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Kapitel 10:母親
訪問者 02
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白と天尊は、二人で家から出た。
ガチャリ、と玄関に施錠して白は、はあ、と疲労したような嘆息を漏らした。
「随分と余所余所しいんだな、アキラも母親も」
白は、天尊がわざとのように尋ねていることを感じ取り、苦笑いをした。
母親だという女性に対して白は敬語を使い、彼女は頑なに〝銀太の母親〟であることを主張する。母子という関係にしてはあまりにも余所余所しいことくらい、白も自覚はある。
「用事があるんじゃなかったか」
天尊にそう言われ、白は何とはなしに空を見上げてみた。水色の空、程よい塊で浮かぶ雲、遙か彼方の太陽、横切る風、総じて穏やかな週末。予定外に外出することになってしまったが、出歩くには悪くない天候だ。
「そうだなあ。ついでに夕飯の買い物にでも行くよ」
「用事なんか無いんじゃないか」
「うん。無いんだ」
白はハッキリと答え、ハハハと笑った。
その空々しい笑みは努めて明るく、事態を軽く見せようと振る舞っているように感じた。天尊はそれに気づかない振りをした。
「まあいい。要は時間潰しをする必要があるわけだ。何処へ行く?」
「付いてきてくれるの?」
「暇だからな」
「お互い時間潰しするのが大変だね」
天尊は白の頭の上に手を置いてグリグリと撫でた。
白は天尊を見上げてボーッと見詰めた。大きな手の平に包まれるように撫でられるのは、心地良くて安心した。
それから数秒後、何かを思いついてパチッと目を大きく見開いた。
「空を飛ぶのって、どんな感じ?」
意外な質問をされた天尊は、白の頭から手を浮かせて片眉を引き上げた。
「ティエンは好きなときに自由に空を飛べていいなあ。ボクも飛んでみたい」
天尊は腰を折って白に顔をズイッと近づけた。
白は「何?」と目をパチクリさせた。
「アキラが言うとは予想外だった。そういうことを言い出しそうなのはギンタだと思っていた」
否、白が言い出したっておかしくはない。大人みたいにしっかりして、大人みたいに振る舞って、大人みたいに割り切っても、子どもっぽいことをしてもよい。大人びて見えるのは、そう見えるように無理をしているからだ。
それを忘れてはいけないと、忘れたくはないと、天尊は思った。どれほど大人ぶって振る舞っても、自分くらいは甘やかしてやりたい。たとえ、白自身はそれを望んでいなくても。
「飛んでみるか?」
「できるの?」
天尊は白の前にしゃがみ込んだ。白の背中と膝の裏に手を回して身体をヒョイと抱き上げた。
「わわわッ、ちょッ」
所謂お姫様抱っこの体勢になった白は、咄嗟に天尊の服にしがみついた。すぐにカッと恥ずかしくなって天尊から手を離した。
天尊は白をしっかりと抱き抱えており、取り落とすことはなかった。
「掴まっておけ」
「でも! て、ていうか降ろしてよッ」
「いいからしっかり掴まれ。空を飛びたいんだろう?」
白は天尊の服をゆっくりと握り締めた。
今日は少々駄々を捏ねたい気分だった。いつもなら、このように恥ずかしい思いをするくらいなら好奇心を抑制するのは難しくはないのに、今日は子どものように好奇心を押し通したかった。
――何処か遠くへ連れて行って。今は、何でも許される子どもの国へ逃げ出したい。
白と天尊は近所の空中散歩を終え、高層ビルの屋上の縁に腰かけていた。
天尊は片膝を立ててその上に頬杖を付き、もう一方の足は縁から放り出した恰好で、白は天尊の太腿の間にちょこんと座らされていた。
白は日常では決して体験し得ない高度からの景色に恐怖心は拭えず、天尊の服を握り締めてなるべく縁から離れるように天尊にくっついていた。チラリと下を覗きこむと、米粒大よりももっと小さな人影が蠢いている。自分は地上から遙か高い位置にいるのだと認識し、軽く吐き気を催した。
「初めて空を飛んだ気分はどうだ。想定通りか」
「気分どうこうっていうか……怖くて吐きそう」
「そうか、吐きそうか」
天尊は、青ざめた白とは対照的に、可笑しそうにアッハハと声を上げて笑った。
高層ビルを尚超える景色など天尊にとっては珍しくないだろう。同じスピードで空を駆けても、同じ高度から景色を俯瞰しても、白の心情は天尊とは一致しないはずだ。
「ティエンは自分で飛べるから、ボクとは違うんだろうね。どんな気分?」
「よくよく考えたことはない。…………。考えても浮かばんな。単なる移動の手段だ。アキラだって自分の足で歩けることに毎日イチイチ感慨深くはならんだろう」
「そっか。ティエンにとっては空を飛ぶのも道を歩くのも、当たり前のことだもんね」
「でも今は少し違う」
「?」
白は不思議そうに天尊の顔を見上げた。
天尊は白と目が合うと、白い歯を見せてニッと笑った。
「アキラと一緒だからな」
歯を剥いて少年のように無邪気に笑いながら、何を考えてそのようなことを言うのか。どのような意味でそれを言ったのか。
白は天尊の言葉の意味をそれ以上深く考えることを、無意識に、強制的に、中断した。
白の目線は自然と下へと落ちてゆき、天尊は見るともなしに薄水色の宙へと視線を投げた。
「俺は家族なんだよな」
「うん?」
「なら、アキラたちのことを訊く権利は、俺にあるか」
「ボクたちのこと?」
天尊は、かつて白が零した言葉を憶えていた。
――「ボクを殺さないで、ママ」
悪夢に魘されて漏れた寝言に信憑性はない。あの母親は乱暴な節などない柔和な美女だった。しかし、白は過ぎるくらいに他人行儀に接し、銀太はぎこちなかった。見掛け通りの人物であるなら、この姉弟が警戒するはずがない。天尊は初めて見た人物の一見した印象などよりも、この姉弟の言動を信じた。
「言いたくないなら、言う必要はない。無理には訊かん。アキラが話す気になるまで待つ。二度と訊くなというなら、そうする」
「ううん。もうティエンにはいつ訊かれても話せるよ。とっくに心の準備はあるけど、タイミングでもなかったし……訊かれてもないのに話すのも変かなって。無理に訊かないようにしてくれてたんだね、ありがとう」
天尊は小さく顎を左右に振った。
これまで姉弟の事情に触れずとも共に暮らせた。このまま知らずとも家族でいられる。それでも知りたいと思うのは自身のエゴだ。白から礼を言われるのは不相応だ。
「あの人のボクへの態度、やっぱり変?」
「正直、母子としては違和感があった」
白や銀太の反応も余所余所しかったが、あの母親の白だけを排除しようという意思は露骨だった。顔だけはにこやかなのに、ともすれば攻撃の意思すら感じられた。
「ボク、あの人に嫌われてるから」
「母親なのにか」
「あの人とボクは、血が繋がってないんだ」
白は天尊の胸板に頭を置き、ふぅ、と一息吐いた。
天尊は、そうか、とだけ返事をした。白はまるで他人事のようにスラリと言ったから、天尊も大仰に受け取らなかった。
「父さんの一人目の奥さん――――ボクの母さんは、ボクが小さい頃に死んじゃったんだ。あの人は父さんの二人目の奥さんなの。ボクの母さんっていうには、少し若いでしょ。確かまだ30歳くらいだよ」
「まあ少し、幼い感じはしたな」
外見や雰囲気だけなら天尊よりも年若い印象を受けた。銀太ほどの子どもを持っているにしては、少々若すぎるくらいだ。
「父さんが再婚したときは嬉しかったよ。お母さんっていうよりはお姉ちゃんができたみたいなカンジだった。あの頃は、あの人もボクに優しかった。最初からは……嫌われてなかったと思う。それで、父さんたちが結婚してすぐに銀太が生まれた」
「じゃあアキラとギンタも」
「うん。異母姉弟だよ。赤ちゃんの銀太、ものすごく可愛くって、赤ちゃんの反応見るの楽しくて、けっこーイイ思い出。ミルクあげたり一緒に寝たり、おうちのお手伝いしたり、好きだったし」
あの頃はまだ、銀太の母親も白に優しかったし、よく笑っていた。白も笑っていた。あの頃はまだ、嫌われていなかったと思う。白もあの人のことが好きだった。あのまま毎日が続いていくことを、あのまま穏やかに笑っていられることを、殊更神様に願う必要すら無く子どもらしく漫然と信じていた。
否、今ほど自身の立場を自覚していたとしても、たとえ成人した大人だったとしても、予期し得なかったであろう。漫然と在るものだと信じていた日常が、気づかない内にゆるゆると融解するなんて。
始まりはいつだったのだろう。切欠は何だったのだろう。兆候にもっと早く気づいていれば何かは変わっていたのかな。今となっては誰も何も分からない。
「でもあの人、ちょっとずつおかしくなっちゃって」
「おかしく?」
「ノイローゼになっちゃったんだって。専業主婦で元々そんなに外出したりしない人だったけど、家のなかでも閉じ籠もりきりになっちゃった。ご飯のときにリビングにも出てこなくて、一日中自分の部屋にいるの。部屋に誰かが入るのも嫌がって、いつも真っ暗な部屋でひとりでいるの」
「お前たちのことは放ったらかしでか」
「あの時は子どもの相手をする余裕なんか無かったんだと思う。人と顔を合わせることとか会話自体が、ちょっと難しかったみたい。あんなに笑う人だったのに……」
白は声を窄め、寂しげに目を伏せた。姉のように慕った年若い母に起こった変化は、幼い白にとって予想外かつ大変残念だった。
「勿論、銀太の世話とかもできる状態じゃないから、大人同士でいろいろ話し合って、父さんとあの人は離婚した」
「母親は何故おかしくなった」
「病院の先生が言うには……心がね、疲れちゃったんだって。本当の原因はよく分からないけど。あの人〝ボクが悪い〟しか言わないから」
「アキラが悪いとはどういう意味だ?」
天尊は少々ムッとして白に尋ねた。
白は、天尊がムッとしたのは全面的に自分の味方をしてくれるからだと分かり、フフッと自然と笑みが零れた。
「分からない。ボクが気づいてないだけであの人に何かしたのかもしれないし、してないのかもしれない。父さんには深く考えるのはやめなさいって言われた。あの人のことはボクには分からないよ……嫌われてるしね」
「そうだな。父親の言うことは正しい。アキラはもう考えるな。自分を嫌っている相手のことなど理解する必要はない。どうせ向こうも此方を理解しようとはしない」
「何かティエン、機嫌悪い?」
白に指摘されたのは不覚。天尊は気を落ち着ける為にフーーと長めに息を吐いた。
「アキラを嫌うなど、機嫌も悪くなる。誰がアキラを嫌っても、俺はアキラが好きだ」
白は天尊の顔を見上げて目を見開いた。
天尊は、咄嗟に声も出ないほど驚いた白の顔を見て、眉間に皺を寄せてクッと笑った。
白はハッと我に返り、途端に恥ずかしくなってパッと顔を背けた。
「あ、ありがとう。ボクもティエンのこと好きだよ」
「……そうか。アキラも好き、か」
天尊は腕を伸ばして白を囲って指を組み合わせた。白の頭頂に顎を置いた。
ガチャリ、と玄関に施錠して白は、はあ、と疲労したような嘆息を漏らした。
「随分と余所余所しいんだな、アキラも母親も」
白は、天尊がわざとのように尋ねていることを感じ取り、苦笑いをした。
母親だという女性に対して白は敬語を使い、彼女は頑なに〝銀太の母親〟であることを主張する。母子という関係にしてはあまりにも余所余所しいことくらい、白も自覚はある。
「用事があるんじゃなかったか」
天尊にそう言われ、白は何とはなしに空を見上げてみた。水色の空、程よい塊で浮かぶ雲、遙か彼方の太陽、横切る風、総じて穏やかな週末。予定外に外出することになってしまったが、出歩くには悪くない天候だ。
「そうだなあ。ついでに夕飯の買い物にでも行くよ」
「用事なんか無いんじゃないか」
「うん。無いんだ」
白はハッキリと答え、ハハハと笑った。
その空々しい笑みは努めて明るく、事態を軽く見せようと振る舞っているように感じた。天尊はそれに気づかない振りをした。
「まあいい。要は時間潰しをする必要があるわけだ。何処へ行く?」
「付いてきてくれるの?」
「暇だからな」
「お互い時間潰しするのが大変だね」
天尊は白の頭の上に手を置いてグリグリと撫でた。
白は天尊を見上げてボーッと見詰めた。大きな手の平に包まれるように撫でられるのは、心地良くて安心した。
それから数秒後、何かを思いついてパチッと目を大きく見開いた。
「空を飛ぶのって、どんな感じ?」
意外な質問をされた天尊は、白の頭から手を浮かせて片眉を引き上げた。
「ティエンは好きなときに自由に空を飛べていいなあ。ボクも飛んでみたい」
天尊は腰を折って白に顔をズイッと近づけた。
白は「何?」と目をパチクリさせた。
「アキラが言うとは予想外だった。そういうことを言い出しそうなのはギンタだと思っていた」
否、白が言い出したっておかしくはない。大人みたいにしっかりして、大人みたいに振る舞って、大人みたいに割り切っても、子どもっぽいことをしてもよい。大人びて見えるのは、そう見えるように無理をしているからだ。
それを忘れてはいけないと、忘れたくはないと、天尊は思った。どれほど大人ぶって振る舞っても、自分くらいは甘やかしてやりたい。たとえ、白自身はそれを望んでいなくても。
「飛んでみるか?」
「できるの?」
天尊は白の前にしゃがみ込んだ。白の背中と膝の裏に手を回して身体をヒョイと抱き上げた。
「わわわッ、ちょッ」
所謂お姫様抱っこの体勢になった白は、咄嗟に天尊の服にしがみついた。すぐにカッと恥ずかしくなって天尊から手を離した。
天尊は白をしっかりと抱き抱えており、取り落とすことはなかった。
「掴まっておけ」
「でも! て、ていうか降ろしてよッ」
「いいからしっかり掴まれ。空を飛びたいんだろう?」
白は天尊の服をゆっくりと握り締めた。
今日は少々駄々を捏ねたい気分だった。いつもなら、このように恥ずかしい思いをするくらいなら好奇心を抑制するのは難しくはないのに、今日は子どものように好奇心を押し通したかった。
――何処か遠くへ連れて行って。今は、何でも許される子どもの国へ逃げ出したい。
白と天尊は近所の空中散歩を終え、高層ビルの屋上の縁に腰かけていた。
天尊は片膝を立ててその上に頬杖を付き、もう一方の足は縁から放り出した恰好で、白は天尊の太腿の間にちょこんと座らされていた。
白は日常では決して体験し得ない高度からの景色に恐怖心は拭えず、天尊の服を握り締めてなるべく縁から離れるように天尊にくっついていた。チラリと下を覗きこむと、米粒大よりももっと小さな人影が蠢いている。自分は地上から遙か高い位置にいるのだと認識し、軽く吐き気を催した。
「初めて空を飛んだ気分はどうだ。想定通りか」
「気分どうこうっていうか……怖くて吐きそう」
「そうか、吐きそうか」
天尊は、青ざめた白とは対照的に、可笑しそうにアッハハと声を上げて笑った。
高層ビルを尚超える景色など天尊にとっては珍しくないだろう。同じスピードで空を駆けても、同じ高度から景色を俯瞰しても、白の心情は天尊とは一致しないはずだ。
「ティエンは自分で飛べるから、ボクとは違うんだろうね。どんな気分?」
「よくよく考えたことはない。…………。考えても浮かばんな。単なる移動の手段だ。アキラだって自分の足で歩けることに毎日イチイチ感慨深くはならんだろう」
「そっか。ティエンにとっては空を飛ぶのも道を歩くのも、当たり前のことだもんね」
「でも今は少し違う」
「?」
白は不思議そうに天尊の顔を見上げた。
天尊は白と目が合うと、白い歯を見せてニッと笑った。
「アキラと一緒だからな」
歯を剥いて少年のように無邪気に笑いながら、何を考えてそのようなことを言うのか。どのような意味でそれを言ったのか。
白は天尊の言葉の意味をそれ以上深く考えることを、無意識に、強制的に、中断した。
白の目線は自然と下へと落ちてゆき、天尊は見るともなしに薄水色の宙へと視線を投げた。
「俺は家族なんだよな」
「うん?」
「なら、アキラたちのことを訊く権利は、俺にあるか」
「ボクたちのこと?」
天尊は、かつて白が零した言葉を憶えていた。
――「ボクを殺さないで、ママ」
悪夢に魘されて漏れた寝言に信憑性はない。あの母親は乱暴な節などない柔和な美女だった。しかし、白は過ぎるくらいに他人行儀に接し、銀太はぎこちなかった。見掛け通りの人物であるなら、この姉弟が警戒するはずがない。天尊は初めて見た人物の一見した印象などよりも、この姉弟の言動を信じた。
「言いたくないなら、言う必要はない。無理には訊かん。アキラが話す気になるまで待つ。二度と訊くなというなら、そうする」
「ううん。もうティエンにはいつ訊かれても話せるよ。とっくに心の準備はあるけど、タイミングでもなかったし……訊かれてもないのに話すのも変かなって。無理に訊かないようにしてくれてたんだね、ありがとう」
天尊は小さく顎を左右に振った。
これまで姉弟の事情に触れずとも共に暮らせた。このまま知らずとも家族でいられる。それでも知りたいと思うのは自身のエゴだ。白から礼を言われるのは不相応だ。
「あの人のボクへの態度、やっぱり変?」
「正直、母子としては違和感があった」
白や銀太の反応も余所余所しかったが、あの母親の白だけを排除しようという意思は露骨だった。顔だけはにこやかなのに、ともすれば攻撃の意思すら感じられた。
「ボク、あの人に嫌われてるから」
「母親なのにか」
「あの人とボクは、血が繋がってないんだ」
白は天尊の胸板に頭を置き、ふぅ、と一息吐いた。
天尊は、そうか、とだけ返事をした。白はまるで他人事のようにスラリと言ったから、天尊も大仰に受け取らなかった。
「父さんの一人目の奥さん――――ボクの母さんは、ボクが小さい頃に死んじゃったんだ。あの人は父さんの二人目の奥さんなの。ボクの母さんっていうには、少し若いでしょ。確かまだ30歳くらいだよ」
「まあ少し、幼い感じはしたな」
外見や雰囲気だけなら天尊よりも年若い印象を受けた。銀太ほどの子どもを持っているにしては、少々若すぎるくらいだ。
「父さんが再婚したときは嬉しかったよ。お母さんっていうよりはお姉ちゃんができたみたいなカンジだった。あの頃は、あの人もボクに優しかった。最初からは……嫌われてなかったと思う。それで、父さんたちが結婚してすぐに銀太が生まれた」
「じゃあアキラとギンタも」
「うん。異母姉弟だよ。赤ちゃんの銀太、ものすごく可愛くって、赤ちゃんの反応見るの楽しくて、けっこーイイ思い出。ミルクあげたり一緒に寝たり、おうちのお手伝いしたり、好きだったし」
あの頃はまだ、銀太の母親も白に優しかったし、よく笑っていた。白も笑っていた。あの頃はまだ、嫌われていなかったと思う。白もあの人のことが好きだった。あのまま毎日が続いていくことを、あのまま穏やかに笑っていられることを、殊更神様に願う必要すら無く子どもらしく漫然と信じていた。
否、今ほど自身の立場を自覚していたとしても、たとえ成人した大人だったとしても、予期し得なかったであろう。漫然と在るものだと信じていた日常が、気づかない内にゆるゆると融解するなんて。
始まりはいつだったのだろう。切欠は何だったのだろう。兆候にもっと早く気づいていれば何かは変わっていたのかな。今となっては誰も何も分からない。
「でもあの人、ちょっとずつおかしくなっちゃって」
「おかしく?」
「ノイローゼになっちゃったんだって。専業主婦で元々そんなに外出したりしない人だったけど、家のなかでも閉じ籠もりきりになっちゃった。ご飯のときにリビングにも出てこなくて、一日中自分の部屋にいるの。部屋に誰かが入るのも嫌がって、いつも真っ暗な部屋でひとりでいるの」
「お前たちのことは放ったらかしでか」
「あの時は子どもの相手をする余裕なんか無かったんだと思う。人と顔を合わせることとか会話自体が、ちょっと難しかったみたい。あんなに笑う人だったのに……」
白は声を窄め、寂しげに目を伏せた。姉のように慕った年若い母に起こった変化は、幼い白にとって予想外かつ大変残念だった。
「勿論、銀太の世話とかもできる状態じゃないから、大人同士でいろいろ話し合って、父さんとあの人は離婚した」
「母親は何故おかしくなった」
「病院の先生が言うには……心がね、疲れちゃったんだって。本当の原因はよく分からないけど。あの人〝ボクが悪い〟しか言わないから」
「アキラが悪いとはどういう意味だ?」
天尊は少々ムッとして白に尋ねた。
白は、天尊がムッとしたのは全面的に自分の味方をしてくれるからだと分かり、フフッと自然と笑みが零れた。
「分からない。ボクが気づいてないだけであの人に何かしたのかもしれないし、してないのかもしれない。父さんには深く考えるのはやめなさいって言われた。あの人のことはボクには分からないよ……嫌われてるしね」
「そうだな。父親の言うことは正しい。アキラはもう考えるな。自分を嫌っている相手のことなど理解する必要はない。どうせ向こうも此方を理解しようとはしない」
「何かティエン、機嫌悪い?」
白に指摘されたのは不覚。天尊は気を落ち着ける為にフーーと長めに息を吐いた。
「アキラを嫌うなど、機嫌も悪くなる。誰がアキラを嫌っても、俺はアキラが好きだ」
白は天尊の顔を見上げて目を見開いた。
天尊は、咄嗟に声も出ないほど驚いた白の顔を見て、眉間に皺を寄せてクッと笑った。
白はハッと我に返り、途端に恥ずかしくなってパッと顔を背けた。
「あ、ありがとう。ボクもティエンのこと好きだよ」
「……そうか。アキラも好き、か」
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