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第六部~梅花悲嘆~
第二十五話 無邪気な牡丹
しおりを挟む――黒い闇が消え去った。暖かいほどに、己を包んでいた闇が消え、咽せるほどの花の匂いがしてきた。梅の香り、東洋の香り。どこかエキゾチックな香りで、その香りに頭の芯がぼうっとする。
気付けば闇が消えて目に映った物は、黒い影たちだった。もやもやとしていて、それを掴めば、何かに気付くことができそうだったのに。触れようとすると、黒い影は、消えてしまう。だから男は、――どんどんと心細くなっていく。
(こんな気持ちになるなら、闇を晴らさなければよかった)
だが望んでも闇は消えたままで、花の匂いが強くなっていくだけ。此処は花畑などではなく、一輪しか花はないのに。そう、菫の花、一輪だけが。
男はしゃがみこみ、それに触れる。それに触れれば、一人だけ大量に情報の抜けた頭に染み込むように、記憶されていく。
スミレ――己の一人だけの味方。そんな認識をすると、梅の花の香りがより一層強くなり、消え去った闇に逆恨みともいえる憎さが募る。
(どうして、消えた。どうして、俺の前から消えた? お前は、離れないと思っていたのに)
どこかで、この気持ちに、大きな虫食い穴を見つけたときのような嫌な感覚を味わったが、それよりも梅の香りが、五月蠅くて。もう、己が闇をどんな風に考えるのが嫌なのかなんて判らなくなっていた――。
「牡丹――」
菫の花が、揺れて呼ぶ。
「牡丹」
菫の花が、暗くなる己を励ますように、風に揺れて、楽しませる。
そんな夢を見て、目が覚めると、近くに緑銀の男――菫が居た。
己はベッドで寝ていて、菫が手をずっと握っていたのか、少し痺れてる様子で、己が握り返すと、悶えていた。
「――スミレ?」
「牡丹、か?」
「――それが、俺の名前? スミレが名付けてくれたの? お頭は、俺に名前つけていいって言ったの?」
己がそう言うと、菫は顔を顰めた。だってそうでなければ、己は名無しのままだった筈だ。菫はお頭の言うことをよく聞いていたから、お頭の言いつけを守らないわけがない。
菫は顔を顰めた後、ぎこちなく微笑んで、頭を撫でてくれた。
「そう、オマエの名前は牡丹やで」
「そっか。ねぇ、何だか凄く大きくなったんだな、菫。あれ、俺も大きい……」
「牡丹、オマエは、事故ってな。少し大きい時の記憶が飛んどるんや」
「大きいときの記憶?」
牡丹は首を傾げる。それから、少し視界がぼんやりすることに気付いて、これもその所為だろうか、と戸惑っていると、菫が眼鏡を渡してくれた。
「これを掛けい。――牡丹、何も心配いらんよ。僕が、オマエをミシェルに連れて行って、面倒みたるわ」
「ミシェル? 何それ、どこ? ユグラルドじゃないの? ――お頭は?」
「牡丹、オマエは何も考えんでええ。僕が、オマエに必要なことだけ、教えたるから。な? それじゃ嫌か?」
菫の優しく穏やかな態度に、牡丹はきょとんとし、すぐに無垢な笑みを見せる。彼が「陽炎」だった頃を知る者が居れば、「陽炎」という人物は荒んで育ったんだな、と思うほどに無邪気で。
「判った。スミレの言うこと、聞く。一緒にミシェルに行く」
「そうか、そら良かったわ。だけど馬車の時期は、逃してしもーたからな、まだあと少し先になるけど、ええか?」
「――スミレは側にいるか?」
不安そうな表情で牡丹が問いかける。菫はその幼い表情全てに、懐かしさを感じると同時に、何処か虚しさも感じたが、無視をした。この気持ちに気付いては駄目だ。今が、一番幸せなのだから。
「大丈夫、側におる! 僕ぁ、牡丹が大好きやからな?」
「俺もスミレは好きだよ」
綺麗な色の瞳を穏やかに細めて、牡丹は笑った。牡丹の無邪気な笑みを見ていると、ああ彼は本当に幼い頃の状態に戻ったのだと、心の何処かが残念がる。残念がって、前に向けられた警戒心の塊だった表情を思い出す。
でも、牡丹という存在が嫌いじゃなく――寧ろ、初恋相手なのだから、ときめいて仕方ない。この心臓の熱や、鼓動は牡丹だからこそ。陽炎のことも好きだったが、牡丹という存在はそれだけで、己にはどんな誘惑よりも蠱惑的だった。
「牡丹、一つ言っておこうか」
だから、牽制しておかねばならない。
彼らの「近衛兵」が現れる前に、彼らに心許すような状態にしてはいけないのだ。
己だけを見つめてくれるように――そうでなくば、伊織の術は効果がない。
「おっきくなったオマエは、恨みを沢山買っていた。せやから、外は危険なんや。今、なんも出来ん状態のオマエが出たら、な? せやから、僕が出かけても、此処で大人しく待つこと、約束してもらうで」
「――……外が、危険? 俺、どんな酷いことしてるんだろう……んー、判った。スミレが言うんだ、それが正しいんだよな」
何と盲目的だ。あの頃の牡丹そのままだ。己やお頭の言葉しか聞かない、牡丹、そのまま。菫は、にこりと微笑む。
「だけど、何だか変な感じだ。いつの間にか、大きくなった気がして」
「せやなぁ。僕も――」
(僕も、最初会った時は、いつの間にか知らない牡丹がおるような気がしてなぁ――寂しかったで)
菫は心の中で呟くと、すっと立ち上がり、紙袋からフランスパンを使ったサンドを取り出し、牡丹に手渡す。側には彼が好む、ミネラルウォーターを用意して。
お腹が空いていた牡丹は、それを喜んで頬張り、あっという間に食べ終わった。
嗚呼、何と愛しい時間なのだろう。菫は思わず呟きたくなった。
こんなに愛しい時間を持つことができるなんて、思わなかった。これほどに大切な存在だとは思わなかった。諦めなくて良かった。例え、卑怯な手だったとしても。
出来るだけ使わないようにしてるとはいえ、人の心の声は自然と入ってくる。
だから、意図しなくても、屋敷で五月蠅いほどに心配してる鴉座の声が心に届くと、菫は思わず、笑みを零して、牡丹に少し不審がられる。
「何笑ってるんだよ?」
「いんや。何でもないわ――何でも、ないんや」
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