56 / 83
Kapitel 10:母親
訪問者 03
しおりを挟む
疋堂家・リビング。
耀龍と銀太の母親は、L字型のソファに垂直の位置関係に座していた。銀太は耀龍の隣にちょこんと座っていた。ふたりの前には縁花が淹れた紅茶。銀太にはジュース。
耀龍はカップの取っ手に指をかけて口の傍まで運び、立ち上る紅茶の香りを深く吸いこんだ。それから、ゆっくりとカップの端に口を付けた。
銀太の母親は耀龍の流麗な所作を物珍しそうに眺めた。
「あなたはアキラのお友だち、なのよね。どういうお友だち? クラスメイトには見えないわ」
銀太の母親から話しかけられた耀龍は、手に取ったときと同じくらいゆったりとした動作でカップをソーサーに戻した。
「どうしましょう。言葉が通じないのかしら」
「ええ。オレはアキラの友人ですよ」
明らかに此國の民ではない顔立ちから理解できる言語が出てきて、銀太の母親は小さくホッとした息を漏らした。
「アキラとはどういう関係で?」
客人に茶を出したあと耀龍の後方に控えていた縁花が、一歩前に進み出た。
「耀龍様の御一族は、本国に於かれましては、最も古き歴史を持つ由緒正しき貴族の家柄。耀龍様は、族長御大の御子息で在らせられます。現在は、留学のために此國においでです」
耀龍は縁花に、もうよいとでも言うようにフラリと手を振った。
銀太の母親は口許に手を当て、まあ、と感嘆を漏らした。
「海外の貴族の方とお友だちなんて、あの子は流石ね」
「今は一学生の身です。アキラの学校に留学しております。今日は是非ランチを一緒にと、兄とともに自宅に招かれました」
兄……、と銀太の母は独り言を零し、長身の白髪の男を脳裏に思い浮かべた。貴族の青年の兄と言われて納得がいった。確かに白髪の彼も明らかに海の向こうの顔立ちだった。
「アキラと一緒に出て行った背の高い方が、あなたのお兄さん?」
「ええ。アキラはオレと兄に、とてもよくしてくれます。兄共々、心から感謝しています。大変親切な人柄である上に成績優秀で、学校では先生方に評判がよい。素晴らしい娘さんをお持ちですね」
「あの子は昔からお利口さんでしっかりしていたわ。……し過ぎているくらいにね」
一瞬、彼女の顔面がピクッと強張ったのを、耀龍は見落とさなかった。彼女は友好的に話を切り出し、自分はにこやかに応じたのに、妙だ。女性から嫌われた経験はあまりない。少なくとも、見るからに屈強な兄や侍従よりは警戒されない風貌であると自覚している。
「アキラのお友だちということは分かったけど、銀太ともお友だちなのかしら?」
彼女はゆっくりと笑顔を取り戻し、銀太にそう尋ねた。
銀太は俯き加減で、うん、と小さな声で答えた。
「ロンはともだち、だよ」
「フフ、ありがとう。オレは兄弟のなかで一番末なので、まるで弟のようにギンタが可愛くて」
「そうでしょう、銀太は可愛くていい子なの」
「ええ。ギンタもアキラもとてもいい子ですね」
「そうね」
(やっぱり妙だな、この人。アキラの話題になると一瞬顔色が変わる)
耀龍はそうとは気取られないように彼女を観察しつつ足を組み替えた。
彼女の反応からくる違和感は気にかかる。一挙手一投足、顔の皺に至まで、肉眼で確認できる点はすべて注意深く観察することにした。
「御母様はアキラやギンタと一緒にお住まいではないのですね」
「……変かしら?」
彼女は耀龍から目を逸らし、紅茶のカップを持ち上げた。自身を落ち着けるようにフーッと少々長めに息を吐いてから、紅茶を一口飲んだ。
「いいえ。オレも母とは偶に顔を合わせる程度です」
「少し事情があって……今は一緒には住んでいないの。勿論、前は一緒だったわよ。銀太が生まれた頃くらいまではね」
「では、今日は久し振りにお会いになったのですね」
「ええ、そうよ。今日はね、とても大切な話があってきたの」
「それならアキラを呼び戻したほうがいいですね。アキラと兄を探しに人を遣りましょう」
「あの子は関係ない」
彼女の声質が明らかに変化した。
「あの子は関係ないわ。これは私と銀太の問題よ」
「ギンタに関する話ならアキラが同席すべきかと。現在、ギンタの保護者はアキラだと――」
「銀太の母親は私よ! あの子は関係ないって言ってるでしょッ」
ガッチャンッ、と彼女はカップをソーサーの上に乱暴に置いた。
突然の態度の豹変。眉間に細かな皺を刻んだ険しい表情。故に、耀龍は確信を得た。
(この人はやっぱり……アキラを嫌っているのか)
彼女は長い髪を耳にかけて自身を落ち着けようとした。ふう、と息を吐いてフラリとソファから立ち上がった。
耀龍の隣に座っている銀太の前に、両膝を突いてしゃがみこんだ。
「銀太。ママと大切なお話をしましょう。銀太とママのお話よ。これからのお話」
「これから?」
「さあ銀太。ママと行きましょう」
「いくって、どこに?」
銀太は不安げな表情で母親に尋ねた。微笑みかける母親と怪訝そうな子ども。アンバランスでちぐはぐな情景。
「ママのお家よ。銀太はこれからはママと暮らすの。おじいちゃんとおばあちゃんも一緒よ」
「おじいちゃんとおばあちゃんって?」
「銀太は覚えてないのね。ふたりに会ったとき、銀太は生まれたばかりの赤ちゃんだったから。ふたりとも銀太のことが大好きよ。とても可愛がってくれるわ」
「だからママと一緒に行きましょう。ね?」
「アキラも?」
「あの子は違うわ」
母親はキッパリと否定して銀太の手を握った。
「あの子のことはいいの。銀太があの子のことを気にする必要なんて無いのよッ」
母親から握られた手の皮膚がザワワッと粟立った。正体不明の緊張感が皮膚の上から伝わって、幼い銀太に襲いかかった。
母親は笑顔だ。しかし、心の底からの笑顔でないことを銀太は感じ取った。自身のなかの憂苦や焦燥を覆い隠すための笑顔だ。
銀太は彼女の不安定で巨大な負の感情を受け止めるにはまだ幼い。纏わりついてくる不安感を振り払うように、彼女の手を振り払った。
「オレはアキラといっしょが、いい」
母親は銀太の両肩をパシッと捕まえた。
幼い銀太は、追い縋る必死な両目に、にわかに恐怖を抱いた。
「ダメよ! あの子は銀太のお姉ちゃんなんかじゃないんだからッ!」
母親の金切り声が、銀太の小さな身体にぶつかった。
「アキラは……おねえちゃんじゃない……?」
銀太は取り零すようにポロポロと発話し、それきり大きく目を見開いて硬直した。それ以上の言葉は出てこなかった。
「あの子は銀太の本当のお姉ちゃんじゃないの。あの子は私の子じゃないんだから。私とあなただけ、ママと銀太だけが本当の家族なのよ!」
母親は、人形のように動かなくなった銀太の両肩を前後に揺さ振った。
先ほどまでの柔和な人格は嘘のよう。金切り声で小さな子どもに言い聞かせた。
「あの子のことなんていいじゃない。銀太にはママがいるわ。ママは銀太がいれば充分。あの子もあの人も、もう要らないわ。銀太もママがいればいいでしょ? ん? ね?」
「アキラは、オレの……」
「銀太とあの子は他人なの!」
――「他人」「家族じゃない」「お姉ちゃんじゃない」――
銀太の脳内を否定の言葉ばかりがぐるぐると反響する。否定の言葉は強い。強い言葉がナイフとなって幼いの心に切りつける。
銀太が唯一縋るもの、この世で唯一頼るもの、それは白との結びつき。もし断ち切られてしまったら、唯一最大信じた結びつきが無かったことにされてしまったら、自分には何も無くなる。
こんなに好きなのに、無性に求めてしまうのに、どんなに強く願っても、やはり神様は約束なんかしてくれない。
「今……何て?」
不意に白の声がして、耀龍はハッとして声のほうに目を遣った。
今し方帰宅した白と天尊が、ダイニングに立っていた。
白は急いで銀太に近寄った。白と入れ違いに、耀龍がスッとソファから腰を持ち上げて天尊の傍に立った。
「ボーッと何をしている」
天尊が耀龍に尋ねた。
「あ、いや。一緒にお茶を飲んでいたら、突然彼女が興奮しちゃって」
「この情況で、お前は何をしていると訊いている」
「何も。……ごめんなさい」
耀龍は申し訳なさそうに顔を背けた。天尊は、はあ、と嘆息を漏らした。
「銀太に何を言ったんですか……?」
白は銀太と母親の前に立ち、おそるおそる尋ねた。
帰宅した途端に飛びこんできたのは、耳を疑うような発言だった。聞き間違えであってほしいと願うほどに。
「本当のことよ。私の子どもは銀太だけ。あなたは私の子どもじゃない、赤の他人! 銀太とあなただって他人じゃない!」
「そんなことを……銀太に言ったんですか」
白の声は微かに震えていた。
その非難がましい目付きは彼女の癇に障った。
「本当のこと言って何が悪いのよ! 私は銀太に事実を教えてあげたのよッ」
「事実を言うことだけが正しいことですか。こんな小さな子どもに事実だけ押しつけるなんて……」
「ウソつきが尤もらしいこと言わないで! アンタとあの人が今まで銀太にウソを吐いて騙してたんじゃない」
「何よその顔……。私が間違ってるとでも言いたいの?」
銀太の前にしゃがんでいた彼女が、立ち上がって白をギロッと睨みつけた。
「間違っているのは私じゃない! 私は正しいことをしてるわ! 間違っているのはアンタのほうよ! ウソつき! 大ウソつきッ!」
「アキラにッ……やめ……ッ」
銀太には白への暴言は聞くに堪えなかった。やめさせようと母親のスカートを捕まえたが、突然告げられた事実に動揺して言葉が上手く出てこなかった。
白の指先はカタカタと震えていた。ゆっくりと折ってギュッと拳を握り締めた
「どっちが正しいとか間違ってるとか、そんなことどうでもいい。これは大切なことで……そんな風に乱暴に言っていいことじゃない。ボクたち家族にとって、とても大切なことなのに……」
正しさは必ずしも正義か。血の絆だけが正義か。正義を振り翳して力尽くで押しつけるのは、エゴイスティックだ。暴力と何ら変わらない。
不意に殴りつけられ、ナイフで切りつけられた、銀太の痛々しさを目にしてもまだ、自分は正しいことをしたと言えるのか。
そんなにも近くにいるのに、今にも泣き出しそうな小さな子どもの姿が、目に入らないのか。
「貴女には分からないんですか……。銀太の、お母さんなのに――……」
白の口から零れたのは、失望だった。
この人に心を許してはいけないと警戒していたはずなのに、まだ何かを期待していた。銀太の母親だから、銀太だけは傷つけたりしないと、銀太のことを想って愛してくれていると、期待していたのに。
「貴女はもう、家族じゃない」
白の肩から力が抜けて自然と拳も解かれた。
失望したら、諦めるのは簡単だ。白はこの女性に期待した想いすべてを諦めた。長年捨て去れなかった淡い期待を諦めた。今の今まで諦めきれなかった自身の往生際の悪さから、銀太を傷つけてしまったのだと後悔した。
「もう銀太に会わないでください。二度と銀太の前に現れないでください。銀太に関わらないでください。ボクたちのことは忘れてください」
白は淡々と言葉を並べた。銀太を傷つけた彼女に対して、家族ではなくなった彼女に対して、もう迷いも思い遣りもなかった。
彼女は見る見るうちに顔色を変えた。眉間に深い皺を刻み、怒りに顔を醜く歪ませた。
「何ですって⁉」
「父さんにもそのように伝えておきます。あとは大人同士で話をしてください」
彼女の甲高いヒステリックな声とは対照的に、白の声は至って平静だった。
意思を決めてしまった白には、感情的に喚くばかりでは通用しない。彼女の肩はわなわなと震えた。
「何を勝手なこと! アンタのそういうところが前から気に食わなかったのよ! 子どものクセにちっとも子どもらしくない、大人ぶって他人を馬鹿にして!」
「馬鹿にしたりなんかしてません。ボクは貴女のことが――」
バァンッ。――感情的になった彼女が、リビングの応接テーブルの表面を叩いた。
「アンタは昔から頭のいい子だったものね。誰に言わせても聞き分けのいい子、お利口ないい子。アンタから見たら、何にもできない私なんて馬鹿な大人よね。どうせ腹のなかで馬鹿にしてたんでしょ。アンタは子どものクセに大人顔負けに何でもできて、挙げ句に銀太の世話まで……ッ」
「それは貴女に好かれたくて……」
「私がしてくれって頼んだ⁉ 子どもは子どもらしくしていればいいの! 母親としての立場も、妻としての立場も、アンタが奪った! アンタが私の居場所を全部奪った! アンタの所為で私は苦しい思いしてるのよッ」
白は閉口した。
自分が何を言ってもこの人には届かない。自分の言葉も気持ちもこの人は受け取らない。嫌われて、憎まれて、恨まれているのだから当然だ。
この人は苦しいと言う。どのような言葉をかけてもこの人を救えない。苦しめるだけだ。
――この人の首を絞めている死神は、ボクだ。
「アンタみたいな子、大嫌いだったわ、最初から」
「…………。ボクは好きでしたよ……貴女のこと」
好きだった。長い髪の優しげな姉のような母が、初めて会ったときから好きだった。
好きだったから、好かれるように努力した。嫌われたくないから、よい子でいようと振る舞った。血の絆のない急造の家族だから、家族でいようと努力しないとダメだと思った。本当の家族よりも家族らしくしていないと家族でいられないと思った。
彼女に好かれるために、勉強も家事の手伝いも弟の世話も頑張った。彼女に好かれるために、いつも笑っていようと頑張った。
好かれようとしたから嫌われた。だからもう、正解なんて分からない。だからもう、何が間違っていたかなんて考えるのは無駄。家族なんて簡単に壊れてしまう。
「アンタさえいなければ上手くいったのに……。アンタなんていなければよかったのよ!」
彼女は手を振り上げた。
白はその瞬間、撲たれると思ったが、それを回避しようとしなかった。そのような気力は無かった。彼女には何を望んでも無駄だ。
――もう、いろんなことがどうでもいい。
耀龍と銀太の母親は、L字型のソファに垂直の位置関係に座していた。銀太は耀龍の隣にちょこんと座っていた。ふたりの前には縁花が淹れた紅茶。銀太にはジュース。
耀龍はカップの取っ手に指をかけて口の傍まで運び、立ち上る紅茶の香りを深く吸いこんだ。それから、ゆっくりとカップの端に口を付けた。
銀太の母親は耀龍の流麗な所作を物珍しそうに眺めた。
「あなたはアキラのお友だち、なのよね。どういうお友だち? クラスメイトには見えないわ」
銀太の母親から話しかけられた耀龍は、手に取ったときと同じくらいゆったりとした動作でカップをソーサーに戻した。
「どうしましょう。言葉が通じないのかしら」
「ええ。オレはアキラの友人ですよ」
明らかに此國の民ではない顔立ちから理解できる言語が出てきて、銀太の母親は小さくホッとした息を漏らした。
「アキラとはどういう関係で?」
客人に茶を出したあと耀龍の後方に控えていた縁花が、一歩前に進み出た。
「耀龍様の御一族は、本国に於かれましては、最も古き歴史を持つ由緒正しき貴族の家柄。耀龍様は、族長御大の御子息で在らせられます。現在は、留学のために此國においでです」
耀龍は縁花に、もうよいとでも言うようにフラリと手を振った。
銀太の母親は口許に手を当て、まあ、と感嘆を漏らした。
「海外の貴族の方とお友だちなんて、あの子は流石ね」
「今は一学生の身です。アキラの学校に留学しております。今日は是非ランチを一緒にと、兄とともに自宅に招かれました」
兄……、と銀太の母は独り言を零し、長身の白髪の男を脳裏に思い浮かべた。貴族の青年の兄と言われて納得がいった。確かに白髪の彼も明らかに海の向こうの顔立ちだった。
「アキラと一緒に出て行った背の高い方が、あなたのお兄さん?」
「ええ。アキラはオレと兄に、とてもよくしてくれます。兄共々、心から感謝しています。大変親切な人柄である上に成績優秀で、学校では先生方に評判がよい。素晴らしい娘さんをお持ちですね」
「あの子は昔からお利口さんでしっかりしていたわ。……し過ぎているくらいにね」
一瞬、彼女の顔面がピクッと強張ったのを、耀龍は見落とさなかった。彼女は友好的に話を切り出し、自分はにこやかに応じたのに、妙だ。女性から嫌われた経験はあまりない。少なくとも、見るからに屈強な兄や侍従よりは警戒されない風貌であると自覚している。
「アキラのお友だちということは分かったけど、銀太ともお友だちなのかしら?」
彼女はゆっくりと笑顔を取り戻し、銀太にそう尋ねた。
銀太は俯き加減で、うん、と小さな声で答えた。
「ロンはともだち、だよ」
「フフ、ありがとう。オレは兄弟のなかで一番末なので、まるで弟のようにギンタが可愛くて」
「そうでしょう、銀太は可愛くていい子なの」
「ええ。ギンタもアキラもとてもいい子ですね」
「そうね」
(やっぱり妙だな、この人。アキラの話題になると一瞬顔色が変わる)
耀龍はそうとは気取られないように彼女を観察しつつ足を組み替えた。
彼女の反応からくる違和感は気にかかる。一挙手一投足、顔の皺に至まで、肉眼で確認できる点はすべて注意深く観察することにした。
「御母様はアキラやギンタと一緒にお住まいではないのですね」
「……変かしら?」
彼女は耀龍から目を逸らし、紅茶のカップを持ち上げた。自身を落ち着けるようにフーッと少々長めに息を吐いてから、紅茶を一口飲んだ。
「いいえ。オレも母とは偶に顔を合わせる程度です」
「少し事情があって……今は一緒には住んでいないの。勿論、前は一緒だったわよ。銀太が生まれた頃くらいまではね」
「では、今日は久し振りにお会いになったのですね」
「ええ、そうよ。今日はね、とても大切な話があってきたの」
「それならアキラを呼び戻したほうがいいですね。アキラと兄を探しに人を遣りましょう」
「あの子は関係ない」
彼女の声質が明らかに変化した。
「あの子は関係ないわ。これは私と銀太の問題よ」
「ギンタに関する話ならアキラが同席すべきかと。現在、ギンタの保護者はアキラだと――」
「銀太の母親は私よ! あの子は関係ないって言ってるでしょッ」
ガッチャンッ、と彼女はカップをソーサーの上に乱暴に置いた。
突然の態度の豹変。眉間に細かな皺を刻んだ険しい表情。故に、耀龍は確信を得た。
(この人はやっぱり……アキラを嫌っているのか)
彼女は長い髪を耳にかけて自身を落ち着けようとした。ふう、と息を吐いてフラリとソファから立ち上がった。
耀龍の隣に座っている銀太の前に、両膝を突いてしゃがみこんだ。
「銀太。ママと大切なお話をしましょう。銀太とママのお話よ。これからのお話」
「これから?」
「さあ銀太。ママと行きましょう」
「いくって、どこに?」
銀太は不安げな表情で母親に尋ねた。微笑みかける母親と怪訝そうな子ども。アンバランスでちぐはぐな情景。
「ママのお家よ。銀太はこれからはママと暮らすの。おじいちゃんとおばあちゃんも一緒よ」
「おじいちゃんとおばあちゃんって?」
「銀太は覚えてないのね。ふたりに会ったとき、銀太は生まれたばかりの赤ちゃんだったから。ふたりとも銀太のことが大好きよ。とても可愛がってくれるわ」
「だからママと一緒に行きましょう。ね?」
「アキラも?」
「あの子は違うわ」
母親はキッパリと否定して銀太の手を握った。
「あの子のことはいいの。銀太があの子のことを気にする必要なんて無いのよッ」
母親から握られた手の皮膚がザワワッと粟立った。正体不明の緊張感が皮膚の上から伝わって、幼い銀太に襲いかかった。
母親は笑顔だ。しかし、心の底からの笑顔でないことを銀太は感じ取った。自身のなかの憂苦や焦燥を覆い隠すための笑顔だ。
銀太は彼女の不安定で巨大な負の感情を受け止めるにはまだ幼い。纏わりついてくる不安感を振り払うように、彼女の手を振り払った。
「オレはアキラといっしょが、いい」
母親は銀太の両肩をパシッと捕まえた。
幼い銀太は、追い縋る必死な両目に、にわかに恐怖を抱いた。
「ダメよ! あの子は銀太のお姉ちゃんなんかじゃないんだからッ!」
母親の金切り声が、銀太の小さな身体にぶつかった。
「アキラは……おねえちゃんじゃない……?」
銀太は取り零すようにポロポロと発話し、それきり大きく目を見開いて硬直した。それ以上の言葉は出てこなかった。
「あの子は銀太の本当のお姉ちゃんじゃないの。あの子は私の子じゃないんだから。私とあなただけ、ママと銀太だけが本当の家族なのよ!」
母親は、人形のように動かなくなった銀太の両肩を前後に揺さ振った。
先ほどまでの柔和な人格は嘘のよう。金切り声で小さな子どもに言い聞かせた。
「あの子のことなんていいじゃない。銀太にはママがいるわ。ママは銀太がいれば充分。あの子もあの人も、もう要らないわ。銀太もママがいればいいでしょ? ん? ね?」
「アキラは、オレの……」
「銀太とあの子は他人なの!」
――「他人」「家族じゃない」「お姉ちゃんじゃない」――
銀太の脳内を否定の言葉ばかりがぐるぐると反響する。否定の言葉は強い。強い言葉がナイフとなって幼いの心に切りつける。
銀太が唯一縋るもの、この世で唯一頼るもの、それは白との結びつき。もし断ち切られてしまったら、唯一最大信じた結びつきが無かったことにされてしまったら、自分には何も無くなる。
こんなに好きなのに、無性に求めてしまうのに、どんなに強く願っても、やはり神様は約束なんかしてくれない。
「今……何て?」
不意に白の声がして、耀龍はハッとして声のほうに目を遣った。
今し方帰宅した白と天尊が、ダイニングに立っていた。
白は急いで銀太に近寄った。白と入れ違いに、耀龍がスッとソファから腰を持ち上げて天尊の傍に立った。
「ボーッと何をしている」
天尊が耀龍に尋ねた。
「あ、いや。一緒にお茶を飲んでいたら、突然彼女が興奮しちゃって」
「この情況で、お前は何をしていると訊いている」
「何も。……ごめんなさい」
耀龍は申し訳なさそうに顔を背けた。天尊は、はあ、と嘆息を漏らした。
「銀太に何を言ったんですか……?」
白は銀太と母親の前に立ち、おそるおそる尋ねた。
帰宅した途端に飛びこんできたのは、耳を疑うような発言だった。聞き間違えであってほしいと願うほどに。
「本当のことよ。私の子どもは銀太だけ。あなたは私の子どもじゃない、赤の他人! 銀太とあなただって他人じゃない!」
「そんなことを……銀太に言ったんですか」
白の声は微かに震えていた。
その非難がましい目付きは彼女の癇に障った。
「本当のこと言って何が悪いのよ! 私は銀太に事実を教えてあげたのよッ」
「事実を言うことだけが正しいことですか。こんな小さな子どもに事実だけ押しつけるなんて……」
「ウソつきが尤もらしいこと言わないで! アンタとあの人が今まで銀太にウソを吐いて騙してたんじゃない」
「何よその顔……。私が間違ってるとでも言いたいの?」
銀太の前にしゃがんでいた彼女が、立ち上がって白をギロッと睨みつけた。
「間違っているのは私じゃない! 私は正しいことをしてるわ! 間違っているのはアンタのほうよ! ウソつき! 大ウソつきッ!」
「アキラにッ……やめ……ッ」
銀太には白への暴言は聞くに堪えなかった。やめさせようと母親のスカートを捕まえたが、突然告げられた事実に動揺して言葉が上手く出てこなかった。
白の指先はカタカタと震えていた。ゆっくりと折ってギュッと拳を握り締めた
「どっちが正しいとか間違ってるとか、そんなことどうでもいい。これは大切なことで……そんな風に乱暴に言っていいことじゃない。ボクたち家族にとって、とても大切なことなのに……」
正しさは必ずしも正義か。血の絆だけが正義か。正義を振り翳して力尽くで押しつけるのは、エゴイスティックだ。暴力と何ら変わらない。
不意に殴りつけられ、ナイフで切りつけられた、銀太の痛々しさを目にしてもまだ、自分は正しいことをしたと言えるのか。
そんなにも近くにいるのに、今にも泣き出しそうな小さな子どもの姿が、目に入らないのか。
「貴女には分からないんですか……。銀太の、お母さんなのに――……」
白の口から零れたのは、失望だった。
この人に心を許してはいけないと警戒していたはずなのに、まだ何かを期待していた。銀太の母親だから、銀太だけは傷つけたりしないと、銀太のことを想って愛してくれていると、期待していたのに。
「貴女はもう、家族じゃない」
白の肩から力が抜けて自然と拳も解かれた。
失望したら、諦めるのは簡単だ。白はこの女性に期待した想いすべてを諦めた。長年捨て去れなかった淡い期待を諦めた。今の今まで諦めきれなかった自身の往生際の悪さから、銀太を傷つけてしまったのだと後悔した。
「もう銀太に会わないでください。二度と銀太の前に現れないでください。銀太に関わらないでください。ボクたちのことは忘れてください」
白は淡々と言葉を並べた。銀太を傷つけた彼女に対して、家族ではなくなった彼女に対して、もう迷いも思い遣りもなかった。
彼女は見る見るうちに顔色を変えた。眉間に深い皺を刻み、怒りに顔を醜く歪ませた。
「何ですって⁉」
「父さんにもそのように伝えておきます。あとは大人同士で話をしてください」
彼女の甲高いヒステリックな声とは対照的に、白の声は至って平静だった。
意思を決めてしまった白には、感情的に喚くばかりでは通用しない。彼女の肩はわなわなと震えた。
「何を勝手なこと! アンタのそういうところが前から気に食わなかったのよ! 子どものクセにちっとも子どもらしくない、大人ぶって他人を馬鹿にして!」
「馬鹿にしたりなんかしてません。ボクは貴女のことが――」
バァンッ。――感情的になった彼女が、リビングの応接テーブルの表面を叩いた。
「アンタは昔から頭のいい子だったものね。誰に言わせても聞き分けのいい子、お利口ないい子。アンタから見たら、何にもできない私なんて馬鹿な大人よね。どうせ腹のなかで馬鹿にしてたんでしょ。アンタは子どものクセに大人顔負けに何でもできて、挙げ句に銀太の世話まで……ッ」
「それは貴女に好かれたくて……」
「私がしてくれって頼んだ⁉ 子どもは子どもらしくしていればいいの! 母親としての立場も、妻としての立場も、アンタが奪った! アンタが私の居場所を全部奪った! アンタの所為で私は苦しい思いしてるのよッ」
白は閉口した。
自分が何を言ってもこの人には届かない。自分の言葉も気持ちもこの人は受け取らない。嫌われて、憎まれて、恨まれているのだから当然だ。
この人は苦しいと言う。どのような言葉をかけてもこの人を救えない。苦しめるだけだ。
――この人の首を絞めている死神は、ボクだ。
「アンタみたいな子、大嫌いだったわ、最初から」
「…………。ボクは好きでしたよ……貴女のこと」
好きだった。長い髪の優しげな姉のような母が、初めて会ったときから好きだった。
好きだったから、好かれるように努力した。嫌われたくないから、よい子でいようと振る舞った。血の絆のない急造の家族だから、家族でいようと努力しないとダメだと思った。本当の家族よりも家族らしくしていないと家族でいられないと思った。
彼女に好かれるために、勉強も家事の手伝いも弟の世話も頑張った。彼女に好かれるために、いつも笑っていようと頑張った。
好かれようとしたから嫌われた。だからもう、正解なんて分からない。だからもう、何が間違っていたかなんて考えるのは無駄。家族なんて簡単に壊れてしまう。
「アンタさえいなければ上手くいったのに……。アンタなんていなければよかったのよ!」
彼女は手を振り上げた。
白はその瞬間、撲たれると思ったが、それを回避しようとしなかった。そのような気力は無かった。彼女には何を望んでも無駄だ。
――もう、いろんなことがどうでもいい。
0
お気に入りに追加
28
あなたにおすすめの小説
マインハールⅡ ――屈強男×しっかり者JKの歳の差ファンタジー恋愛物語
花閂
キャラ文芸
天尊との別れから約一年。
高校生になったアキラは、天尊と過ごした日々は夢だったのではないかと思いつつ、現実感のない毎日を過ごしていた。
天尊との思い出をすべて忘れて生きようとした矢先、何者かに襲われる。
異界へと連れてこられたアキラは、恐るべき〝神代の邪竜〟の脅威を知ることになる。
――――神々が神々を呪う言葉と、誓約のはじまり。
〈時系列〉
マインハール
↓
マインハールⅡ
↓
ゾルダーテン 獣の王子篇( Kapitel 05 )
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
再び大地(フィールド)に立つために 〜中学二年、病との闘いを〜
長岡更紗
ライト文芸
島田颯斗はサッカー選手を目指す、普通の中学二年生。
しかし突然 病に襲われ、家族と離れて一人で入院することに。
中学二年生という多感な時期の殆どを病院で過ごした少年の、闘病の熾烈さと人との触れ合いを描いた、リアルを追求した物語です。
※闘病中の方、またその家族の方には辛い思いをさせる表現が混ざるかもしれません。了承出来ない方はブラウザバックお願いします。
※小説家になろうにて重複投稿しています。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
だいたい全部、聖女のせい。
荒瀬ヤヒロ
恋愛
「どうして、こんなことに……」
異世界よりやってきた聖女と出会い、王太子は変わってしまった。
いや、王太子の側近の令息達まで、変わってしまったのだ。
すでに彼らには、婚約者である令嬢達の声も届かない。
これはとある王国に降り立った聖女との出会いで見る影もなく変わってしまった男達に苦しめられる少女達の、嘆きの物語。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/essay.png?id=5ada788558fa89228aea)
日本酒バー「はなやぎ」のおみちびき
山いい奈
ライト文芸
★お知らせ
いつもありがとうございます。
当作品、3月末にて非公開にさせていただきます。再公開の日時は未定です。
ご迷惑をお掛けいたしますが、どうぞよろしくお願いいたします。
小柳世都が切り盛りする大阪の日本酒バー「はなやぎ」。
世都はときおり、サービスでタロットカードでお客さまを占い、悩みを聞いたり、ほんの少し背中を押したりする。
恋愛体質のお客さま、未来の姑と巧く行かないお客さま、辞令が出て転職を悩むお客さま、などなど。
店員の坂道龍平、そしてご常連の高階さんに見守られ、世都は今日も奮闘する。
世都と龍平の関係は。
高階さんの思惑は。
そして家族とは。
優しく、暖かく、そして少し切ない物語。
お茶をしましょう、若菜さん。〜強面自衛官、スイーツと君の笑顔を守ります〜
ユーリ(佐伯瑠璃)
ライト文芸
陸上自衛隊衛生科所属の安達四季陸曹長は、見た目がどうもヤのつく人ににていて怖い。
「だって顔に大きな傷があるんだもん!」
体力徽章もレンジャー徽章も持った看護官は、鬼神のように荒野を走る。
実は怖いのは顔だけで、本当はとても優しくて怒鳴ったりイライラしたりしない自衛官。
寺の住職になった方が良いのでは?そう思うくらいに懐が大きく、上官からも部下からも慕われ頼りにされている。
スイーツ大好き、奥さん大好きな安達陸曹長の若かりし日々を振り返るお話です。
※フィクションです。
※カクヨム、小説家になろうにも公開しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる