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21話:二匹の獣の邂逅

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 旅立ちに向けてベートが支度を整えていると、外から甲高い犬の声が聞こえた。狩猟の時期には此処の領主が森で狩をする為に、よく聞く。だが、今は狩猟の時期ではなく、突発的に狩猟をする時には、事前に必ず村中に通知が来る。
 
(……)
 
 嫌な予感がじんわりと胸に広がり、胸の奥でじくじくと膿むような不安が広がっていく。小屋の中にはやんわりと優しくヴィンスの匂いが漂っているが、姿がない。自分が動きを止めれば、静寂が強く耳を刺す。
 ヴィンスの姿を確認しないと、胸の膿が解消出来ない。外に出る時のいつもの習慣どおり、獣の右腕を隠している包帯がしっかりと巻かれている事を確認すると、ベートは家の外に出た。
 
 スンスンと森の空気を嗅いで、ベートはヴィンスの匂いを辿った。湿った土の匂いと涼やかな森の匂いに混じり、段々と引き寄せられるような蜂蜜の様な甘い匂いが入り混じる。
 ヴィンスの甘い香りを辿って追うと、嗅ぎ慣れない犬達の匂いと自分以外の雄の匂いもまた、段々と濃くなった。一歩一歩と足を進ませる度に、ベートの胸の中の不安がより鮮明に濃く重くなっていく。
 
(ヴィンス……) 
 
 胸中で名前を呟きながら、歩く足の速度を速める。早くヴィンスの顔を見て、安心したい。そして自分の不安を聞いたヴィンスに、作業を放りだされた事を、叱られたい。
 
(それから此処を出て、ヴィンスがやりたい事を手伝って――) 
 
 不安を掻き消すように、歩きながらベートは幸せで楽しい夢を考え続けていた。だが、悲壮が込められていた切羽詰まったヴィンスの声が、ベートの耳に入り込み、自分が抱いた夢に危機が訪れている事を思い知った。
 
「ルナール!!」 
 
 聞き慣れない男の名前に、今まで聞いた事の無いような悲哀が込められている。それは何を意味しているのかは分からないが、ヴィンスの身が危うい事だけは確かだった。
 
「ウゥ……!!」
 
 小さく唸りベートは走った先には、ナイフを持つ壮健な体格をしたきつね色の髪と瞳をした男と、その男に蹂躙されたであろうヴィンスの姿があった。
 
「――っ!!」
 
 痛々しいヴィンスの姿に、言葉は一気に蒸発した。ヴィンスを傷つけたこの男への怒りを抑えられずにガチガチとベートが歯を鳴らす音を合図に、男はナイフを構えて襲い掛かった。
 
「ガァウ!!」
 
 大きく吠え、ナイフを持つ腕を掴もうとベートは手を伸ばすが、その動きに反応して男は距離を取る。己への殺意を隠す事なく放ちながらも、安全圏を常に確保し弱点を狙う手慣れた対応に、ベートは男が森だけではなく、『人間』同士との戦いにも精通した存在であるのだと悟った。
 
「ぅう……」 
 
 自分が傷つく痛みになら、耐えられる。だが人間を傷つけ、殺す。その対象がヴィンスを傷つけた相手であったとしても、その行為に対する忌避の念はどうしてもベートには拭えなかった。対して男の方は、自分を傷つけ、殺す事に何の呵責も抱いていない。戦いにおいて、その精神面の差は圧倒的な不利な状況を作り出していた。
 
「あああっ!!」 
 
 ならせめて男の放つ殺意からヴィンスの壁になるべくベートは腰を屈めて走り、間を取った。自分へと接近する男に対し、左手を握り締めて男の胴へと拳を打とうとするがナイフが大きく振り上げられ、自分を突き刺そうと一気に降ろされる。
 
「ガァウ!!!」 
 
 反射的に包帯を庇おうとベートは左半身を男の前に向けて距離を取ろうとするが、それを男は自分が右側を負傷していると思ったのだろう。
 瞬時に男はナイフを持ち替え、明確に示された右腕の方へと狙いを変えた。その動きにベートは反応しきれず、がら空きの右腕にナイフが光を反射して閃いた。
 
 己に宿る獣性が、男との距離が一番近づく瞬間に、この獲物の喉笛を噛み千切れと吠え猛る。
 
(ヴィンスの目の前で……殺すのか?) 
 
 その一瞬の躊躇いが、ベートの動きを鈍らせる。男のナイフがわずかに右腕の包帯を掠め、引き裂かれた布がハラリと落ち、獣の毛並みが露になった。
 
「あ……」
 
 ナイフで包帯が切り裂かれ露になった獣の腕に、ベートの頭に理性が戻る。己と対峙している正しいモノに愛された男の完璧な身体を目の前にすると、不完全で醜い己の身体をより一層自覚する。
 
「っ……、ぅ……」 
 
 ベートは男から距離を取り、右腕を隠そうと身体の左側を前にした。自らの異形を恥じて恐れるベートの反応を目にした男は、おぞましいものを見るように大きく目を見開いた。
 
「化け……物」 
 
 忌々しさの込められた呟きに、胸が大きく痛む。この姿を他人に見られた時、どんなに忌み嫌われるかを覚悟していたが、実際に向けられた嫌悪の念は、想像した以上に胸を締め付けたと同時に、『これ』こそが、自分に対する正しい反応だと強く思い知らされた。
 
「お前が……お前みたいな化け物が!! ヴィンスの傍に居たって言うのか!!」 
 
 大きく激昂する男の声に、ベートの心臓が凍り付く。『人間は、異形に対してどこまでも残酷になれる』と言い聞かせていた師匠の言葉を目の当たりにして、ベートは静かに俯いた。
 
(きっと……神様に嫌われてる化け物の俺が、ヴィンスと一緒に居たいって欲張ったことを願ったから――神様はヴィンスの事まで嫌いになって、だから酷い目にあったんだ)
 
 こんな化け物に優しくしてくれたヴィンスに、自分が返せるただ一つの事。それは自分の身体を男がナイフで刺した瞬間に、この男の喉笛を、噛み切る事だ。そうすれば、ヴィンスを傷つけるモノは居なくなり、ヴィンスは安心して望んだ事が出来るようになる。
 
「ヴィンス――ごめんね」 
  
 ベートが背後のヴィンスへと語りかけると、男の顔が怒気により赤く染まり、叩きつけるように叫んだ。 
 
「怪物が――ヴィンスの名前を口にだすな!!」 
 
 男の言葉が、ベートの心を抉りだす。この左腕は、己が人とは異なる徹底的な証であった。
 
「そう――だね」
 
 言葉を吐いた口の中には、苦い味が広がってくる。
 
(ヴィンスの傍に居たいって、生きたいって思わなかったら、もっと早く終わらせられた。人を殺した俺を、ヴィンスが怖がって今までみたいに見て貰えなくなるのが嫌だって思わなかったら……もっと早く踏み越えられた)
 
 男がナイフを構え、こちらに襲い掛かってくる。それは、自分の身体にナイフが刺さる瞬間が近づいているという事だ。ナイフが身体に刺さったとしても、出来得る限り動けるよう、獣の右腕を見られたくないと演技をしながら、男に気づかれないように急所を守る。
 
「――え?」 
 
 身を貫かれる痛みを覚悟した時。弱弱しいが確かな力でベートは『安全圏』へと突き飛ばされる。
 
「っ――!!」
 
 花と鉄錆が混じり合った香りが鼻をつき、艶やかな黒髪を揺らめいた。ベートの視界には守りたくてたまらないヴィンスの右腕に、ナイフが向かう光景が映っていた。 
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