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 翌日、磯村塾を俺は訪れた。先生は風邪を引いたとかで不在だったが、それでも塾内は活気に満ちている。己の好きなものに打ち込む、そんな幸福な行為に各々の顔にはやる気が満ち目は輝いていた。
 だが、実をいえば俺の父は算術が大嫌いだった。とある家中の士で、儒者でかつ、算術を中心に他の学問に祖父は精通していたが、父はまったくその血を受け継がずどれだけ努力を重ねても遅々として祖父の領域に近づくことはできなかった。ためには、終いには御家人に養子に出された。だが、小禄であっても学問に縁のない家の家督を継いだ父にしてみれば肩の荷が下りた思いがしたことだろう。
 しかし、皮肉なことに俺は祖父に似た。好奇心が旺盛で何事にも「なぜ」という言葉を連発した。そんな俺を祖父は可愛がってくれた。
 けれども、父は疎んじた。「つまらぬ理屈をいくらこねたところで、いざ戦働きが求められる折となれば何の役に立つ」というのが口癖だったのだ。あきらかに祖父への劣等感が育んだ物の見方だろう。
それを物心がついて少しする頃には俺は理解しながらも、つまらぬ因習に縛られて、と父や父の背後にある理不尽な習慣ばかりが支配する武士の世間というものを鬱陶しく思った。反対に、絶対の一つの“答え”がある算術にはまっていった。長じてからは庶子であるのをいいことに、祖父の紹介で大名家の学者のもとを訪れたりするようになる。
だが、そんな輝く日々にも終焉がやって来た。兄が病で世を去ってしまい、さらには父が理由は分からないが朋輩に斬られたのだ。
それゆえ、仇討のために江戸にやってきた。そのはずだったが、気づけば縁を頼りに算術の私塾に入りびたり転がり込んでしまっている。
「今のままでよいのか」
 俺を、東市右衛門の言葉が我に返らせた。部屋の隅のほうで俺はこやつと立ち話をしていたのだ。
「そんなことをいわれてもな」
 言葉を濁し、市右衛門に応じるしかない。
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