事な大会の日には必ず持ってきていた。大切なお守り。それが――。ひっかけたとは言えない。刃物が使われたのだと容易に想像がつく。それほどハッキリと夏の空は切り裂かれていた。
「どした? なんか忘れ物?」
 足元のリュックを開いたまま固まってしまった俺を、隣に座っていた鷹人が振り返る。傾けていたペットボトルを戻した鷹人の手の中でパチャン、と水の揺れる音が響く。
「あ、いや、なんでもない」
 引き出しかけていた手を咄嗟に戻し、ファスナーを閉めようとするが指先が震えてうまく掴むことができない。ドクドクと激しくなる鼓動。隙間から見えてしまった自分の手の中。
 ――こんな時じゃなければ振り払えたかもしれない。笑うか怒るかできたかもしれない。
 でも、今はもう本番直前だ。それも全国への切符がかかった、負ければそこで引退になる、中学時代を締めくくるかもしれない大事な……本当に大事な大会なのだ。
「遼平?」
「……っ」
 かろうじて言葉を飲み込む。今吐き出すことはできない。鷹人を巻き込むことだけはしたくない。
 俺も鷹人もこれから跳ぶのだ。何度と繰り返してきた練習の成果が、この先の未来がここで決まる。「お互いベストを尽くそう」と言い合ったのはほんの数分前のことだ。チーム競技なら代わりがいる。控えのメンバーがいる。でも俺たちには代わりなんていない。自分の記録に挑戦できるのは自分だけだ。跳べなければそれまで。そこで――終わる。
「遼平……?」
 鷹人の声には先ほどよりも心配するような空気が滲み出ている。なんでもない、って言えばいい。ちょっと緊張しちゃって、って笑えばいい。そうすれば少なくとも鷹人は、鷹人だけはいつも通りでいられるはずだから。ベストを尽くせるはずだから。
 ――俺はもう「ベスト」とは程遠い状態になってしまったけれど。
 自覚してしまった自分の状態に苦しさが増していく。言葉ひとつ返せず、動きを止めてしまった俺に鷹人のまっすぐな視線がゆっくりと下りていく。咄嗟に閉じきれなかったリュックの口を手で押さえたが、わずかに遅かった。
「……」
 鷹人の顔を見ることができない。何を言われるだろうかと怖くてたまらない。できれば何も言ってほしくない。誰にも知られたくない。誰かに助けを求めるよりもこの事実を消し去ってしまいたい。自分はこんなことをされる人間なのだと思ったら、怒りよりも恐怖の方が上回ったし、恐怖とともに恥ずかしさが体を強張らせた。どんなに強く両手で口を閉じても、一度目に入れてしまったものの記憶を消すことはできない。
 鷹人はただ一言「……ひどいな」とだけ言った。
 それで十分だった。下手に騒がれるのも、同情されるのも嫌だったから。鷹人はそれ以上何も言わなかった。言葉にすることなく、俺へと向けた視線と表情で「どうする?」と訊いていた。
 ――どうすればよかったのか。
 この時の答えは今もわからないままだ。
 誰かに助けを求めればよかったのか。犯人を捜してもらえばよかったのか。仮病を使ってでも棄権すればよかったのか。
 ――どれを選択しても、きっと結果は変わらなかっただろう。この事態を招いた原因はもっと前の段階にあったはずだから。
「……」
 首を振るだけで精一杯だった。鷹人はそんな俺の肩にそっと手を置き「うん。じゃあ、行こうな」と何事もなかったかのようにいつもと同じ言葉をかけてくれた。
 鷹人の優しさに触れて、俺の体からは少しだけ力が抜けた。
 ――だけど、そこまでだった。
 俺はバーを越えるどころか、踏み切ることもできなかった。スタート位置に立った瞬間に頭が真っ白になった。観客席から見守ってくれている仲間たちが俺と鷹人に向かってタオルをまっすぐ広げている。それは真上に広がる本物の空よりも鮮やかで美しく、眩しかった。リュックの奥に押し込めたはずの、失った輝きがそこにはあった。
 ――もう、ダメだ。
 瞼に焼き付いた光景は離れず、落ち着きを取り戻したはずの鼓動も再び激しく主張を始める。何度深呼吸を繰り返しても、嗅ぎなれた競技場の匂いに触れてもぼやけていく視界は戻らない。
 まっすぐ引かれた切り口が名前の見えない悪意の強さを象徴していた。
 指先から広がった震えは体全体を覆いつくすまでに大きくなっている。俺はその場にしゃがみ込んだ。真上から照り付ける太陽に小さくなった自分の影が焼き付けられていく。それだけがひどく鮮明に脳裏に刻み込まれた。
 ――その後のことは、正直よく覚えていない。
 それから俺は一度も跳んでいない。「跳べない」と思い知らされるのが、「跳べなくなった」と認めるのが怖くて。俺は「跳ばない」ことを決めたのだ。

 ***

 声すら出せず、その場から動くこともできなかった俺の目の前。駆け寄った数人の背中が重なっていく。「朝見さん?」「今、持ち上げますから」声を掛け合いながら添えられたいくつもの手がゆっくりと看板を持ち上げていく。視界を再び大きな影が過ぎていき、地面に倒れたままの朝見の姿が現れる。
「……ん」
 空耳かと思うほどにか細い声が聞こえ、風のせいではない小さな動きで身じろぎしたのがわかった。
「あさ」
「朝見さん!」
「朝見コーチ!」
 俺が名前を呼ぶより早く、近くに駆け寄っていたひとたちが声を上げた。「大丈夫ですか?」「起き上がれますか?」次々とかけられていく言葉の合間に朝見の静かな声が挟まれる。投げかけられる問いのひとつひとつに「大丈夫」と朝見が丁寧に繰り返していく。
 その言葉にたまらなくホッとして、わずかに抜けた力の先から震えが湧き上がる。
 何が起きたのかわからなくなった。指先一つ動かせなくて、名前を呼ぶことさえできなくて。どうしていいのかわからなくて。怖かった。朝見が――やっと出会えた光が――目の前で消えてしまうのが、失われてしまうのが怖くてたまらなかった。振り払ってしまったけれど。逃げ出してしまったけれど。
 ――遼平は跳べるよ。
 ほかの誰でもない、朝見だから。朝見が言ってくれた言葉だから。俺はどうしようもなく揺さぶられた。揺さぶられ、見つけてしまった感情にどうしていいかわからなくなって駆け出したのだ。
「遼平」
 両肩を支えられて立ち上がった朝見が、腕に擦り傷を作った朝見が、全身を砂で汚してしまった朝見が、そんな状態でも口にするのは俺の名前で。
「ケガはない?」
 自分のことよりも先に心配するのは俺のことで。
「……っ」
 まっすぐ向けられる瞳を、空を映し続けるその瞳を見つめ返すことしかできない。ゆっくりとぼやけていく視界の中で、朝見は両隣の手からそっと離れ、地面に座り込んだままの俺の前に膝をついた。
「立てるかい?」
 差し出された白い手のひらには薄く血が滲んでいた。
 俺のせいで、俺を庇ったせいで、朝見は、朝見の綺麗な肌は傷を負った。それが擦り傷程度のケガであれ、俺が負わせたという事実に変わりはない。痛々しい傷口を避け、伸ばされた指先を両手で掴む。触れても消えない、確かな感触と体温。朝見は目の前にいる。俺の手の中にいる。――もう、限界だった。
「ご、めん」
 歪んだ視界を向け続けることはもうできなくて、ぎゅっと閉じた先から熱が零れていく。
「ううん。遼平が無事でよかった」
 いつもと変わらない声がいつも以上に優しく感じられ、抑えきれない想いがせり上がってくる。
「ごめん、なさい」
 言うべきことは、伝えるべきことはもっとあるはずなのに。同じ言葉を繰り返すことしかできない。
「本当に、ごめ」
 ふわりと体を包み込む温かさに、濃くなった甘い香りに吐き出しかけた言葉は消されてしまった。
「遼平が謝る必要なんてないよ」
 耳へと直接落とされた声。頬に触れた息。鼻先から伝わる鼓動。肩に回された腕に込められた力が震え続ける俺の体を静かに解いていく。
「あれは風のせいだよ。だから誰も悪くないよ」
「でも、あのとき俺が」
 顔を上げた俺に朝見は少しだけ寂しそうに笑った。
「遼平のせいじゃないよ。だけど、ごめん。デートはまた今度にしよう」
「え」
「ちょっと急用ができちゃったから」
 そっと離された体が立ち上がるのに合わせて、繋いでいた手が引き上げられる。前のめりになった俺の肩を支えながら朝見は言った。
「家まで送れなくてごめんね。今日はちょっと帰れないかもしれないから、夕飯用意しなくていいって涼子さんに伝えてくれる?」
「え、それってどういう」
「本当にごめんね。気をつけて帰ってね」
 向けられた笑顔には、これ以上は説明できないのだとはっきり書かれていた。
 朝見がこんなふうに表情で拒むのは初めてで、
「……わかった」
 俺は頷くことしかできなかった。

 いつもと同じ夕方のニュース番組。連日の報道内容さえ大した変わりはなく、隙間に挟まれたのはうちの高校の体育祭が明日行われるという、なんとも平和な話題だった。どこにも昼間に起きた事故のことは出ていない。あんなにたくさんの目撃者がいたにも関わらず、テレビの中では誰も朝見のケガについて触れていなかった。
「遼平? どうかした?」
 向かいに座る母さんの声に、テレビに向けていた顔を戻す。
「ご飯中にぼーっとするなんて、お行儀が悪いわよ」
「あ、うん」
 正面には母さんが、斜め向かいには父さんがいて、俺の隣は空いていた。テーブルの上には三人分の食器が並べられている。
「朝見さんがいなくて寂しいの?」
 ――寂しい?
 さらりと放たれた言葉にパクっと心臓が揺さぶられ、声が不格好に跳ねる。
「そ、そんなわけないだろ」
「照れなくてもいいじゃない」
「照れてなんかないから」
 にやにやと微笑む母さんの視線をご飯のお茶碗を傾けることで遮る。口の中へと掻き込んだ米粒はどれだけ咀嚼しても味がわからない。飲み込んでも、飲み込んでも胸がスカスカとする感覚は抜けない。
「誰も盗らないんだから落ち着いて食べなさいよ」
 呆れを混ぜた母さんのため息が聞こえてきたけれど、そのままご飯を掻き込み続けた。この落ち着かなさをどうにかしたかった。食べ物で埋められるなら埋めてしまいたかった。
 なるべく視界に入れないようにと気を張り続けてきたから? なるべく触れることのないようにと意識し続けてきたから? その緊張が解けてしまったから、こんなにも胸に穴があいたような心地がするのだろうか?
 それとも……今のこの状況を作った原因が俺にあるから、こんなにも落ち着かないのだろうか。
 朝見のいない食卓。平和な話題しか流れないテレビ。
 ――朝見の用事はきっとコレだろう。
 風で倒れた看板。その下敷きになった朝見。幸い大したケガはなかったものの、これが表に出れば学校側の責任が問われる。明日の体育祭だって中止になるだろう。
 でも、どこにもその話は出ていない。誰とどういうやり取りをしたのかはわからないが、おそらく朝見が報道されないように動いたのだろう。なんのために? 誰のために?
 そんなの、もう――わかりきっている。
「遼平は明日体育祭なのか?」
「……うん」
「リレー走るのよね? とびっきり美味しいお弁当にしてあげるわね」
 親子三人の会話に不自然なところなんてない。違和感を覚える要素なんてない。それなのにどうしてだか落ち着かない。
 ――デートはまた今度にしよう。
 ――今日はちょっと帰れないかもしれないから。
 ――気をつけて帰ってね。
 朝見の言葉が耳の奥で再生される。デートが延期になろうが、一緒に帰れなかろうがそれだけだ。朝見がやってきたのは一か月前で、この食卓にいたのもそれだけの期間でしかない。これが本来の当たり前の風景なのだから、朝見の不在を寂しく思うなんて、違和感を覚えるなんてそんなことはないはずだ。
 どうせ朝には何事もなかったかのようにいるのだろう。柔らかな光を纏わせて「おはよう」と笑うのだろう。だから俺が不安に思うことなんて何もないはずだ。
 ――それなのに。
 焼き付いた光景が頭から離れない。大したケガではなかったけれど、あの瞬間に感じた息苦しさが消えてくれない。何より「これ以上は説明できない」という、朝見からの拒絶が初めてで、たとえそれが俺のためだったのだとしても、そのことがたまらなく不安にさせる。このまま二度と会えなくなるわけでもないのに。
「……っ」
 残っていたご飯を掻き込み、目の前のとんかつにかぶりつく。少しだけ冷めてしまってはいたけれど、衣はサクッと音を立て、中のお肉は柔らかくまだ温かかった。噛めば噛むほど旨味が口に広がる。母さんの作る料理はいつだって美味しくて、いつだって胃だけでなく胸の中までも満たしてくれる。食べれば食べるほどしあわせな気持ちにしてくれる。だからきっとこの言葉にならない喪失感だって消してくれるはずだ。胸の中にとどまり続ける心地悪さを、せり上がってくる息苦しさをご飯を飲み込むことで押し込める。
「そんなに慌てて食べたら喉詰まらせるわよ」
 いっそ喉を塞いだなら……わずかな隙をついて零れようとする不安を気にしなくていいのに。すべてを気のせいだと思うことができるかもしれないのに。

 朝見は次の日の朝になっても、戻ってはいなかった。
 母さんが昨日と同じサクランボの器をテーブルに置きながら言った。
「今朝、朝見さんから連絡があってね。まだしばらくかかりそうなんですって」
「……そう、なんだ」
 母さんの言葉を聞いて初めて自分が朝見の連絡先を知らなかったことに気づいた。そんな必要もないほど身近にいた、ということにも。
 昨日よりもやけに酸っぱく感じる赤い実を俺は静かに飲み込んだ。

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