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第9部 倒錯のイグニス

#34 基礎訓練③

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 トラックは、1周400メートルの楕円形をしている。
 そこを10周ということは、4キロ走れということになる。
 普段から運動に縁のない杏里にとっては、苦行を通り越して拷問に近かった。
 2周目に入ったところで、もう横腹が痛くなり、息が上がってきた。
 汗が目にしみてチクチクする。
 躰にべっとりと貼りついたレオタードが、気持ち悪い。
 汗だくになっているせいで、生地が透け、乳首、乳輪、恥丘の割れ目まで、しっかりと見えてしまっていた。
 その証拠に、近くを通りかかるたび、ほかの部活の連中が、練習の手を休めて杏里のほうへと飢えたような視線を投げてくるのだ。
 2周めの半ばで、先頭集団のアニス、純、麻衣に抜かれた。
 3周目に入ると、更にスピードは落ち、2番手の美穂とトモの1年生コンビに抜き去られた。
 飯塚咲良とふみは、重量級なだけに足はそれほど速くないが、ドスンドスンと重い足音を立てて、すぐ後ろから迫ってくる。
「きしししっ、杏里、お尻の筋、丸見えだよん」
 追い抜きがてら、杏里の尻を撫で上げてふみが言った。
 が、杏里には抗議する気力もない。
 ふみに追い抜かれるのは、それなりにショックだった。
 バスケ部で鍛えただけのことはあるのだろう。
 肉達磨に短い手足が生えただけといった、およそランニング向きではない体型なのに、少なくとも杏里より、ふみのほうが体力は上のようだ。
 今にも倒れそうな杏里を尻目に、よたよたと巨体を左右に揺らしながら、少し先を行く咲良の背中を追いかけていく。
 5周目に入り、ほかのメンバーに2周分抜かれると、杏里はもう限界だった。
 気がつくと、ひとりだけコースを逸れ、ベンチのほうへと向かっていた。
 乳房の重みで、しくしくと両肩が痛んだ。
 片方だけで1キロ近くあるのだから、仕方がない。
 杏里の肉体は、元よりスポーツ向きにはつくられていないのだ。 
 息が苦しかった。
 喉がカラカラに干からび、舌の根が口腔内に貼りついてしまったかのようだった。
 ベンチに辿り着く前に、脚がもつれて転倒した。
 前のめりに地面に突っ込み、口の中で砂がガリリと鳴った。
 もう、だめ…。
 やっぱり、無理だ。私には。
 グラウンド突っ伏したまま、杏里は思った。
 走り込みひとつ、満足にできないなんて…。
「立てるか」
 やにわに、頭の上から野太い声が降ってきた。
 見上げると、ゴリラそっくりの小百合の顔が、逆さに杏里をのぞき込んでいた。
「せ、先生…」
 のろのろと身を起こし、杏里は砂の上に横座りになった。
「私…やっぱり、向いていません。レスリングどころか、どんなスポーツも…。だから」
 退部させてください。
 そう言いかけた時である。
「悪かった。笹原、おまえにはこんな訓練、必要ないんだ。それを言うのを忘れていたな」
 杏里の言葉を遮って、ひどく馴れ馴れしい口調で小百合が言った。
 メンバーを前にした時に使う余所行きの女性言葉ではなく、まるで男のようなしゃべり方だった。
「どういうことですか…?」
 消え入るような声で、杏里は訊き返した。
 私には、ランニングは要らないということなのだろうか?
 でも、何をやるにしても、まず身体をつくるのが先決なのではないだろうか…?
「来なさい。おまえは、私が特別にがコーチする。おまえは、ほかの7人とは違う。別メニューでやらないと」」
「別メニュー?」
 抱き起された。
 汗で湿った脇腹に、小百合の太い腕が回された。
「いい匂いだ」
 杏里の頸筋に鼻を埋めて、くぐもった声で小百合がつぶやいた。
「やめてください」
 杏里は赤くなった。
「匂いを嗅がないで。ただでさえ、汗臭いのに」
「そこがいい」
 杏里を抱えるように歩きながら、小百合の指が蠢いている。
「ちょっと腕を上げてみろ。もっと嗅いでやる。そう。この匂いだ。匂う。匂うぞ」
 レオタードの上から杏里の肌をなでさすりながら、ノースリーブの腋の下に大きな鷲鼻を突っ込んでくる。
「先生、だめ…」
 杏里の頬が引きつった。
 いやがる杏里を更に抱きしめ、小百合が言った。
「わかるか、笹原。おまえの武器は筋力でも技でもない。この身体だ。この身体さえあれば、おまえは誰にだって勝てるのだ」

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