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第六章 第一部
21 頂点会議
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「これはお珍しい、侍女頭直々に神殿にお越しになられるとは」
「そんなことはないでしょう。役目の折々には足を運んでおります」
ここは神官長の執務室だ。キリエが神官長に正式に面会を求め、案内された。
「ということは、お役目の話でここへ来られたということでよろしいですか」
「もちろんです」
キリエが腰掛けるテーブルの前にはふわっと焼き上げられ、とろりとクリームがかけられたケーキと、花の香りのする高級なお茶が出されている。
「お役目で来られてもお茶ぐらい飲んではいただけましょう」
「せっかくのご好意ですが、お茶を飲むために参ったわけではございませんので」
「何も入れてはおりませんよ?」
神官長が薄く笑いながらそう言った。
セルマに命じてキリエの食事に薬を入れさせておきながら、この平然とした冗談とも取れる言い方に、キリエはあらためて気持ちを引き締める。一筋縄でいく相手ではない。
「そんなことは思っておりません。ただ、役目の時にはいつも何もいただかないと決めているだけです」
本当のことだ。
「さようでしたか、申し訳ありません。では、これは下げさせることにいたします。なあに、今日の当番の茶菓子になるだけのこと」
神官長が当番の神官を呼び、侍女頭は役目の時には何も口にされないそうだ、おまえがいただきなさいと言って下げさせる。神官は丁寧に礼をしてから下がっていった。
「普通なら口にできぬ最上級の菓子と茶。一度、そういうものを口にして、これから先、あの者の人生に変わりがなければいいのですが」
贅沢を知らぬ神官に分不相応な贅沢。その一口の菓子がその者人生に影響を与え、人生観を変え、そして生き方そのものを変えてしまう可能性は確かにある。そこまでのことはなくとも、この先、二度と口にできぬかも知れぬ菓子を思い、苦しむことになる可能性も。
神官長はそれをできるだけ平坦な言葉で、キリエの良心に切り込む言い方で伝えてきた。
嫌な言い方だとキリエは思ったが、その思いを顔にも口にも出すことはない。これがもしも他の者なら、良心の呵責を感じたり、指摘されたことで驚いたりするかも知れないが、自分はそのような人間ではない。そんな感情を全て押し殺し、宮に生涯を捧げてきたのだ。今更そんなことの一つや二つで動揺などするはずもない。
無音の室内。
さっき神官が下げたお茶が残した温度が最後の温かさであったかのように、その温かさが冷えると共に、まるで温度すら存在しないような静寂が神官長の執務室に満ちていた。
まるで一幅の絵のように、凍った時が流れた。
「では、お役目の話をうかがいましょう」
「ええ」
神官長もキリエも何事もなかったかのように話に入る。
片方はシャンタル宮の人の頂点に立つ侍女頭、もう片方は神殿の長たる神官長。
役割を考えるなら、ごく普通の光景であるはずだ。
だが、今は命がけの決闘のような対峙。
「リュセルスの様子にマユリアがお心を痛めていらっしゃいます」
キリエが前置きなく用件を口にする。
「ほほう」
神官長が慈悲深い微笑みを浮かべ、ゆるやかにそう言った。
「シャンタルとマユリアには、そのような世俗の騒ぎはお耳に入れぬようにしてまいりました。それを、誰がそのようにお知らせになったのかが分かりません」
「それはそれは、不思議なことですなあ」
「ええ、本当に」
「それで、それを神殿にどうしろとおっしゃるのでしょう。そもそも神殿も宮の一部、そのようなことは侍女頭のキリエ様のお心一つでどうとでもなりましょうに」
その通りだった。
シャンタル宮の神殿は、全国の神殿の総本山だ。だが、その役割はシャンタル宮の指示の元、女神の託宣を民に伝え、宮が平穏に無事に運営するための補佐が主であり、影の薄い存在である。
いや、むしろ他の神殿がその地の民に慕われ、頼りにされる分だけ存在感は大きいと言えるだろう。総本山の神殿は、宮の付属品のような位置に長らく置かれ続けてきた。
それだけに、今、こうして侍女頭と神官長が対等の位置で話をしていることが、二千年の歴史から見て異様とすら言える状況なのだ。
「では、侍女頭として神殿の長、神官長にお願いをいたしましょう。マユリアのお心を乱すようなことはやめてください」
「ほう」
神官長は軽く驚いた声を出す。
「私が一体マユリアに何をしたと申されます」
「どのようになさったか分かりませんが、リュセルスの様子をお知らせなさいました」
「どうやって? 私は今、マユリアに面会もさせていただけない状態でおりますが」
そうだ。キリエがマユリアにもう少し猶予をくれと、その間は神官長への面会も断っていただけないかとお願いをしたのだ。そしてマユリアもそれを承諾してくださった。
「どうなさったのかは分かりません。ですが、宮では、特に奥宮ではそのような話題は一切せぬように、そう命じております。交代の時をお迎えになるまで、シャンタルとマユリアには世俗のことをお伝えせぬように、お心安くお過ごしいただくためにと。誓いを立てた侍女は、その命を守らぬということはありません」
侍女頭から侍女への信頼はかくも厚い。
「そんなことはないでしょう。役目の折々には足を運んでおります」
ここは神官長の執務室だ。キリエが神官長に正式に面会を求め、案内された。
「ということは、お役目の話でここへ来られたということでよろしいですか」
「もちろんです」
キリエが腰掛けるテーブルの前にはふわっと焼き上げられ、とろりとクリームがかけられたケーキと、花の香りのする高級なお茶が出されている。
「お役目で来られてもお茶ぐらい飲んではいただけましょう」
「せっかくのご好意ですが、お茶を飲むために参ったわけではございませんので」
「何も入れてはおりませんよ?」
神官長が薄く笑いながらそう言った。
セルマに命じてキリエの食事に薬を入れさせておきながら、この平然とした冗談とも取れる言い方に、キリエはあらためて気持ちを引き締める。一筋縄でいく相手ではない。
「そんなことは思っておりません。ただ、役目の時にはいつも何もいただかないと決めているだけです」
本当のことだ。
「さようでしたか、申し訳ありません。では、これは下げさせることにいたします。なあに、今日の当番の茶菓子になるだけのこと」
神官長が当番の神官を呼び、侍女頭は役目の時には何も口にされないそうだ、おまえがいただきなさいと言って下げさせる。神官は丁寧に礼をしてから下がっていった。
「普通なら口にできぬ最上級の菓子と茶。一度、そういうものを口にして、これから先、あの者の人生に変わりがなければいいのですが」
贅沢を知らぬ神官に分不相応な贅沢。その一口の菓子がその者人生に影響を与え、人生観を変え、そして生き方そのものを変えてしまう可能性は確かにある。そこまでのことはなくとも、この先、二度と口にできぬかも知れぬ菓子を思い、苦しむことになる可能性も。
神官長はそれをできるだけ平坦な言葉で、キリエの良心に切り込む言い方で伝えてきた。
嫌な言い方だとキリエは思ったが、その思いを顔にも口にも出すことはない。これがもしも他の者なら、良心の呵責を感じたり、指摘されたことで驚いたりするかも知れないが、自分はそのような人間ではない。そんな感情を全て押し殺し、宮に生涯を捧げてきたのだ。今更そんなことの一つや二つで動揺などするはずもない。
無音の室内。
さっき神官が下げたお茶が残した温度が最後の温かさであったかのように、その温かさが冷えると共に、まるで温度すら存在しないような静寂が神官長の執務室に満ちていた。
まるで一幅の絵のように、凍った時が流れた。
「では、お役目の話をうかがいましょう」
「ええ」
神官長もキリエも何事もなかったかのように話に入る。
片方はシャンタル宮の人の頂点に立つ侍女頭、もう片方は神殿の長たる神官長。
役割を考えるなら、ごく普通の光景であるはずだ。
だが、今は命がけの決闘のような対峙。
「リュセルスの様子にマユリアがお心を痛めていらっしゃいます」
キリエが前置きなく用件を口にする。
「ほほう」
神官長が慈悲深い微笑みを浮かべ、ゆるやかにそう言った。
「シャンタルとマユリアには、そのような世俗の騒ぎはお耳に入れぬようにしてまいりました。それを、誰がそのようにお知らせになったのかが分かりません」
「それはそれは、不思議なことですなあ」
「ええ、本当に」
「それで、それを神殿にどうしろとおっしゃるのでしょう。そもそも神殿も宮の一部、そのようなことは侍女頭のキリエ様のお心一つでどうとでもなりましょうに」
その通りだった。
シャンタル宮の神殿は、全国の神殿の総本山だ。だが、その役割はシャンタル宮の指示の元、女神の託宣を民に伝え、宮が平穏に無事に運営するための補佐が主であり、影の薄い存在である。
いや、むしろ他の神殿がその地の民に慕われ、頼りにされる分だけ存在感は大きいと言えるだろう。総本山の神殿は、宮の付属品のような位置に長らく置かれ続けてきた。
それだけに、今、こうして侍女頭と神官長が対等の位置で話をしていることが、二千年の歴史から見て異様とすら言える状況なのだ。
「では、侍女頭として神殿の長、神官長にお願いをいたしましょう。マユリアのお心を乱すようなことはやめてください」
「ほう」
神官長は軽く驚いた声を出す。
「私が一体マユリアに何をしたと申されます」
「どのようになさったか分かりませんが、リュセルスの様子をお知らせなさいました」
「どうやって? 私は今、マユリアに面会もさせていただけない状態でおりますが」
そうだ。キリエがマユリアにもう少し猶予をくれと、その間は神官長への面会も断っていただけないかとお願いをしたのだ。そしてマユリアもそれを承諾してくださった。
「どうなさったのかは分かりません。ですが、宮では、特に奥宮ではそのような話題は一切せぬように、そう命じております。交代の時をお迎えになるまで、シャンタルとマユリアには世俗のことをお伝えせぬように、お心安くお過ごしいただくためにと。誓いを立てた侍女は、その命を守らぬということはありません」
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